最終章/白の南風、来る陽光


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「体調は良いみたいね」

「はい。ありがとうございます、先生……」

 一月(ひとつき)近くを治療にあたってくれた主治医に、哀は頭を下げた。

「本当に変わったわね。初めてあったときのことが嘘のようよ」

 建て直された校舎には新築特有の苦い香りが漂っている。白衣を着た女性から漂う紅茶の甘い香りがその苦香を和らげていた。

「憶えてる? 私があなたに初めてあったのはこの学校じゃないのよ。私はずっと昔にあなたに命を救われているの」

「……………。はい、知っています……」

 憶えている、とは言わなかった。それは自分の経験した記憶ではない。遠い昔に命を落とした一人の鬼遣の記憶だ。

「私が八局に入ったきっかけはあなたとの出逢いがあったから。色々あったけど今の自分に後悔はしていないわ」

「はい……」

「だから、胸を張りなさい。あなたのしてきたことは正しいことよ。あなたの千年の戦いは決して無駄なんかじゃなかった。大勢の人たちがあなたに感謝しているもの」

 肩に手を置く先生の言葉は真摯で、哀は素直に嬉しく思った。けれど、その嬉しいという感情は声にも表情にも現れてくれない。

 けれど先生は微笑んだ。何故かこちらに応えるように。

「行ってらっしゃい、伊月さん」

 肩に置かれた手が、くるりと向きを変えさせる。そしてとんっと背を押された。あのとき、彼がそうしてくれたように。

「彼、あなたを見たらきっとびっくりするわよ」

 先生は人差し指を立てて、いたずらっぽく片目を閉じた。

「じゃ、大熊先生。後はよろしくお願いします」

 筋骨たくましい大男がうなずき、戸を開けて出立をうながす。

「では行こうか」

「はい……」

 もう一度先生に一礼をして、哀は保健室を出た。

 ひんやりとした空気。明るい陽光の差し込む白床敷(リノリウム)の廊下。哀はまぶしさにしばし目を細めて、それから思い出したように一歩を踏み出す。

 人気(ひとけ)のない廊下は静かで、先を歩く大熊教諭の足音以外はほとんど何も聞こえない。自分の歩きは気味が悪いほどに音が立たない。

 職員室のある校舎と教室棟をつなぐ渡り廊下。その半ばほどまで来たところで、大熊教諭が立ち止まった。

 背中ごしに、彼は言う。

「─── 一言礼を言わせてくれないか。君のおかげで我々は助かった」

「いえ……。私は、何も……」

 そう、自分は彼らもろとも一つの街を見捨てようとした。それを救ったのは京平だ。最後まで諦めなかったのも彼だけだった。

「君が鬼遣の任を離れることは、私は喜ばしいことだと思う。………こういっては何だが、君はもう」

「はい……。私にはもう闘う力は残されていません。神剣を無くし、転生も出来ず、里も滅んでしまった。すでに“鬼遣”が八局より優位に立つ点はありません。あなた方の戦力にはならないでしょう……」

 ───いまは刀を握ることすら恐ろしい。それは心が弱った証拠だろう。

「………。私は君の心が弱ったとは思わないが」

 つぶやきにすぎなかった言葉を彼は聞き咎めたようだ。大熊教諭はいったん言葉を切り、振り返った。

「これだけは言っておこう。君が戦う必要はもはや皆無だ。最古の鬼神が消滅し、幽界の深淵と人界を繋ぐ門が消えた以上、表層付近からやってくる化物共ならば我々だけで充分に対応できる。安心して引退してくれ」

 そう言ってから、大熊教諭は軽く息をついて、ぼりぼりと頭を掻いた。

「どうもうまくない言い方だな。傭兵生活が長かったものでね。こういうことにはあまり慣れていない」

「いいえ……。ありがとうございます」

 彼の武骨な心遣いに礼を言うと、大熊教諭は少し驚いたような顔をした。そのあと彼は太い笑みを浮かべた、まるでこちらの表情に応えるように。

「ふむ、少し遅れてしまったな」

 彼は時計台を見てつぶやくと、歩みを再開した。哀もそれ以上声を掛けることはなく彼の後ろをついていく。

 教室の引き戸が並ぶ校舎に入ると、途端に喧噪が身を包みこむ。ささいな会話や、笑い声。それを黙らせる男性教師の怒鳴り声。女性教師のひかえめな注意。

 哀はそのすべてを心地よく感じた。

「少しそこで待つように」

 大熊教諭は扉の前でそう告げ、一人で中に入っていった。曇りガラスの向こうから声だけが聞こえてくる。

 喧噪をおさめる低い間延び声。欠席確認をして、大熊教諭が転校生の旨を伝える。自分のことが彼らの記憶から抜けていることは聞かされている。挨拶をやり直すことはわずかながら哀を緊張させた。

 入場をうながす大熊教諭の低い声。

 今までに感じたことのない鼓動の高鳴り。

 息を整え、きゅっと唇を引き結ぶ。

 そして、哀は横開きの戸に手をかけた。




       †   †   †




 校長の訓辞と教頭の長ったらしい説教を聞き終え、体育館から教室に戻ってきた生徒たちは、教師が来るまでの『自主的な』休み時間をおおいに雑談で賑わせている。プレハブの仮校舎から一ヶ月ぶりに校舎に戻れた帰郷感に、彼らの喧噪もひときわ騒がしい。

 この学校を含め、街の復旧は実際凄まじいものだった。急ピッチで進められた工事によって、この件で破壊された建物のほとんどは、事件後の一月で修復されてしまった。

 政府としては、マスコミに嗅ぎ付けられる前に事件の証左を揉み消してしまおうという目論みだったのだろうが、街の住民が一斉に起こした事件前後の記憶障害と、不可解な竜巻の異常現象が重なって、余計にマスコミの注目を惹いてしまったらしい。

「───それは分かった。で? なんでお前はここにいるんだ?」

 目の前の少年に向かって、京平は半眼の視線を向けた。

「はっはっは。これはこれは、異な事を。学生が学校にいるのは当然のことでしょう」

「エセ学生がなに言ってんだか……」

 快活に笑う実隆に背を向けるため、京平は机にのせた上体の向きを変える。すると後ろから肩をつかまれ姿勢を正された。

「朝からダラけないでよ。恥ずかしいなぁ、もー……」

 金髪緑眼に戻った楓呼が腰に手を当てて呆れている。

「うっせーな。秋眠暁を覚えずって言うだろうが」

「もう梅雨時期だけどね。あと秋眠じゃなくて春眠」

「わ、わざとに決まってるだろーが」

「どうかなぁ〜、あっやしぃ〜」

「くっ……。さ、さっさと帰れよ。SHR始まるぞ」

「あ、ごまかした」

「やかましい」

 京平はしっしっと手を振って楓呼を追い出す。

「アホ兄貴ー」

 楓呼は捨てゼリフを残して、駆け足で教室を出て行った。

「朝もはよから、ほほえまラヴですな、京平殿」

「うるさい黙れ」

 楓呼は事件のことを忘れたわけではない。あのときの記憶はしっかりと彼女の心に刻みつけられている。それでもこうして今まで通りに接してくれるのは、彼女は自分が思っていたよりもずっと大人だったと言うことだろう。

 そうやって京平が感慨にふけっていると、本鈴が鳴り、時刻通りに担任教諭が入ってきた。

「うぉーい、席つけー」

 この大男も何事もなかったかのように教師業をこなしている。今思えばこんな筋骨隆々で鬼のように強い男が教師(しかも数学)をやっていることをまず怪しむべきだった。

「永禮ー。ぼけっとするなー。欠席にするぞー」

 どうやら出席を取っている最中だったようだ。京平は慌てて返事をして難をしのぐ。

 しかし実隆がいて権佐もいるということは───この分だと夕紀先生も保健室でお茶を飲んでいそうだ。

 紅茶を片手にくしゃみをする夕紀先生の姿を想像して、京平は窓の外を見やる。

 今日は梅雨時に珍しく、空は一面に晴れ渡った青空だ。水溜まりはグラウンドに点々と蒼穹を映し、反射する陽光はきらきらと揺れて、そのまばゆさに京平は思わず目を細めた。

「あー、今日のホームルームは、男子諸君に嬉しい知らせがあるー」

 風が水溜まりを波立たせたのと同時に、権佐教諭が言った。

「ううむ、これはおなごの匂ひがしますな」

「…………」

 どこかで聞いたようなせりふだった。

「その通りだ奥山ー。女子の転校生だー。しかも美人だー」

「「「う、うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」」」

 それを聞いた男たちは次々と立ち上がり、拍手喝采を上げる。どうにも既視感を覚えずにはいられない光景だ。

「ではー、転校生ー、入場ー!」

 狂喜乱舞する男たちの声援に応えるように横戸が開いた。

「「「おぉぉぉ……」」」

 男たちは転校生の美しさに息を飲み、水を打ったように静かになった。

 女生徒は濡羽色の髪を靡かせて権佐教諭の待つ壇上に登り、チョークで自らの名を記していく。

 そして静かな所作で振り返った。彼女の瞳に刃のような鋭さはなく、年相応の少女の優しさだけをたたえていた。

「伊月哀です……。初めまして。これからよろしくお願いします」

 音量は小さいが、よく通る声で彼女は自己紹介した。そして歓声を上げて群がる男子生徒。

 並み居る飢狼が、豪快に笑う権佐教諭になぎ倒される中、彼女と目が合う。

 彼女は応えるように微笑んでみせた。とてもわずかな表情の変化。だけどそれは京平がもっとも見たいと思っていた彼女の笑顔だった。

 ───彼女の残りの人生の中で、俺はあと何度彼女を笑わせることができるのだろう。あとどれくらい同じ時を過ごせるのか。

 風が吹いた。

 窓から吹き込む幾重もの風が京平の髪をなでる。冷たくて優しい、彼女の手のような風が─────







 哀が死ぬとき、俺はきっと泣くと思う。

 哀と生きた時間すべてを思い出して泣くんだろう。

 だけど、だからこそ、俺は彼女と生きようと思う。

 その先にあるのは、きっと、悲しみだけじゃないから。









 私は死ぬのが怖い。彼を置き去りにして消えてしまう自分の命が怖い。

 彼と生きるこれからの月日は、喜びと共に恐怖と喪失感がともなうだろう。

 けれど、それが私の選んだ道。誰に言われたわけでもない。自分自身で決めた道。

 その行き先が正しいのかは分からない。この道がいつ途切れてしまうかを知ることもできない。

 一年後なのか。明日なのか。そう長い時ではないだろう。

 そのときが訪れたとき、彼は泣いてくれるだろうか。傍にいてくれるだろうか。

 気が遠くなるほどに長く存在してきた千年に比べれば、比べようもないほどに短い時間。

 それが私に残された最後の余命(いのち)。

 だけど、それが、これから始まる本当の一生(いのち)。

 京平。

 私は、あなたの風になりたい。





【完】







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