最終章/白の南風、来る陽光
3
車輪がレールの継ぎ目をまたぐたび、電車は規則正しく上下に揺れる。
バスで駅まで向かい、新幹線から各駅停車に乗り換えること数時間。世話になった村を出発したのは朝早くなのに、もう日が高い。
「……けっきょく一睡も出来なかった」
京平はげんなりとうめいて、深々とため息をついた。
一睡も出来なかった上に、昨日はなんにもなかった。いや、別に何かを期待していたわけでもないのだが。
「…………………」
隣の座席では、哀が肩にもたれかかって眠っている。息をしてないのではと疑ってしまうほど、その寝息は静かだ。
車窓を少しだけ開けると、風に乗って海の香りが吹き込んでくる。
気持ちよさそうに眠る哀を見ると、このまま寝させてやりたく思ったが、そろそろ目的の駅に着く頃だ。
「哀……」
京平は彼女の名を呼び、肩を揺すった。
「………ん……」
哀が目を開けたのを確認して、京平は荷台の荷物を取り上げようと席を立った。
電車が駅に向けて停車を始める。そのせいで足下がぐらつくが、荷物の上げ下ろしには問題ない。二人分の荷物を取り、降ろしたところで哀の異変に気付いた。
彼女の身体が、力を失ったように前へ倒れていく。
「お、おい」
京平は慌てて手を伸ばした。
「………ごめんなさい」
どこか苦しいのか、哀は支える腕に寄りかかって目を閉じている。
「大丈夫か?」
「………ん、平気」
言うと、哀は先に電車を降りた。
寝ぼけていたわけではないだろう。身体がふらついたのは別の理由だ。哀の身体はすでに癒しようがない病に冒されている。
転生したことで傷は治り、肺病も癒えた。しかし、千年の刻を越える戦いで傷だらけになった彼女の魂は、想像以上に疲弊している。やがては肉体にも影響を及ぼし始めるだろう。
彼女の衰えを見ると、本当に自分の選択は正しかったのか。もう少し自分に力があれば彼女の傷痕も癒せたんじゃないだろうかと、そんな悔いが胸に残る。
「京平……」
先に出た哀がホームで待っていた。京平が最後だったのか、降りるとすぐに電車は行ってしまった。
閑散とした駅に海風が潮の音を乗せて吹き寄せる。電車が去ったホームには京平と哀の二人しかいない。
「……………」
なんとはなしに向き合う形になって、哀は京平の顔をのぞき込んできた。
「な、なんだ?」
京平は落ち込んでいた表情を隠そうとした。が、彼女には通用しなかったらしい。
向き合った彼女の手が京平の手に触れた。握るほどの積極さはない。指先を手に触れさせる程度のわずかな繋がり。
「私は後悔してない……。今を生きて、あなたの傍にいられることが、幸せだから……」
ぼっと、顔が熱くなった。哀にしてみれば正直な気持ちなのだろうが、あまりにストレートすぎて、うれしい。
「い、行くぞ」
京平は照れを隠すように、触れていた指先をたぐり寄せて手をつなぐ。
「どこへ……?」
「ん〜。とりあえず、そこらを散歩するか」
「ん……。する……」
右手に二人分の荷物、左手に哀の柔らかな手。なぜだか、それが幸せというものなんだと分かった。
† † †
夕日に赤く焼ける海。それを背に、波を待つサーファーたち。子供連れの夫婦が遊び疲れた子供を背負って帰り支度をしていた。
京平と哀は波打ち際を並んで歩く。特別なことなどなにもなく、靴を脱いでただ散歩しているだけなのだが、哀は素足に感じる砂浜の感触を楽しんでいるようだった。
「寒いか?」
哀は海風にたなびく長い髪を押さえて首を横に振った。
「風が気持ちいい……。それに、なんだか懐かしい気がする……」
「そうか。そうだろうなぁ」
得心して京平はうなずいた。
「……?」
「さ、行こうぜ。次は町を散策だ」
疑問符を浮かべながらも素直にうなずく哀を連れて、夕方の海辺をあとにした。
† † †
「えーと、こっちの角を左……で、三つ目の角を右に行ったところか」
京平は取り出したメモをいそいそとしまうと、哀の手を引いた。
「京平………ここ……なにか……」
自分でも何が言いたいのか分からないのだろう。哀はもどかしそうに眉をひそめて何かをつぶやいている。
「いいからこっちだ。すぐに着く」
「………うん……」
不安げにうなずく哀を連れて、四〜五分歩いたところで目的地に到着した。
「ここだ」
「………ここは……」
哀は正面の家に目を奪われていた。赤い屋根。小さな花壇。潮騒がやってくる南向きの縁側。
そして、表札に書かれた二つの文字。
「『伊月』……」
「そうだよ。お前の家だ」
「……………」
無言で立ち去ろうとした哀の手をつかむ。
「逃げんなよ。お前は会わなくちゃ行けない。絶対だ」
「………でも」
迷いを消しきれない哀に構わず、京平は呼び鈴を押した。
「あ……」
「これでお前に逃げられたら、俺一人変な奴だからな」
「………ずるい」
「ずるくて結構。言ったろ。お前が無くしたもの、全部取り戻すって」
そうこうしている内に、家の扉が開いた。
「………はい、どなたですか?」
出てきたのは、柔和な容貌の女性だった。哀の年頃の娘がいるにしてはかなり若いが、心労のためか老け込んでも見える。
あまり似てないな、と京平は思った。雰囲気もそうだが、無意の優しさを感じさせる人となりだった。けれど顔立ちはどことなく哀に似ているような気もする。
「何かご用ですか?」
女性が門のところまで歩いてきて、柔らかく尋ねてきた。
「………っ」
哀は顔を隠すようにうつむく。そしてそれきり黙りこくってしまった。
───まったく、三歳児かお前は……。
京平は呆れながら哀の背を押してやる。
「ほれっ」
「あっ……」
一歩前に押し出されて、哀は女性の顔を見上げる形になった。
「………あ。わ……私……わたしは……」
哀はたどたどしく説明しようとする。おそらく哀の中では、期待とあきらめが複雑にせめぎ合っているのだろう。
十年も前のことを憶えているはずがない。あの頃とは何もかもが変わってしまっている。母の膝で甘えることのできたあの幼い子供ではなくなってしまったのだ。そういったあきらめと、もしかしたらと言う微かな期待。
それでもやはり諦観の方が勝ってしまうのか、哀は見上げるのが辛くなったように目を伏せる。助けを求めようと後ろを向きかけたとき、女性が哀の肩に手を置いた。
「哀……?」
はっと、哀が顔を上げる。女性は優しげに微笑んで言った。
「哀なんでしょう?」
「っ………………お……お母…………さん……」
哀がやっとそれだけをつぶやくと、母は彼女を腕に抱きしめた。
「お帰りなさい。哀……」
「………ただ、いま……」
母の胸に、哀は素直に顔を埋めた。
京平は二人を見守り、哀の荷物をそこに置いた。
気付かれる前にその場を離れる。自分の役目はここまでだ。母娘(おやこ)の再会に水を差すほど野暮じゃない。黙って去るのが一番だろう。
なに、逢いたくなったらすぐにでも逢える。少し遠いが、休みの日は毎日逢いに来てもいい。哀に残された時間は決して多くはないが、焦ることはない。最後まで傍にいて、一緒に彼女の大事なものを見つけようと思う。
だから今は、さよなら。