最終章/白の南風、来る陽光
2
三日後、二人の病室はもぬけのからになっていた。
───当然退院したからだ、自主的に。悪く言えば脱走とも言うらしいが、知らん。
まあ、脱走なんて言うほど大したものじゃない。夕紀先生からは明後日には退院していいとの太鼓判も押されていたし、ちゃんと書き置きも残してきた。
† † †
松葉杖をついた杏の前で、楓呼が殴り書きのメモ用紙を持って手をわななかせている。
「『そのうち戻る。間違っても警察に届けたりなどしないように、以上』〜?! なによこれっ!」
「駆け落ちッスか……。仲睦まじいことッスね……」
「杏ちゃんうるさい」
「こ、恐いッス……」
「ううぅぅぅっ! ……こ、の、馬鹿───」
† † †
───馬鹿兄貴と叫んでいる楓呼の姿が目に浮かぶ。ゆるせ妹よ。兄は行かなければならないのだ。
「約束だからな」
「……?」
「いや、なんでもねー」
首をかしげる哀に京平は苦笑を返した。
白い軽トラックの荷台で、こうやって二人して揺られているわけだが。三〇分もこの姿勢だと、さすがに尻が痛くなってきた。
道であって道でないような畦道を軽トラはのろのろ運転で走り続ける。そうしてさらに一五分、谷間の森に入った所で、ようやくトラックは止まった。
「ついたべよーぅ、新婚さん」
軽トラを運転していた農家のおじさんが声をかけてくる。新婚さんと呼ばれているのは、京平らが新婚夫婦をよそおっているからだ。高校生が平日のこんな時間にうろついていたら補導されてしまう。私服姿で着替えの入った鞄を持って───用意は万端だ。
荷台から降りようとしていた哀に手を貸し、それから前に回って京平は農家のおじさんに礼を言った。
「どうも、こんな山奥まですんません」
「いやいや、気にすることね。しかし妙な新婚旅行もあるもんだな。この辺りはなんもねえよ?」
「ああいや、ここは哀………妻の想い出の地でして」
「そーかそーか。そりゃ邪魔しちゃいけねぇな、夕方頃むかえにくっからその時にはここにいてくんろ」
「どうも、何から何まですみません」
怪しげな方言を操るおっちゃんは窓越しに手を振りながら行ってしまった。
トラックが完全に見えなくなると、京平は哀に振り返った。
「さてと。───どっちだ?」
「………こっち」
歩き出した哀について行く。
私服姿の彼女の後ろ姿は何だか新鮮だった。その服は来る途中で買った。金は………なにやら昨日実隆が吹っ飛んだところに財布が落ちていたので有効に使ってやることにした。
太い根が道をはばむ森を歩き続ける。
そびえる木々は皆大きく、様々な苔や植物と共生している。枝から無数に拡がる葉は色が濃く、霧のように降ってくる細かい翠露は香りが甘い。大樹が光合成しているのが肌で感じられるほどだ。
ここは京平にとって新鮮に感じられる場所だったが、哀には懐かしい場所のはずだ。
だが、彼女には懐郷するような様子は見られなかった。ここには忌まわしい記憶が多すぎるのかも知れない。
木漏れ日が揺らぐ。涼風が吹き抜けると、さわさわと若葉がひそめいた。
「にしてもよ。俺ってそんなに老けて見えるか?」
「………?」
歩きながらつぶやいた言葉に、哀は視線だけをこちらに向けてきた。
「ほら。さっきのおっさん、俺らが高校生だってこと全然気付かなかっただろ? 哀はじっさいに結婚できる年だったとしても、俺はまだ十七だぞ。交番で道聞いたときもまったく疑われなかったし……」
哀はひとしきり考えて、
「大丈夫」
と請け合った。
「老け顔で死んだ人間はいない……」
「ああ、そうか、そりゃ良かったって良いわけあるか。フォローになってねェ!」
むしろ傷口に塩を塗られたようだ。
哀は可笑しそうに目を細め、先を歩き出した。
「……………。老け顔かなぁ」
京平はつぶやいて、その後ろをついていった。
森に分け入ってしばらく進むと、浅い清流に行き当たった。哀は小さな岩場を器用に跳び越えて対岸に渡り、京平もそれに続く。
「あ、そこ……」
先に渡りきった哀が、京平の次の着地点を指さした。
「そこ?」
「滑るから気をつけ」
「がぼぉっ!」
哀が言い終える前に、京平は苔生(こけむ)した岩場に足を滑らせて、京平は冷たい浅瀬に落っこちた。
「………ううっ、冷てぇ……」
完全に身体がなまっている。いや、もしやこれは実隆の呪いでは。
「はい……」
哀は京平が滑り落ちた岩場に何事もなく立って、手を差し伸べてくる。
「………おう」
情けないので目を逸らしつつ、その手を取って立ち上がる。
もう水を避けても仕方がない。京平は浅い清流をザブザブとまたぎ越えた。
岸辺に上がると、森の涼風が寒さを倍増させる。
「ガチガチッ……。これじゃ風邪ひいちまうっ」
水のしたたる髪を振って、至極まっとうな意見を述べると、哀は首をかしげた。
「京平は風邪をひかないはず……」
「? なんでだよ」
「古人いわく、馬鹿は───」
「言うな。それ以上は言うなっ」
───確かに風邪など引いたことはないが、その言葉は禁句だ。
清流を渡っても、向こうには延々と森が続いている。濡れ鼠のまま、まだ歩かされるのかと思ったが、見えていないだけで目的地はすぐそこにあった。
翠深い森の中でさらに太古の色彩を残す霊草地帯。
新鮮な空気と、濃厚な草の香り。淡く立ちこめる霧は視界の邪魔にならない程度に幻想感を醸成している。不思議なことに鳥の囀りより木々の囁きの方がはっきりと聞こえてきた。
不意にそれらが、すぅっと分かれる。まるで透き通るように、しくれた景色が拓けていく。
見れば、哀が注連縄(しめなわ)を巻いた大樹の前で九字の印を結んでいた。
彼女が結界を解いたようだ。さっきまで梢がおい茂っていた場所が広場となり、奥に大きな湖と民家がちらほらと建っているのがうかがえる。
「屋敷まで行けば、暖を取れるから……」
哀の言葉で、京平は自分がずぶ濡れになっていたことを思い出した。
なにげなく心配されていることを嬉しく思いながら不可視の結界をくぐると、足下を這う冷気の感触が外のものとは違うことに気付いた。
この閉鎖された里は、空気すらも外界と断絶しているようだ。だからと言って空気が濁っているわけではない。その逆だ。塵も埃もきれいに取り除かれ、そのうえ儀式的にも浄化されていて───浄化されすぎていて、あまりにも無機質だった。
ずいぶん寂しい場所だな、と京平は思った。
里に点在する家々は焼け焦げ、ほとんどが半壊している。住人は誰もおらず、生活の匂いもまったくしない。当たり前だ。もうこの里には誰も住んでいないのだから。訶利帝母に襲撃された時、この里はとうに終わっていた。
事件の後、実隆が部隊の者とで被害者を埋葬してくれたそうだ。
死人がゼロだなんて嘘だった。やはり犠牲者は出ている。公的なところでは誰も死んでいないことになっているんだろう。けれど、非公式なところではこの事件に関わっていた人たちは何人も犠牲になっている。たぶん実隆の仲間たちも。
「………京平?」
哀が少し離れたところで呼んでいる。いつの間にか立ち止まっていたようだ。
「ああ、すぐ行く」
しても仕方のない後悔はやめて、京平は哀の所まで急いだ。
† † †
墓標の前にしゃがんだ哀が静かに手を合わせている。
墓は木簡に名前を刻んだだけの簡素なものだったが───哀は里の者全員の名前を覚えていて、すべて自分で書き記していた。
最後に老人の遺骨を埋めて、二人だけの寂しい葬儀は済んだ。
「ここは封印します……」
里のはずれまで歩いてきて、哀はそう告げた。
それは京平にではなく、墓の下で眠る彼らに言ったのだろう。
長い、本当に長い間、彼らを苦しめていたものが滅び、彼らはようやくその呪縛から解放された。
もうこの里も休ませてやりたい。哀はそう言って、里を誰の手も及ばない場所にした。
おそらく彼女が咒(まじな)いの力を使うのはこれで最後だろう───残り少ない一生の間でも。
だからその生涯の間に、彼女が失ったものを取り戻したいと、そう思う。
「これから、どこに行くの……?」
森から出たところで哀が訊いてきた。
ここに来たいと言ったのは哀の要望だった。京平の本来の目的はここにはない。
「ああ、もう少しだけ付き合ってくれ」
哀がこくりと頷いたところで白い軽トラがやってきた。
「おーう、またせたなぁ」
「いえ、今来たところですから」
愛想良く受け答えするのにもずいぶんと手慣れたものだ。というか哀に愛想がないので京平がふりまくしかない、と言うのが本当のところだったが。
「今日はウチに泊まっていきなぁ。ここいらには宿なんてねぇしなーぁ」
「いいんですか?」
「良いよ良いよ。ワシらの村はジジババしかおらんから、若い人の話をみんな聞きたがっとるんよ。………心配せんでも床(とこ)の用意はできとるでな」
農家のおっちゃんはそう言ってぐっと親指を立てた。
「い、いやあの、俺らは……」
「んん? なんだい? もしやあんたら───」
おっちゃんの目が怪訝なものになる。
「いえ、ありがとうございます! お言葉に甘えさせて貰います!」
「なら話は早い、乗ってくんろ」
怪しげな方言を使いこなすおっちゃんの軽トラに乗せられ、その日は山村の好意に甘えることになった。