最終章/白の南風、来る陽光
1
目覚めはゆるやかに訪れた。
そよ風がほほをくすぐり目覚めを助けてくれる。鼻孔に残る潮の香りは、意識がはっきりしてくると、それは錯覚だと気がついた。
眠りに就いたのはいつのことだったのだろう。途方もなく長い夢を見ていたのか、それともほんの短い休息に微睡んでいたのか。
起きたばかりの頭は働かず、何か考えようとするとまた眠くなってしまう。
思い出したように深く息を吸い、周囲の環境に耳を傾ける。
とても静かで、とてもにぎやかだ。若木にしげった葉がさわさわと揺れ、風のささやきに合わせて小鳥が歌っている。まるで天国のような穏やかさだ。
「目が覚めましたか?」
すぐ近くで声が聞こえ、京平は重いまぶたを上げた。
「実隆……」
丸椅子に腰掛けた親友の名を京平は呼んだ。海水で荒れたのどは声を出すとひどく痛んだが、それを押しても聞かねばならないことがあった。
「ここは、どこだ……?」
「大学病院です」
実隆は読みかけの文庫本を片手で閉じ、組んだ足を直した。
京平が横たわるベッドは様々な医療機器に囲まれ、その向こうで病室を仕切る白布のカーテンが風に揺られている。
酸味の残る視界で白い天井を見上げ、京平は視力の回復を待った。
「あれから、どれくらい、経った……?」
「ちょうど半月です。京平殿は海洋を漂流しているところを哨戒中の海上警備隊に救助され、ここに搬送されました。それが一週間前のことです。裏から手を回したのは私ですが、救助されたのはただの偶然です」
「俺……生きてるよな……?」
「ええ、間違いなく」
「なんで、生きてる……?」
───そして、なぜ哀はいない?
しゃがれた声で問うと、実隆は苦いものをレンズの奥に浮かべた。
「すべてをお話しします。あなたたちが命を賭したあの瞬間から、今に至るまでに起こったすべてを」
実隆は本を花瓶のそばに置き、銀縁の眼鏡を押し上げた。
「結論から申しますと、阿防羅刹鬼は完全に消滅しました。微塵も、跡形もなく」
「何、だと……?」
そんなはずはなかった。自分たちがおこなったのは封印だ。阿防羅刹鬼の打倒はすでに失敗している。だからこそ二人は、自らの命を礎に最後の封印を行なったのだ。
だが、実隆は言った。消滅だと。
そして代償にしたはずの命は何故か残り、京平はこうして生きている。
何か、言い知れようのない不安が胸をざわつかせた。
「───どういうことだっ……?! 哀は……哀は、どうなった……?!」
「落ち着いてください。すべての結論は、それを知った後に京平殿が出してください」
感覚の戻らない腕で掴みかかると、実隆はその手を押さえて静かにたしなめた。
息を荒がせたまま、実隆を睨みつける。彼は視線を逸らすことなく見つめ返してきた。
「っ……。………わかった。話してくれ」
落ち着きを取り戻せたわけではなかった。だが実隆の視線は京平が全てを受け止めなければならないことを伝え、そして京平ならばそれを受け入れられることを信じていた。
「感謝します」
実隆は目を伏せて礼を言い、後を続けた。
「まず、なぜ『羅刹鬼の消滅』という起こりえない結果に至ったのか。それこそは千年の刻を費やしてもついに不可侵の領域であったはず。祓いの頂点たる古の鬼遣たちですら、羅刹鬼を封印することはできても、ついに滅ぼすことは叶わなかった。それも不安定で短期間の封印手段しか持ちえず、過去何度も失敗しかかっています」
実隆はいったん言葉を切った。
「それに対し、当代の鬼遣殿が編み出した術は長期的な、ともすれば永遠とも呼べる時間、羅刹鬼を封じ込めることを可能とするものでした。しかしそれも封印以上のことは行えない。再び訶利帝母のような狂者が現れれば、いずれはその封印も解かれていたでしょう」
分かっている。それでもあのとき二人に出来たことは、折れた神剣を使い、自らの命を代価に羅刹鬼を封印することだけだった。
「卵細胞にまで戻された羅刹鬼を見る限り、あの瞬間までは封印の術式過程にあったはずです。しかし光球が黒卵を破り、空へと消えていくあの光景。あんなものは過去どのような文献を調べてみても載記されていませんでした。あのとき、何かが起こったのです」
「何かってなんだよ……?」
「何かは何かです。八局で調査した結果、数多くの仮説が上がりましたが、確証はなにも得られていません」
その『何か』のために自分は生き残ったというのだろうか。そして、哀は───。
「私の推測でよければお話ししますが」
実隆の言葉が最悪の予想をさえぎった。
「………。ああ」
「では……、京平殿は今ご自分の姿がどうなっているか、ご存じですか?」
「俺の……?」
そう言えば、唇を押し広げる牙の感触がない。鋼の爪があったらこんなベッドなど簡単に切り裂いてしまっているはずだ。
「今の京平殿は全くの人間です。検査の結果、鋼の骨鱗は通常の骨格に戻り、鬼の徴憑はどこにも見られないことが分かりました。それは救助される以前からで、だからこそ京平殿はどこの研究機関にも拘束されずに済んだと言えます」
生き残っただけでなく、人間の姿にまで戻れた。それは喜ぶべきことだが、何故そうなったかが分からない。あまりにも出来すぎた結末だった。
「つまるところ、現在の京平殿は、京平殿であって京平殿でないことになります」
「………。どういう意味だ?」
「鬼の中には自らの身体に擬態を施す能力を持つ者がいます。見かけは人間とまったく区別がつかないのですが、簡単な検査───例えば血液検査でもすればすぐに判別できます。ですが、京平殿は鬼神の末裔でありながら、いまや完全な人間です」
「そりゃ前は人間だったんだから……」
当たり前だと言おうとして、京平は言葉につまった。
「そう、初めから完全な人間だったのなら、我々が京平殿をマークすることも、鬼遣殿が京平殿の正体に気付くはずもなかったのです。そこから導き出される答えは暫定的に一つ。京平殿は転生しています」
「………転……生……?」
「『生まれ変わり死に変わり』。『輪廻転生の則』。『天地神明の理』。それらの法則を識り、操ることで、人は黄泉還ることが出来る。書物を読みかじった私などよりも、“京平殿の方がよくご存じなのではありませんか”」
最後の一言を強調して、彼は言った。
「そんなこと、俺が知ってるわけ───」
「知らないはずがないのですよ」
実隆は冷たくさえぎった。
「京平殿を転生させたのは京平殿自身なのですから」
実隆の言っていることが分からなかった。どうして彼はそんなにも弾劾するような目でこちらを見てくるのか。
自然の摂理に逆らって転生することは罪だから? それとも多数の犠牲者を出した中、自分だけがおめおめと生き残ったから?
光を反射するレンズに隠れた双眸からは何も窺い知ることはできなかった。
「つじつまが合わないのですよ。あなたが自力で転生したのでないのなら、今ここに存在しているはずがない。おそらく光球が闇を貫いたあの瞬間、京平殿は自らの肉体を新たに構築し、融解していく魂を集束させ、さらには喪失した記憶までもを復活させたのです」
「嘘だ! 俺にそんなことが出来るわけがない!」
「言ったはずですよ。京平殿が今ここにいることが何よりの証明だと」
実隆の言葉は、氷塊のように背中を滑り落ちる汗よりも、冷酷だった。
「転生前までは羅刹鬼級の鬼神だったあなたです。死に瀕した我が身を蘇らせるぐらいの能力はあってもおかしくはない。しかし、そのための知識がなかったことも確か。おそらくは付近にいた鬼遣殿の魂魄組成を読み取り、それを元に転生の秘術を編み上げたのでしょう。生まれつき転生体としての呪式が組み込まれている鬼遣殿の魂魄を解析すればそう難しいことではない」
あまりにも正確で無慈悲な推測は続く。
「また転生には莫大な咒力を必要としますが、神剣を触媒に用いることで、京平殿はその難題をクリアしました。神剣の機巧を使えば阿防羅刹鬼の妖力を咒力に変換して使用できる。鬼遣殿が封印のための手続きを踏んでいる中、これだけの作業を一瞬にしてやってのけた京平殿の能力は驚嘆に値しますよ」
だが実隆の口調に賞賛の響きはなかった。
「そんな……、じゃあ、俺は……!」
───哀の命を犠牲にして、自分だけが助ろうとしたというのか。
最悪の予想は、それを上回る事実によって、塗り替えられた。
「これが羅刹鬼消滅の最有力の仮説です。存在の源とも言える妖力が枯渇してしまえば、さしもの鬼神も存在できない。所詮は精神のみの存在ですから」
羅刹鬼が消滅してしまった以上、哀の役目も終わってしまっている。彼女にかけられた転生の呪いも解除されてしまったはずだ。
哀はもう生まれ変わることが出来ない。羅刹鬼と一緒に消えてしまった。
「そんな……俺は……っ……哀は……」
うめくように京平は顔に指を突き立てる。鋼の爪を失った無力な両手は、愚かな男の顔を引き裂くこともかなわない。
「京平殿……」
自己嫌悪に駆られる中、実隆の手が肩に置かれる。憐れみと慰めのこもったその手は憎むほどに煩わしい。
煩わしいのに、京平はその手を振り払えなかった。無様にも愛する人よりも己の命を取った自分の方がよほど憎かったからだ。
「実隆……俺は……」
「彼女なら隣の部屋でお休みですよ」
実隆はほがらかにそう言った。
「…………………………………………………………………………………………。は?」
「耳でも腐りましたかな? 鬼遣殿は隣の部屋でお休みになっておられます、と。そう申したのですが」
「………な……な……」
怒り。喜び。安堵。いくつかの感情が一気に噴出し、京平は呆けた馬鹿みたいな顔をした。
「はっはっは。まったくせっかちですな京平殿は。鬼遣殿が亡くなったなどとは、わたくし一言も申しておりませんのに」
「て、テメェ……!」
京平は憤怒に打ち震えて、ふっと気が遠くなる。立ちくらみだ。またベッドに逆戻りしてしまった。
「ほらほら、無茶をするからですよ。二週間近くも寝たきりだったのですから、まともに身体が動くわけがないでしょうに」
「くそっ。さんざん人の不安を煽るような真似しやがって……」
「自分だけが助かったと勘違いしたのは京平殿でしょう」
「そういう風に盛り上げたのは、どこのどいつだ」
「さあ、誰でしたか」
確信犯の少年は飄々と銀縁の眼鏡を押し上げた。
実隆の話によると、黒卵が砕けるあの瞬間、京平は二人分の命を転生させたらしい。あくまで仮説の域を出ない話だが、二人が闇を貫く光球と化したのは、転生の儀式による余波だそうだ。
その後、蘇生した二人は海洋に落下し、救助されるまでのあいだ漂流し続けていたそうだ。京平自身はその時のことをまったく憶えていないのだが。
「憶えていなくて正解です。転生の秘術───正式には反魂の法と呼ばれているのですが───は世界最高峰の咒術にして、最悪の禁術。このことが発覚すれば、京平殿はその禁止令を発布している方々にそれ相応の制裁を受けることになるでしょう。米国の中央情報局は勿論のこと、錬金術師協会(アルケミスト・ソサエティ)や法王庁(ヴァチカン)、もちろん公安八局(われわれ)にも。人権は剥奪され、地下深くに拘留されて一生実験動物扱いです。そうなりたくなければこのことは誰にも明かさぬよう」
「はっ。憶えてないものをどうやって明かせっつーの」
京平は組んだ腕を枕にして鼻で笑った。哀が無事だったことを知り、とうにやる気は失せたらしい。
「それもそうですな。歴史上、反魂の法を成功させたのは日本の安倍晴明や西行法師。あとは中国で漢の武帝が寵妃の李夫人を生き返らせたとの文献もありますが、どれも最終的には失敗しています。それを日本の劣等高校生がやってのけたなどとは誰も信じたりはしないでしょう」
「うっせ。劣等はよけいだ」
「まあ、いくら技術と知識があったとしても。羅刹鬼の膨大な妖力がなければ反魂の法も成功し得なかったのでしょうが」
「ああ、そうか。それで妖力が枯渇したってわけだ」
「そのとおり。しかし、たった二人を蘇らせただけで全ての妖力を奪われてしまうなど、鬼神の力も存外大したことはありませんでしたな」
「そんだけ難しい術だったってことだろ。誉めろ、俺を」
「まあ、それはさて置き」
「置くなよ」
「楓呼さんたちがどうしているか知りたくありませんか?」
「知りたいぞ」
即答する京平に実隆は失苦笑する。
「元気ですよ。数日で鬼の血も抜けて外見も元に戻りました。ここへも何度かお見舞いに来ているのですよ?」
「あ、そうなのか?」
「ええ。京平殿以外にも怪我をした街の人はここへ搬入されています。元々重傷患者は少なかったので、今も入院しているのは数人だけですな」
「そうか、よかったな」
京平の中で、暗い悔恨が揺れる。助けることが出来なかった少女の笑みが胸に刺さった。
「いやはや、負傷者は多数だしてしまいましたが、死者がゼロというのは実に喜ばしい。尽力してくれた部下たちに感謝せねばなりませんな」
「? ち、ちょっと待て。死者がゼロって……?」
「ええ、ゼロですよ。ニュースでも見ますか?」
言って、実隆はテレビのリモコンを取った。
病室に備え付けられていた14型テレビが静電気を発しながら点灯する。
『か、彼らは突然現れたんです。それはもう矢のような速さでした。たくさんのヘリコプターがやってきて我が寺院の文化的遺産、原始仏典を残らず持ち去ってしまったんです。これでは先代に申し訳が立たない……。盗んだ方たちにお願いします! 決して訴えないと誓います! だから、だから先人の貴重な遺産を返してくださ───』
───ぶつんっ。
実隆はテレビのチャンネルを変えた。幼児番組のコミカルな曲がむなしく流れる。
「……………」
「………おい。おまえ、まさか」
震える指先を向けると、
「ははは。灰になったものは返せません。今のは手違いです。こっちのチャンネルでしたな」
実隆は空笑いしてリモコンを触った。
『………えー、毎晩放送の田宮です。二日酔いで頭がぐわんぐわん言ってますが頑張っていきましょう。───あの謎の暗雲が晴れてからあけて二週間。ようやく封鎖令が解け、私たちにも街の状態を撮影することが許されました。ご覧ください。ここ大久保町を襲った超弩級の竜巻は、町に色濃くその爪痕を残しています。見えますでしょうか、あのもろくも崩れ落ちた建設途中のマンション。民家五軒を貫通する巨大な穴。この高台の上にある鳴北高校は最も竜巻の被害を受けて全潰状態だそうです。しかし怪我人こそ出ているものの、これだけの災害にあって、死者はまったくの皆無。謎は深まるばかりです。───え? なに? 犠牲者が出なかったことをまず喜べ? ………うっさいわね。アンタは黙ってカメラ回してりゃいいのよ。………あ、失礼しました。えー、これは未確認の情報ですが、空が晴れる瞬間、目映いばかりの光が雲を突き抜けたとの証言も……。おおっと、あれは自衛隊の軍用車! 早速インタビューしてみましょ───って、ぬあっ? あんたはついこないだ取材の邪魔をしくさりやがったサタンの手先その一!』
『………何のことか分かりませんな』
『黙りなさい、手先その二! そしてその三っ! ABCDテレビを敵に回したことたっぷりと後悔させてあげるわ! 例えばそう、あんたたちが学生時代家庭科クラブに所属していたことから現在にいたるまでの男性遍歴まで、ないことないことぜんぶ捏造してやるんだからっ! ………え、それは報道じゃない? 軽犯罪に触れる? うるさい。アンタが三年前まで悪質なカメ子だったってことバラすわよ!』
『……………。ここから先は立ち入り禁止区域です。すみやかに移動してください』
『キーッ! 馬鹿にしてる?! 馬鹿にしてるのね!? こうなったらアンタらを社会的に抹殺してあげるわ───』
電源が落ちて、ブラウン管から静電気が逃げていく音が続く。
「ほら、死者は出てないと言っていたでしょう?」
にこやかに実隆は振り返った。
「ていうか、お前ら犯罪者だろ」
「はっはっは、面と向かって人を犯罪者呼ばわりとは無礼千万ですぞ」
くいくいと眼鏡を押し上げる実隆。京平は苦々しくうめいて、重要なことを思い出した。
「───じゃなくてだな! 死者がゼロってことは、杏は……!」
「? 杏とは、我が校の九円杏さんのことですか? 空手部のマネージャーで、身長148センチ。体重38s。B68・
W53・H68で、一部に熱狂的信者を持つという、あの?」
いや、そんな詳しい情報は知らんが、とつっこみたい衝動を抑え、京平は実隆につかみかかった。
「そうだよ! その杏だ! あいつは? 無事なのか?」
「ええ。軽傷とはいきませんが、発見が早かったので大事には至っていません。今は院内を動き回ることも出来るようになっていますよ」
「そうか。良かった……」
素直に安堵の息が漏れた。
しかし、杏のあの怪我が二週間やそこらで治るとは思えないのだが……。
「まあ、蛇の道は蛇と言うことですよ」
冗談めかした調子で実隆ははぐらかしたが、おおかたの想像はつく。化物に対抗する組織が実在しているのだ。哀や楓呼のように特異な能力を持つ者が他にいても何ら不思議ではない。
「ああ、そうそう。九円杏さんに逢っても、下手なフォローはしなくて構いませんよ。彼女は今回の事件のことは何も憶えていませんから。と言うより、関係者以外は誰も憶えてはいないのですが」
「誰も?」
そんなはずはない。訶利帝母に操られていた人々に記憶が残らないのは考えられるとしても、街の住人すべてが操られていたわけではないただろうし、もしかしたら鬼の姿を見た人だっているかも知れない。
しかし実隆は釘を刺すように言った。
「誰も知らないのです。何も見ていないし、何も聞いていない。街の人々は突如発生した竜巻に襲われ、不幸な目にあった。しかし国から結構な額の給付金が出てむしろ幸運───というシナリオで片を付けるつもりなので、他言は無用でお願いします」
「ふん……」
おおかた『蛇の道は蛇』の者たちを使い、街の人たちの記憶を操作したのだろう。手が回らないところは金で揉み消したか。やってることはまるきり犯罪だが、そのおかげで京平も助けられているので強くは出られなかった。
「まあ、何はともあれ、全ては丸く収ったと言うことですよ。悪の元凶は消え、京平殿は人間に戻り、鬼遣殿もその役目を果たせた」
「……」
そう、哀だ。彼女はこれからどうするのだろう。
「なあ、あいつは、哀はどうなるんだ?」
「鬼遣殿ですか?」
「ああ、あいつはもう戦わなくて良いんだろ?」
そうですね、と実隆はうなずいた。
「羅刹鬼が消えたと同時に、彼女の役目も終わりました。ですから転生の呪いも解除されたはずです。もう彼女が輪廻の軛に捕らわれることはないでしょう」
長きにわたる彼女の戦いに、ようやく終止符が打たれたのだ。それは喜ぶべきことだった。
「………ですが、反魂の法で蘇ったとて、彼女自身の寿命が延びるわけではありません。感染呪術による度重なる転生は、彼女の魂をひどく劣化させています」
実隆の言いたいことは十分に理解していた。哀は、もうそれほど長くは生きられない。
「わかってる。それでも哀は絶対に喜ぶよ」
「ふむ……。ラヴですな」
「………ブッ飛ばすぞ」
「はは。そいつはご勘弁。───とまあ、とりあえずの説明はこんなものです。町の復旧は急ピッチで進めておりますが、学校が始まるまでもう一、二週間あります。その間に骨を休めるのが良ろしいでしょう」
「へーへ、せいぜい寝ダメさせてもらうさ」
京平はぞんざいに手を振って、布団をかぶった。実隆はそのまま立ち去ると思っていたのだが、
「最後にもう一つだけ」
言って、実隆は深く頭を垂れた。
「? 何だよ、急に頭なんか下げたりして」
実隆の突然の行動に訝しんでいると、彼の口から思いもよらぬ言葉が出た。
「申し訳ありませんでした」
「はぁ?」
ますます意味が分からない。こいつは謝るようなことを何かしでかしたのだろうか。
「私が京平殿たちと過ごした年月は全て偽りのものです。私は政府の命令であなたたちを監視するためにこの街に派遣されてきました。以来十年間、京平殿や楓呼さん、この街で出会った人たち。私に関わる全ての人をだまし続けてきました。常にです。一瞬たりともあなた達に心を許すことはなく、虎視眈々とあなた達を殺す機会をうかがっていました」
実隆は重々しく真実を明かしていく。
「許して下さいとは言いません。いまさら友人に戻れるとも思っていません。ただ京平殿にこれだけは───」
「おい」
「は? まだ話の途中ですが……」
「いいから、来い」
京平は酸素マスクをはずして手招きする。
「はあ……。来いと言われれば行きますが」
話の腰を折られて、実隆は無防備に近づいてくる。
───隙だらけだぜ、マイフレンド。
「なんですか、京平どぶっ?」
ぶん殴る。渾身の力を込めた殴打。手加減無しだ。本気で殴った。
椅子と衝立てとテレビとを薙ぎ倒して、実隆がふっ飛ぶ。おまけに花瓶が頭から落ちてきて、実隆は水浸しになった。しかしそれだけだ。全力で殴ってもこの程度の威力しかでない。
京平は肌色の手のひらをぐっと握って感触を確かめる。ようやく人間に戻ったという実感が湧いてきた。
「な……?」
腫れ上がった頬を押さえて困惑する実隆。こいつがこんなマヌケな顔をするのは初めて見たが、なかなか気分が良かった。
京平は固めた拳を前に突き出し、宣言する。
「これでチャラな。なんでもかんでも難しく考えんな。頭のいいヤツの悪い癖だ」
「……………は……はは。参りました……」
呆けた実隆は捨て置いて、京平は履く物を探す。
「哀はどこだ? この病院にいるんだろ?」
「おや。気付いていなかったのですか?」
実隆は怪訝な顔をした。怪訝と言うには、ほくそ笑んだやらしい表情だったが。
「彼女ならそこにいるではありませんか」
「へ?」
実隆が指差したのは京平の真後ろだった。
振り返る。眠たげな双眸と目があった。
「………おはよう……」
「か、哀っ?」
髪を下ろした哀がワンピースの寝間着姿で立っている。
見れば部屋を区切っていたカーテンが開いている。哀のベッドは京平の隣に置かれていたのだ。
「むふぁはははっ。感謝して下さいよ、幼なじみのこの気配り。私の権限で二人を同室にさせたのです。彼女は最初からここで付きっきりですので、京平殿のフヌケた寝顔だけでなく、あれやこれやの恥ずかしい寝言まで聞かれていることでしょう。もしかしたら、溲瓶(しびん)関係のお世話まで───」
「ドやかましいっ! テメェはこんな時までそれかっ!!」
復活した実隆を渾身のアッパーでかっ飛ばす。
衝立てに埋もれたまま昏倒した実隆にとどめを刺そうかどうか京平が悩んでいると、服のすそが弱い力でくいくいと引かれた。
振り返ると、哀が眠たげな双眸でこちらを見上げている。
「京平、おはよう……」
「え、あ?」
彼女が言わんとしていることがよく分からず、京平はうめくような返事を返した。
「おはよう、京平……」
それでも哀はゆったりと同じささやきを繰り返した。
鈍い京平にもやっと彼女の求めている返事が分かった。
「あ、ああ。おはよう」
何となく照れくささを覚えながらも答えると、哀は満足げな表情をした───ように見えた。
そして哀は薄く目を閉じて、胸に寄りかかってくる。
「え? ええ?」
両腕にすっぽりとおさまる細い身体に、京平は素っ頓狂な声を上げた。
この体勢はまるでキスをせがんでいるような───いや、そうとしか見えない。しかしここには実隆もいるわけだし、人前でそんなことをするのはさすがに恥ずかしいし……。
京平の中でもやもやと葛藤が渦巻くが、十代の男にそんな葛藤は無意味であった。
幸いにも実隆はさっきのアッパーで昏倒している。
京平は他に誰もいないことを確かめると、哀の肩を支え、その細面に唇を寄せる。
そのとき、この機会を待ち構えていたかのように、少女たちの喧噪が聞こえてきた。
「なんか騒がしいッスね」
「うん、なんだろね。それより杏ちゃん、足、大丈夫?」
「はいっ、もう痛みはないッス。突風で転んで足折っちゃうなんてかなり間抜けでした……。でも、なんでか竜巻が起きた時のことは全然おぼえてないんスよね……」
「そ、そうなの? でも良くあるよ、そういうこと」
「そうッスかぁ?」
「そ、そうッスよ。あるッスよ。えと……あ、ほら、あそこだよ兄貴の病室っ」
「ああっ、待って下さいよぉ」
ぱたぱたという軽やかな足音が近付いて来たかと思うと、楓呼が病室の扉を開けて顔を出した。
「やっほー、あーにき。お見舞いに来たよ───……って、何やってんの……?」
楓呼のにこやかな笑顔が、みるみる険悪なものになっていく。
フられたとはいえ、好きな男が他の女を抱きしめていれば険悪にもなるだろう。
半眼で睨みつけてくる楓呼に、京平は冷や汗を流しながら苦笑いした。
「ああ、いや、これはだな。ははは。………哀からも何とか言ってくれ」
京平は誤魔化す良い手段を思いつかず、情けなくも哀に助けを求める。
「………………………」
哀は答えてくれない。薄く目を閉じたまま、京平に体重を預けている。その息づかいは規則正しく穏やかだ。
「寝てるーっ?! ───またこのオチかっ?!」
「あーにーきー……?」
楓呼がお見舞いのフルーツ詰め合わせを火器弾薬のように構え、詰め寄ってくる。
「お、おお、落ち着け! 俺は別に───」
その時、松葉杖がからんと音を立てて床に転がった。
「せ、せんパイ……?」
ようやく楓呼に追いついた杏が青ざめた様子で震えている。
「い、いつのまにそんなっ。ふしだらッス! 不潔ッス!」
「違う、違うぞっ。未遂だ! まだ何もやってねェ!」
「まだ……? ってことは、これからするところだったワケ……?! ナニするつもりだったのよ、ナニをっ!!」
険悪な表情が凶悪なものとなり、楓呼がずんずんと踏み足荒くやってくる。眠ってしまった哀を抱きとめる京平は逃げるに逃げられず、じりじりと後ずさりした。
それがまた楓呼の癇に障ったらしい。
「いつまで抱きあってんのさ! いやらしい! さっさと離れなさいっ!」
「だ、だからっ、こいつ寝ちまってるんだよ。やらしいことなんか出来るわけないだろっ」
「……………。ほんとにィ?」
「ほ、ほんとだ!」
楓呼は心底疑わしげな目で京平らを眺めた後、
「そこのオックン。証言をどうぞ」
お見舞いのフルーツバスケットからバナナを抜き、マイクに見立てて実隆に向ける。起きあがった彼は銀縁の眼鏡をくいっと押し上げて、ニヤリと笑った。
「やはり寝ている女性にイタズラを働くのは不届き千万不埒極まりない行為だと思われますなぁ」
「どあああっ。大ウソこいてんじゃねェ!」
実隆は眉を八の字にして肩をすくめた。
「いえいえ、どこにも虚言など。鬼遣殿が寝ていたのは事実ですし。そこへ京平殿が接吻かまそうとしていたのもまた事実」
「うっ……」
「もう言い逃れは出来ないねえ……?」
楓呼が鬼面の笑みを浮かべてにじり寄ってくる。
「ま、待て! 話し合おう!」
「問答、無用っ!」
リンゴの剛速球が眼前に迫る。
この日のケガがもとで京平の入院日数が一日延びたとか延びなかったとか。