第漆章/無明長夜
14
あれから幾星霜が経ったのか。
潮の音が耳をくすぐる。浜が近いのだろう。砂音のような潮の音は寄せては引き、引いては寄せ、まるで母に揺られる揺籃(ゆりかご)のようだ。
薄く目を開けて横を見やれば、海境(うなさか)の沖に漣(さざなみ)が踊っている。
穏やかな波に漂う身体は、心地よい眠気に誘われて、動かそうという気にもならない。
京平は、ひとりだった。
そばには、誰もいなかった。
───さっきまでいたんだ、この腕の中に。
それは誰だった?
───……思い出せない。
空は蒼い。浸かっている海との境界が分からないほどに、深く蒼い空。
碧天より降りそそぐ陽光は海面に照り返り、起き抜けの目にこそばゆい。
「あれは……」
光にかすむ視界の向こう。蒼穹を無数の白い影が泳いでいた。白い影は雲ではなく、それよりずっと長くて蛇のようだ。誰かがあれは龍だと教えてくれたのを憶えている。
白い龍たちは群れをなして大空を回遊している。その中には子供のように小さな龍もいた。
「ほら見ろ……。やっぱり逢えたじゃないか……。誰だ、はぐれたらもう二度と会えないとか言ってたヤツは……」
───……思い出せない。
空を見上げているとまた瞼(まぶた)が重くなってきた。どうにも眠気に逆らえない。
せめて、眠る前に、あいつのことを思いださなきゃ……。
『あいつ』が誰のことを指しているのかも分からない。でも、思い出さなければいけない。それはとても大切なことなのだと、それだけは、はっきりと分かった。
憶えているのは腕に残った感触だけだ。濡羽色の髪はつややかで、白い肌は冷たいけれど、ぎゅっと抱きしめると暖かい。
彼女のことを思い出そうとすると、ぽっと心に何かが灯った。
降り積もるように、記憶の雪が降ってくる。晴れ渡るように、忘却の霧が晴れていく。
記憶が、邂逅する。
そうだ、最初の出逢いは最悪だった。いきなり刀で殴られた。二度目はさらにその上を行っていた。まさか刃物を突きつけられるとは思ってなかった。三度目は───きっとあれが日常との別れだったんだと思う。
美しくも儚い彼女は、血の海で独りたたずんでいた。
氷刃のような眼をした彼女は、十六夜月を背に斜交いに見下ろしていた。
泣けない彼女は、雨を涙の代わりにして泣いていた。
なにも捨てられない彼女は、傷つけ、傷つき、それでもなお戦おうとした。
本当は誰よりも弱いくせに、それでもみんなを守ろうと必死だった彼女は───。
彼女は、誰だった……?
潮の音にまぎれて、誰かが耳元でささやいた。
───ありが、とう、京平……。わたし、は……幸せ、だった……───
そうだ。彼女は───、
「………哀……」
潮の音が遠のいていく。
そばには、誰もいなかった。
最終章 【白の南風、来る陽光】へ続く───