第漆章/無明長夜


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「……卵が孵る」

 それはまさに孵化(ふか)そのものだった。

 闇色の殻がひび割れ、剥離していく。

 はがれ落ちた殻の隙間から薄い膜がのぞく。半透明のそれは胎児を覆う胞衣(えな)と非常によく似ていた。

 それを破ろうと、内部で蠢くなにか。羊膜を押し伸ばすそれは、巨大な人間の手のように見えた。

 一つだった手は、二つになり、無限になり、内から膜をつかんで引き裂いていく。

 破れた裂け目から、黒血にも似た羊水があふれる。胞衣が完全に破られると、そこには大量の腕だけがあった。

 あふれ出た羊水は地には落ちず、腕群のもとへ集結し、体を形作り始めた。水面は盛り上がり、沈み、隆起し、窪む。幾度となく水泡が弾け、なめらかな皮膚を構成する。大量の腕は形を失い、成し、やがて二本の長い腕へと完成していく。

 その造化の音は何かに酷似していた。

 雄叫び? 悲鳴? いや違う。あれは───

「産声(うぶごえ)……」

 だった。

 やがて泡立つ羊水は一つの形に統合されていく。それは全裸の人間を模したような、そんな姿をしていた。

 ついに肉の身を持ち得なかった最古の鬼神は、自力でその身体を創造しはじめた。

 頭を形成しようとして、頭蓋が背骨ごと後ろへはがれ落ちる。腹膜が破れて中の臓器がこぼれ出す。陥没した眼孔から粘性の液体がしぶく。

 その情景は何もかもが黒で統一されていた。

 それが暴走なのかどうかは分からない。幾度となく形成と崩壊とをくり返し、ついに闇は安定した。安定してしまった。

 存在すべてが闇にあって、その眼光だけは紅玉色の瞳。狩りの愉悦に両眼を輝かせ、鬼神は地表の人間たちを厖と見下ろす。妖気に当てられた兵士が嘔吐して、何人かが気を失った。

 巨大な嬰児(えいじ)はその長さだけで山を越えてしまいそうな腕を持ち上げ、地上にいる彼らに向けて七指の掌をかざした。

 戦慄に誰もが凍りつく。

「発射!!」

 一喝。その一喝で戦闘ヘリのパイロットたちは我に返った。

 聞こえないはずの引き金を引く音が重なり、計二十発の大型誘導弾が一斉に射出された。

 無煙の陽炎を後に残し、入り乱れるように飛んでいく。

 吸い込まれるように───直撃。

 野太い弾頭が黒々とぬめった皮膚に連続して突き刺さり、一つの爆裂が残り十九の誘爆を引き起こす。

 爆熱が大気を膨張させ、舞い上がる灰土が視界を遮断する。

 立ち込める灰煙の先には、半身を吹き飛ばされた羅刹鬼の姿があった。

 闇色の血を噴き、羊水の中でのたうち回る鬼神。二つに裂けた口で低くうめき、鉄板をひっかくような悲鳴を上げる。

 そして、嗤った。赤ん坊のような嬉々とした笑い声。

 再生は一瞬だった。どぷん、と水を送り出された水風船のように、半身が復元される。

「化物め……」

「……………終わりか」

 士官たちは諦観の言葉をもらした。

 残弾はゼロ。打つ手はない。たよりの二人はもう消えてしまった。

「まだです」

 それでも、

「まだ、できることはあります」

 彼らの長はあきらめない。

「いつだって、何もできないことなどありません。できることは必ずあります」

 それは消えた親友の言葉だった。

「して、何が?」

 妖気に当てられようが瘴気を吸い込もうが、依然武骨として大熊一尉が訊ねた。

「至急、当局へ連絡を」

「用向きは?」

「我が国の保有する“戦術核兵器”をここへ撃て。以上です」

「………なるほど。霊的に不可能なら物理的に破壊ですか。しかしあのご老人方がそう簡単に重い腰を上げるでしょうか」

「報告にあの巨人の映像を添付して送ってやればいい。ご老体も尻に火がついていることに気づくでしょう」

「それは良い」

 くつと笑みを漏らして、装甲服の彼は通信官を呼んだ。

 上空の赤子はすでにこちらを捉えている。通信が指令部へ届き、発射命令が下される頃には、この辺り一帯はとっくに焦土と化しているだろう。

 ここで食い止められなければ、今日はこの国が滅ぼされ、次の週には大陸が一つ無くなっている。一月も経てばこの星全土が火の海だ。

「ヘリは一度地上へ降下。弾薬を再装填して離陸。地上の砲撃との集中砲火で目標の注意を引きつけます」

〈了解〉

 あせることなど何もない。羅刹鬼の気分次第でここは一面焼け野原だ。

 恐れることなど何もない。今できることをするだけだ。

 けれど、核兵器が使われることはなかったし、ヘリが地上へ降下することもなかった。

 闇の堕し子はケタケタと嗤って、両の手を卵の外へと伸ばした。

 ───外へ出る気だ。

「っ! 高射砲用意───」

 だが、間に合わない。

 鬼神の双眸が赫光の輝度を増し、かざした腕の周囲に、あたかも墨が滲み出すように大量の梵字が具現化する。

 悉曇字門の紋様は、自分の尾を飲み込む無限の蛇のように不規則に回転し、典雅な腕環へと変じていく。

「亞儉亊弌剩剪剔儁慴儉儉弌剩儉剪儁剔弌儁剩儉弌剴儁儉亞弌儁勗儉剪剴亞儁慴儉剔儁弌剩剪剴儉亞亊剩儉儁亞儉剴剪剔儁儉剩剴儁儉亞弌儁儉剪剴弌剩儉儁剔儁儉剩儁剴亞儉弌剩儉剪儁剔弌儁剩儉弌儉弌剩儉剪儁剔弌慴儉儉弌剩儉剪儁剔弌儁剩儉弌剴儁儉亞弌儁勗儉剪剴亞儁儉弌剩儉剪剔弌剩儉弌剴儁儉亞弌儁剴」

 千万(ちよろず)が亡者の怨詛。もしくは千万が聖者の祝歌(ほぎうた)。

 その吟詠のような呪と共に、超関数に則った構成は、複雑と化し、細密となり、力の極致へと昇騰していく。

 巨大な右手に環状の呪言が層を重ねて出現すると、それは砲身のように平滑して伸び、莫大な妖力に指向性を持たせた。

 暗黒の粒子が砲口に集束してゆく。

「(間に合わない───)」

 死を感じたのは錯覚だろう。地下岩盤に撃ち込まれた超高熱の爆圧が地面を引き剥がし地に立つ者すべてを焼き尽くしては、まだいない。

 羅刹鬼は力を満載したその腕を、割れた卵の中に戻した。

 否、それは戻すと言うより、吸い込まれるといった様子だった。幽界と繋がった卵が嬰児を強制的に内側へ引きずり込もうとしている。

 まず足が吸い込まれ、次に胴体が。くいしばっていた腕が枯れ木のようにポキンと折れ、中身を先に吸い出される。

 阿防羅刹鬼は苦しんでいた。今度こそ、本当の意味で苦しんでいた。

 光を求める亡者が地獄に引き戻されるかのように、鬼神は卵の中に戻されていく。

 それは成長の真逆だった。嬰児の体長はみるみる縮み、紅玉色の眼球が溶けた目蓋に塞がれていく。もがき、暴れるが、力を外へ放出することすら叶わない。

「ィィ────────────────────────────────────────────────────────────────────────ッッッ」

 人の耳では聞き取ることができない高音域の断末魔。

 一度割れた卵が修復されていく。羊水が満たされ、膜が覆い、殻が舞い戻り、瞬く間にひびが塞がって、ついには楕円の黒球に戻ってしまった。

 胚子にまで遡った鬼神は、再び卵の中に還った。

 何が起きたのか、そしてこれから何が起こるのか、誰にも分からなかった。

 規則正しく続いていた胚子の心音は徐々に遅くなり、やがて止まる。

 それは阿防羅刹鬼の死なのか。死なない鬼神が死んだのか。

 時間が止まったような寂静のさなか、何かを考えている者など居はしなかった。停滞した景色の行く末を、誰もが固唾を呑んで見守っている。

 そして、胚子を覆った卵は───砕け散った。未練も容赦も一切なく、卵は砕け散った。

 割れた卵から孵化したのは、闇ではなく光。

 光が闇を殺した。

 闇に関する一切合切が光によって殺戮される。

 暗雲が生み出した贋物の夜も、ヘドロのように腐った風も、瘴気で澱んだ大気さえも───光が殺した。

 そして人々は見た。

 その場に居合わせなかった者も、遠く離(はな)れた地に住む者も、誰もが見た。

 光の源を。







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