第漆章/無明長夜


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 重い音がする。音だけだ。見えるものはおろか、触れるものさえない。

 地鳴りのような、ささやくようでいて厳粛な鼓音が、分刻みで虚海に響く。

 闇が移動しているのが分かった。どうやら母胎となる者を捨てて、自力で人界を目指しだしたようだ。こうなればもはや暴走は避けられない。ついに誰にも阿防羅刹鬼を止めることは出来なかった。

「………う……」

 どれくらい気を失っていたのか。京平は身じろぎして、上と思われる方向を見上げた。

 光の点が大きい。人界への入口が近いのだ。膨張する闇に流されて、幽界の淵底からここまで押しやられてきたらしい。

 頼みの綱であった神剣が折れた今、互いを確認する灯りもない。

「京平……?」

 みわたに木霊する哀の声がすぐそばで聞こえてきた。

「………ああ、ここにいる」

 闇の中、京平は声を頼りに彼女をたぐり寄せる。

「失敗しちまったな。………悪い」

 お互いの姿は見えないが、哀から責めるような気配は伝わってこない。彼女はただ黙して話を聞いている。

「まあ、あとは実隆が何とかやってくれるか」

 哀からの答えはない。京平は気にせず、ひとりで勝手にしゃべり続ける。

「帰ったら色々やりたいこととかあったんだけどな……」

 哀は答えない。

「でもまあ、まずはメシだな。たらふく食って、それから寝てェ……」

 哀は応えない。

「……………。………もうすぐ、時間だな」

「帰って」

 決然と、哀は言った。

「あなた一人なら、まだ帰れる……」

「お前を連れてだって帰れるさ。なに、ちょいと根性出せば二人跳ばすぐらいの力は───」

「分かっているでしょう? 私は残らないといけない。残って、羅刹鬼を止めなければいけない」

「………実隆たちを信じる気にはなれないのか?」

「彼らに羅刹鬼は止められない……。彼らにそれが出来るのなら、さっき私たちが滅ぼせていた……」

「………じゃあ、お前なら止められるってのかよ」

「止めてみせる。神剣が折れた以上、封印は前以上に不完全な形になってしまうだろうけど、最悪の結果だけは阻止できるはず……」

「けどよ、もしかしたらまだ何か方法が───」

「もう我が儘は通せない」

 再び哀はさえぎった。

「たとえあなたが何を言っても、私は封印を実行する……」

 彼女の声は決意に満ち、そこにはもう弱さは感じられない。その意味を知っているからこそ、京平は哀の意志が変わらないことを痛いほどに理解できた。だから彼女を止める言葉など何処にも見つからなかった。

 それでも諦めきれずに押し黙っていると、哀は、ふ、と息をついて声を柔らかくした。

「大丈夫、封印は必ず成功させる……。あなたの居る世界は私が守ってみせる……。だけど何百年何千年かのち、きっと封印は綻ぶ。その時に人々はもはや羅刹鬼を止める術を持たない。それが出来るのは羅刹鬼と同じ鬼神であるあなただけ……」

 まるで母が子をあやすように、哀は優しく言葉をつむぐ。

 哀は分かっているのだろうか。羅刹鬼を殺すと言うことはそれと同化している彼女も一緒に殺さなければならないと言うことを。

「………俺にはできない」

「できるわ。あなたは強いもの……」

 弱音を吐く京平の頭を胸に抱き、哀はそっと髪をなでる。

「それに、あなたに殺されるなら、私はきっと幸せだと思う……」

「………そんな幸せ、あってたまるか……っ……」

「そうね……。でも、あなたに殺してもらえる日が来るのなら、私はきっとこの永遠の闇にも耐えられる。その日を待ち望むことが、私にとってただ一つの希望だから……」

 京平はもう何も言えなかった。哀のつむぐ言葉が、別れの言葉が、終わってしまう。

「人界に戻ったら一日も休まず力を磨いて……。いつか私が羅刹鬼になったとき、楽に殺してほしいから。あなたの迷いも悲しみも感じたくない。笑って私を殺せるぐらいに、強くなってね……」

 そして、哀は静かに告げた。

「さようなら、京平……」

 哀の体温(ぬくもり)が消える。彼女がゆっくりと離れていく気配だけが、無重力の闇の中で伝わってくる。

「……………。すまない……」

 京平は心から謝った。

 そして、闇に埋もれる哀の腕を引いた。

「っ……?! ………京平っ……?!」

 『どうして』と言わせる前に、その身体を抱きすくめる。

「すまない……」

 京平は謝った。だけど、それは彼女に向けた言葉じゃない。

「………やっぱり無理だ、俺」

 それは哀に向けた言葉じゃない。

「すまない……」

 それは、哀以外のすべての者たちに向けた言葉。

 彼は、生きとし生けるものすべてに罪を犯した。

「京平、やめて……。あなたは帰って……!」

 突き放そうとする哀を堅く抱きしめる。

「………お前、さっき泣いてただろ。俺の頭を撫でてくれてたときも、さよならを言ったときも。声を押し殺して、ずっと」

 哀を抱く胸が冷たい雫で湿る。彼女は震えてさえいた。

「こんなところにお前ひとり、置いていけるわけねェよ」

「……………お願い……帰って……。あなたまで連れて行ったら……、私は本当に災厄になってしまう……」

「他の誰がそう思ったとしても、俺だけはお前が誰のために戦ったのか憶えてられる。………ずっとな」

 ───そう、ずっと。永遠の闇の中で、決して独りなんかじゃない永遠の闇の中で、俺は君を憶えてられる。

「………馬鹿……。京平は馬鹿……っ」

「馬鹿バカ言うなよ、ヘコむだろ。………自分でも阿呆なこと言ってるのは分かってる」

「分かってない……! 何も分かってない……。大切なものを、大切な人を、あなたは捨てようとしているのよ……?」

「そうだな」

「………あなたは私とは違う。大切に思ってくれる人がたくさんいる。その人たちから……、京平を想う人たちから、奪えと言うの、私に……?」

「それが罪だって言うんなら、俺だって同罪だ。最良の選択肢を捨てたんだからな」

「………私には、耐えられない。私は弱いもの……。重責に、後悔に、きっと負ける……」

「二人なら耐えられるよ。お前が負けそうなときは俺が助ける。俺が負けそうなときは哀が支えてくれな」

 闇が始動を始めた。もう時間がない。京平は最後の想いを彼女に告げる。

「他の誰でもいやだ。俺はお前といたいんだ。傍にいたい。傍に、いさせてくれ」

 それだけを言って口を閉じた。伝えるべき事はこれですべて伝えた。

 哀は黙っていた。そう長い時間じゃない。涙をぬぐっていたのかも知れない。

 彼女の姿は見えない。けれど、きっとすぐ目の前にいる。

 やがて、哀は顔をあげた。

「京平……」

 彼女は微笑んでる。数ミリ先も見えない闇の中で。

 一度も見ることのできなかった哀の笑顔。でも、いい。見えなくても、わかるから。

「一緒に、死んでくれる……?」

「いいよ」

 折れた剣が、彼らにとどめを刺した。

 そして、光が───はじけた。







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