第漆章/無明長夜
9
清涼な香気が身体を包んでいる。自我はまだ残り、五感も存在している。
闇の陵虐が止まっていた。神剣は腹を突き破る直前でその機能を停止させていた。
いくぶんか呼吸が楽になって、哀は重いまぶたを上げた。
「よ」
指が二本ほど欠けた片手を軽く上げ、その少年は道ばたで出逢ったかのような気楽さで笑ってみせた。
彼の姿が見えているのは、淡く光る結界が哀の周囲を庇護していたからだった。この闇の中では、それをするだけでも多大な妖力を要するだろうに。力を結界に回しているせいで、彼は自分の傷を癒すことすらままなっていない。
「まったく、苦労したぜ。なんも見えねェから、危うく俺が道に迷うところだった」
そんなふうに笑って言えるような道程ではなかっただろう。敵意ある闇の海を泳いでくるなど、無謀をこえて狂愚ですらある。それは彼の全身に刻まれた傷がなにより証明していた。
「京平……」
哀はつぶやくように京平の名を呼んだ。まだ彼のことを憶えていたことが、素直に嬉しかった。誰よりも彼に逢いたくて、どうしようもないぐらいに逢いたくて、そして逢うことができた。
でも、逢えてはいけなかった。
「消えなさい」
哀は冷然と告げ、京平の喉に刃を突きつけた。
「ここはあなたの居ていい場所じゃない」
「………ったく、これで何回目だ? いい加減、人に刃物を向けるのはやめた方がいいぞ」
「話を逸らさないで」
声音を強くすると、京平は困ったようにこめかみを掻いた。
「消えろって言われてもな。ここで帰ったら何しに来たか分かんねェし。第一、お前だっていつまでもここにいるわけにはいかないだろ」
「いいえ、私の居場所はここ。やるべき事はここにある。あなたが邪魔をしなければ、それもつつがなく終えていた」
「邪魔しなきゃ、お前が死んでただろうが」
「………。死にはしない。ただ羅刹鬼を永遠に封印するだけのこと」
「それが死ぬのとどう違うってんだよ」
刃を押しのけようとする京平を制して、哀はさらに切っ先を突きつけた。
「死ぬ、死なないは問題じゃない。封印が可能かどうかが重要。………あなたのしていることは人類に対する背反よ」
「一介の高校生に“人類”とか“背反”とかゆーな。俺にとっちゃお前の命の方がよっぽど重要だっつの」
「総体的に物事を見て。封印が成功すれば、あなたの妹も友人もみんな助かる」
「で、代わりにお前が死ぬってか」
「………私の生死は問題じゃないと言ったでしょう……?」
「俺にとっちゃ大問題だ。『一人も助けられないやつがみんなを助けられるわけがないっ』なーんて陳腐なことは言わねェよ。俺は俺と俺の周りの奴らが無事ならそれでいい」
「その考えは破綻している。それは一部の利己的主義者の考え方……」
「利己的主義者で結構です。自殺願望者よりはなんぼかマシだ」
「っ……」
京平は人を惑(まど)わせる天才かもしれない。いったい何の話をしていたのか忘れそうになる。
哀はかぶりを振って気を取り直した。
「話にならない。これ以上の会話は無益……」
「ああ、そうだな」
剽げた口調で京平が答えた瞬間、哀は刃を突き上げた。京平があごを反らさなければ、切っ先が小脳を貫通していたことだろう。
「これが最後よ……。………消えなさい。封印の邪魔をするのなら、あなたを殺す」
「ああ、殺せよ。だがな、封印もさせてやらねェ。死ぬ前に必ず帰してやる」
「っ、そんなことをして何になると言うの……?」
「アホか。お前を助けられるだろーが」
「っ、ふざけないで……。いったい私が誰のために……!」
「俺のためか?」
あくまでも剽げた態度の京平に、哀は逆に冷静になれた。
「………そうよ。あなたと、そしてあなたのいる世界のため」
「ならどうして俺もそうだと思わないんだ。お前が考えてることをどうして俺が考えてないと思うんだよ?」
「………。……私は……」
哀は言葉に詰まる。間違っているのは彼の方なのに、反論できない。
違う。彼の言葉に惑わされるな。彼を人界まで帰し、封印を行うことが最善の選択なのだ。それを忘れてはならない。
「とにかく………ここで言い争っていても何も進展しない」
「同感だ。これでようやく本題に入れるな」
「え……?」
なにか案があるとでも言うのだろうか。京平は意味ありげにほくそ笑んでいる。
「ふっふっふ。俺が何の考えもなしに助けに来るような馬鹿に見えるか?」
「見える」
即答した。
「……………」
京平は本気で落ち込んだようだ。がっくりと肩を落としてうなだれる。が、すぐに立ち直った。
「だ、だから、俺にいい案があるんだよっ」
「案って……?」
「決まってるだろうが」
京平は胸を張って自信たっぷりに言った。
「この化け物、ぶっ飛ばすぞ」
───……呆れた。彼との会話に根本的な食い違いがあったのはここだったのだ。羅刹鬼を倒す? それができないから苦労していると言うのに。彼はそんなことすら理解していなかったのか。
「馬鹿を憐れむような目はやめやがれ」
「………あなたは、私がいったい何年羅刹鬼と戦ってきたか……」
「知ってるよ。千年。でもお前、それずっと独りでやってきたんだろ? ひとりじゃ無理でも二人でやれば何とかなるかも知れないじゃないか」
たしかに、その可能性はゼロではないだろう。鬼神の末裔である彼の助力があれば、もしかすれば羅刹鬼を倒せるやも知れない。だがその確率は、彼が思っているよりも遙かに低く、自分が思っているよりもさらに低いだろう。
「………すべてが掛かっているときに、そんな確実性のない賭けはできない……。私がここで羅刹鬼を封印すれば、人界への被害は万分の一におさまる……。その方が───」
「───いいわけねェだろうが」
遮った声には怒気が混じっていた。
「俺はお前を助けたいんだよ。それから学校のダチも、実隆も、楓呼も、みんな!」
「京平……」
「一人だって欠けるのは嫌だ。俺はもう大事なヤツが死ぬとこなんか見たくないんだよ!」
彼の吐き出した苦鳴は、すでに大事な人の死を見てしまった者の痛切な響きをしていた。
哀は京平の強さの片鱗に触れた気がした。そしてこの絶望的な状況下に置かれてなお、挑むことをやめない彼の言葉は、この暗闇の中、灯火のようにまばゆく愛しい。
「………わたしは……」
それでも、最期は分かっているのだ。足掻いたところで先には絶望しかない。
わずかに逡巡して、哀は言った。
「私は………死ぬ」
「っ、どうしてだよ……! なんでそんな風に……!」
「そうじゃない……。そうじゃないの……」
哀はむせんだ。京平にさとらせないため、ずっと喉元でこらえていた血痰が激しくもどされる。血の雫が闇に糸を引いて落ちていった。
「………わたしは、どうせもう長くないから……」
光彩も弱々しい刀を見やる。
「神剣の力を使いすぎたし、肺は幽界の空気で腐ってしまった……。だから……」
どのみち、ここで死ぬしかないのだ。どんなに死にたくないと、願っても。
京平は分かってくれるだろうか。愛してもすぐに死んでしまう女など想っても仕方がないことを。
彼はいろんなものを与えてくれた。喜び、悲しみ、人としての心。
けれど、自分は彼に何も与えることができないのだ。何も知らない、何も持っていない。彼を苦しめ、彼を追いつめ、そして彼より先に死ぬ。まるで絶望そのものではないか。
絶望の種を蒔き、絶望の葉を育み、枯れ果ててもまたどこかに絶望の根を下ろす。生きても死んでも絶望なら、今ここで封印の礎になった方がいい。
哀はすがるように京平を見上げる。すると彼はまっすぐ見つめてきて、言った。
「生きてくれ」
その言葉が嬉しくて、悲しくなる。彼ならきっとそう言うと思っていた。それを予期できたのは、京平が自分とは対極に位置する人間だからだ。
自分が絶望なら、彼は希望だ。どのような苦境でも諦観に支配されることなく、自らの意志で歩んでいける。そんな京平にあこがれ、そして何度もその溝の深さに気付かされた。彼と自分はどこまでも違うのだ。
「ここで生き残れても、私は京平よりずっと早くに死ぬのよ……?」
「俺はそれでもいい。このまま闇の中で生きてるのか死んでるのか分からないような状態でいるよりゃよっぽどマシだ。たった数年だっていいじゃねェか。その時が来るまでしっかり生きて、生き抜いて、それから死んだらいい。そんときは俺がそばにいる。───だから、生きろ」
それは残酷な言葉だ。強い者にしか言えない、弱い者には思いつくことすら出来ない言葉。苦しみを受け入れて生きろなどと。
「でも……」
───私はあなたのようにはなれない。あなたは強く、私は弱いから。
「オマエは目ェはなすと、すぐどっかに行っちまうことが分かったからな。もう譲歩とか誘いとかは無しだ」
「でも……」
「『でも』も無し。さあ、時間がないぞ。どうするんだ? ボヤボヤしてると全部手遅れになっちまうぞ。───ああ、言っとくが、俺は一人でここから帰る気はない」
傍若無人で逃げ道をふさぐ京平に、哀はうつむき、思った言葉をそのままつぶやいた。
「………京平は、わがまま」
なぜか小さな笑みがこぼれた。
「そうだよ。ようやく気づいたか」
神剣を握る手に、鋼の両手が重なる。
「……………」
そう、彼は強く、私は弱い。その溝は埋められない。
だけど、きっと、それでいいんだと思う。
迷いや劣等感。そういったものが消えたわけではなかったけれど……、
「───奄(オン)……」
哀はしっかりと闇を見据え、京平の妖力を咒力に変換する呪を唱えた。
「……………っぐぅ……!」
瞬間、凄まじい消耗が京平を襲った。根こそぎ力を奪われていくような虚脱感に、京平は歯を食いしばって耐える。
そして次の瞬間、神剣が急激な勢いで光を取り戻した。
暗海を照らし出す燈台のように、闇を押しのけて伸びていく様は、さながら一振りの巨大な剣。
亡者共のどよめきが気泡となって沸き起こった。闇がおののいている。鬼共の王が怯えている。
「行くぜ……!」
「っ……!」
渾身の力で神剣を振りかぶる。狙いをつける必要はない。ここは文字通り、敵の腹の中だ。
振り下ろすのは一瞬。その一瞬が永遠に引き延ばされる。
闇が裂けていく。ほとばしる力の奔流。鉄板を掻きむしるような悲鳴。あと少し。
神に祈りたい気分だった。
だがこの世に神はいない。
神剣は折れ砕け、闇は増大し、二人は呑み込まれ、そして消失した。
すこやかに、闇は孵化を始めた。