第漆章/無明長夜


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 靄を遠巻きに囲む武装ヘリの回転翼が、あらゆる音を細断する。

「しっかし、やかましい音ね……」

 耳をかっぽじって夕紀二尉がぼやいた。

「はは、もう二、三十分の辛抱ですよ」

 実隆は靄(もや)を見上げたまま苦笑した。そう、良くも悪くもあと数十分で全てに決着がつく。

 漆黒の靄はもう靄と呼べる代物ではなくなっていた。巨大化し、膨張・収斂を繰り返して密度を増した靄は楕円の大球へと進化を遂(と)げていた。その形状はさながら鳥類の卵だ。

 不意に、実隆が詩を口ずさんだ。

「卵(かいご)の闇に沈みし番いたる幼子、鬼神の許嫁を攫取せんと、禁断の塋域を暴殄す。果然、彼らの往く末は……と」

「難しいこと言っても、格好つきませんよ」

 身も蓋もなく夕紀が言い捨てた。

「私たちは彼らを信じてここに残っているんですから、そんな贅言はやめて下さい。気分が害されます」

「………申し訳ない」

 階級が四つほど下の部下に窘められて、実隆は素直に謝った。

 夕紀はよろしいと頷くと、八つほど年下の上官に倣って漆黒の卵を仰いだ。

 固体のような硬さを残しつつも液体のように流動し、空冥を浮遊するその様子は気球のような軽燥さもうかがわせる。漆黒の卵殻はときおり胎動するように光沢を揺るがせ、王者のごとく中天に鎮座していた。

 大きな変化もないまま、時は淡々と経過すると思われた。が、変化は起こった。卵殻の底部が小さく隆起したのだ。

 まるで種子から生える支根のように黒い突起は伸び続け、やがてぷつりと千切れて卵から分離。そのまま地上へ落下する。

「………あっ」

 声を上げたのは夕紀が先だった。指示を出したのは実隆が先だ。

「大熊一尉、破壊目標からの落下物を全速で補足・保護です」

〈了解〉

 通信機に肯定の返事が入る。同時に積層装甲のボディが土煙を上げて校庭を滑走した。

 けれども、急ぐ必要はまったくなく、多重の結界に守られた落下物は非常にゆっくりとした速度で校庭の中央に降下してくる。大熊一尉はやんわりとそれを受け止め、地面に降ろした。

「彼女だけのようです」

 漆黒の羊膜を破ってはがし、事務的な口調で彼は告げた。

「リンゲルと酸素吸入器と担架、寄越して、今すぐ!」

 夕紀はすぐさま救護班に連絡を取った。

「大熊一尉」

 実隆はわずかな逡巡も見せず、最善の決定をくだした。

「攻撃開始までの残り時間は?」

「きっかり一五〇〇秒」

「安全空域まで離脱するには充分足りる時間ですね。───では、美作二尉」

「はい」

 楓呼の脈を手早くチェックしながら夕紀は答えた。

「治療は後まわしです。彼女と輸送ヘリに乗ってここを離れてください」

「ですが……。……いえ、了解しました」

 一瞬遅疑(ちぎ)したが、夕紀は素直に従った。

 気を失った楓呼が担架に乗って運ばれていく。その様子を見送りながら、彼は独りごちた。

「これがあなたの選択なのですか、京平殿……」




       †   †   †




 森は漆黒に包まれていた。

 森からは丘に戴く巨大な黒卵が見える。

 森に潜む何者かは、苛立ち混じりに木々を爪で引き裂いた。

「お、鬼遣めっ……! な、何度、私の邪魔を、す、すればっ……!」

 焼け焦げた肉の悪臭が深緑の香りを乖乱させる。

 雷に打たれて全身が炭になったそれは、半肉塊に成り果てていながらも、いまだ力を失っていなかった。

 訶利帝母は紅玉色の瞳を爛々と光らせて遠方の黒卵に手を伸ばす。

「ら、羅刹鬼様を……おっ、お、お守り、せねばっ……!」

 鬼女の姿はすでに原形を留めていない。損傷した部位を手当たり次第に周りの物で補修した身体は、動物・植物・無機物のあらゆる特徴が顕れている。

 肥大化した訶利帝母の形姿は、もはやどの鬼の形からもかけ離れていた。

「───そこまで堕ちても、まだ生にしがみつくか」

「?! だ、誰だっ?!」

 草を踏みしだく跫音に鬼女はおびえた誰何を発した。

 相手は答えず、真っ直ぐに近づいてくる。

 ずいぶんと無遠慮な歩き方だ。それに恐ろしく疾い。

 なのに、その跫音はあくまで軽やかで、さながら湖面に波紋を刻んで舞う蝶のようだ。

 跫音の主は旋風を纏い、少しも重さを感じさせない動作で地に降り立った。

「いやなに、馬鹿にしてるわけじゃない。オレも何世紀と生きながらえちまったクチさ。………だが、その姿は醜悪の極みだな。まるで糞便に湧いた蛆だ」

 訶利帝母の前に現れた彼女は、憐れみや同情ではなく、蔑みをこめてそう言った。

「き、貴様、捷疾鬼! 今更なにをしに───いや、早く行って羅刹鬼様を守ってこい! それで今し方までの裏切りを忘れてやる!」

 ゼェゼェと息を荒げて怒鳴ると、捷疾鬼はいぶかしげに片眉を上げた。

「守ってこいだ? ………はっ……。オレはしっかり守ってるぜ。お前なんかよりもずぅーっと前からな」

 自分の得物で肩を叩きながら、捷疾鬼は嘲笑する。

「な、何を───?」

 斑模様の刃が肉を割った。

「言ってるのかって? まあ、教えてやらんこともない」

 片手に持った得物をひねりながら捷疾鬼は答えた。

「お前の守ってるアレはただの残りカスだ。羅刹鬼が千年前の大戦の際に切り離したトカゲの尻尾。なんの思考力もない、力だけを持った群生生物。お前はそれを馬鹿みたいにン百年と崇め奉ってきたわけだ。愚かを通りこして憐れだよ、訶利帝母様」

「その──その──刀──」

「そう。現存する最古の神剣“仏舎利”。これはその小の一振りさ。仏陀(ブッダ)の野郎が落っ死んだ後、ヤツの骨を盗み出したのはこのオレだってことを忘れたのか?」

「なぜ──鬼遣──何故──貴様──それ──それを──」

「鬼と人間の関係ってのはお前が考えてるよりも複雑にできてるんだよ。我らが羅刹鬼様はもう闘争なんざ望んじゃいない。ただ眠っていたいのさ。これからもずっと、永遠にな。だからその寝床を消そうっつーお前の思想は羅刹鬼(あいつ)の意に反してる。………でだ。オレはそれを防ぐために長いことオマエらの中に潜伏してたってわけだ」

「あ──あ──あ──あ──あ──あ──あ──────」

 訶利帝母は壊れた蓄音機のように音階の狂った音を反覆し続ける。流石の鬼女も、二度も神剣で貫かれて生きていられるほどの生命力は無かったようだ。

 身体中の穴という穴から沸騰した血を垂れ流し、訶利帝母は激しく痙攣した。

「じゃあな」

 無数の鎌鼬が半肉塊を細断する。草むらに落ちた死体とも言えぬ死体を、妖術によって命を与えられた地面が大口を開けて呑み干した。行き着く先は、阿鼻叫喚の地獄の何処か。

 抜き身の刀を肩に乗せて、捷疾鬼は天に座す黒卵を見やった。

「あとの始末はオレが着けといてやる。だからそっちはそっちで何とかしろよ、バカキョウヘー」







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