第漆章/無明長夜


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 禍々しく絶大であった妖気は、楓呼が意識を失うと同時に消えた。

 糸が切れたようにくずおれる妹を京平は抱きとめる。

 折れたはずの腕は何事もなかったように存在し、余計なことに角や牙まで生えている。どうやらまた鬼もどきに戻ってしまったらしい。

「………終わったの……?」

 闇から透き通るように哀が歩いてきた。京平は慌てて涙をぬぐい、

「ああ。帰ろう。あとは実隆が何とかしてくれる」

 楓呼を抱きかかえる。

 そのおり、ふと哀を見やると、彼女の袖口が新しい血で汚れていた。

「どうしたんだ、それ?」

 指さすと、哀は血糊の付いた袖を持ち上げ、

「………あなたがいない間に敵が現れたから戦っていただけ。なんでもない、ただの返り血……」

 そう言うと、哀はうち切るように暗黒を見上げた。針の先ほどの白い星がはるか頭上に輝いて見える。人界への門が開きかけているのだ。

「急ぎましょう。約束の刻までもうゆとりがない……」

「ああ」

 哀が肩につかまると、京平は浮上を開始する。

 闇の海は静かだ。波打つことはなく凪だ。その海もだんだんと遠ざかっていく。

 あっけないほどに、ことは終わった。いや、あっけなくなどなかった。いろんな人を傷つけ、死なせ、あるはずのなかった犠牲の上にようやく収まろうとしている。

 だけど今は何も考えたくない。家に帰る。それ以外のことは何も考えたくない。

「………。なあ、こいつ、元に戻れると思うか?」

 ひとつ心配なのは妹の姿のことだ。紅い髪。紫の瞳。額の突起など。

「大丈夫。羅刹鬼を孕んだわけではないし、この娘の心にもう闇は巣くっていない。日が経てば鬼の血も抜けるはず……」

「………そうか。良かった」

 京平は心底ほっとして息をついた。

「けれど、あなたはもう……」

「あ? ああ、いいんだよ俺は。力もだいぶコントロールできるようになってきたし、狂ったりはしねェだろ」

「でも、もう人の世では生きられない……」

「そうだな……」

 これからは誰とも会えないことを思うと、つらい気持ちは確かにあった。けれど、哀が自分以上に悄然としているのを見ると、弱音を吐く気にはなれなかった。

 変わりに、軽口をたたく。

「こうなりゃ人里離れた山ででも暮らすとするか。山小屋建てて、畑作って、毎日自給自足の生活だ。どうだ哀、お前も一緒に」

「え……?」

 哀は驚いたように白い頬を桃色に染めた。

「? ………あ」

 言ったあと、まずいことを口にしてしまったことに気づいた。これじゃまるでプロポーズだ。

「あ、いや、別に深い意味はなくてだな」

「京平……」

 哀のささやきが耳にかかる。

「な、なんだ? 返事なら別に今すぐでなくても───」

「速度を上げて」

「………へ? 速度?」

「早く!」

「お、おう!」

 よく分からないまま、とにかく上昇速度を上げる。

「どうしたんだよ、いったい?」

「下を見て」

「下?」

 言われるままに俯瞰する───次の瞬間、京平は爆発的にスピードを上げた。

「ななな、なんだよありゃあっ?!」

「闇。そして羅刹鬼の精神体」

 哀は緋刀を鈍く光らせ、簡潔に答えてくる。

 遠ざかっていたはずの虚海が、すぐ真下に迫っていた。凪だった海面が嘘のように荒れ狂い、暴風を引き連れて追いかけてくる。

「………やはり活性化している。どうやら新たな憑依の座を探しているみたい……」

「みたい……、じゃねっつの! 思いっきり俺らを狙ってるじゃねェかっ!」

 闇の海は猛然と迫り来る。波かと思っていた水面のうねりは、実は絡み合う無数の腕だった。

 老人のもの。子供のもの。男のもの。女のもの。だがその大きさは不確定で、通常の数百倍に相当するものもあった。

 そのうち数本が本体から伸び上がり、光を求める亡者のように追いすがってくる。

「ちっ……!」

 舌打ちして京平が迎え撃とうとすると、

「飛行に集中して」

 神剣が人を模した腕をなますにする。だが、虚海の勢いは収まるどころか、追っ手の数をさらに増やしてきた。

 うねりながら飛びかかってくる長腕の群を、斬撃の連撃が打ち落とす。風を薙ぐ音と闇を薙ぐ音が重なるほどに、攻防は苛烈さを極めていく。

 液体が弾けるような粘った悲鳴に不快感を覚えながら、京平は遙か上方の光を目指す。

 速力はこれで目一杯だ。しかし出口はまだまだ遠く、追っ手を少しも引き離せない。闇はもう足下にまでせまっていた。

 追いつめられるまでそう時間はかからなかった。とうとう闇が行く手を阻む。前後上下左右。あらゆる方向から京平たちを呑み込まんと無数の手掌が襲いかかってくる。

「っ………ここまで来てっ……!」

 京平は反射的に二人をかばい、闇に背を向ける。

 そこをするりと抜け出ていく感触があった。腕に低い体温だけを残して、彼女は闇へと落ちていった。

「哀っ!!」

 新たな母胎を捕らえた闇の腕は、見る見るうちに哀にからみつき、彼女の姿を見えなくしてしまった。

「馬鹿野郎……っ! なんでっ?!」

 助けに戻ろうと京平がきびすを返すと、

「………待って。そこで止まって……」

 制止がかかった。

 大変な事態なのに、哀はこうなることを前もって知っていたように、穏やかな口調で語りかけてきた。

「京平……。ありがとう、信じてくれて……」

 信じる? 何のことだ? そんなことより早く助け───

「私は、あなたの妹を殺すつもりだった……」

「……………」

 ───知ってる。だけど哀がそんな事をするはずがないと思っていた。そして今も思ってる。

「“憑坐”を殺せば、最悪でも羅刹鬼の降臨だけは免れる」

 ぬばたまの闇に抱かれながら、落ち着いた調子で哀は続けた。

「最後までその迷いは消えなかったけれど、そうしなくて良かった……」

 もう哀の姿は見えない。

 闇に完全に喰い尽くされてしまう前に、彼女は一つだけ懺悔のような問いを残した。

「わたしは……約束を守れましたか?」

 漆黒の繭に包まれ、彼女は闇の海へと沈んでいった。

 途端、虚海の鳴動がやみ、静寂(しじま)が戻った。わずかに蠢動する闇の中心へ力が落ち込んでいくのが感じられる。

 不気味なほどの静けさ。実隆が言った時間まであと数十分といったところだ。幾許もかからずに人界からの総攻撃が始まるだろう。

「……………」

 京平は闇を見下ろし、楓呼の寝顔を見つめ、それから取捨選択した。

「ごめんな……。最後までこんなダメ兄貴でさ」

 楓呼の周囲に結界を張る。十重二十重(とえはたえ)に願いをこめて、無事に外へと出られるように。

 施術が終わる。手を放すと楓呼の身体はひとりでに浮上を始めた。

 京平はそれを見届けて、

「ったく……! なんであんな女に惚れちまったんだろうな、俺は!!」

 片手で頭を掻きむしって───全速力で闇の海に突っ込んだ。







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