第漆章/無明長夜


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 ここがどこなのかはもう分かっていた。

 両の手は金属の鱗に被われていない。舌に苛つく牙も、髪を縫う角も消えている。身にまとうのは、無くしたはずの学ランとスニーカー。

 黒色に統一された“部屋”に地平はなく、自分がどの方向を向いているのかも定かではない。ここには空間の概念すら通じないようにうかがえる。

 訪れた“部屋”はどうしようもないほど真っ暗で、澱んでいて、寂しかった。

 そう、ここは───。

「来てくれたんだね、おにいちゃん……」

 闇に浮かぶ妹の姿は、自分が知っている彼女とはまるで違っていた。

 金縷(きんる)だった髪は血に染まり、紅葉した椛(もみじ)のよう。

 翡翠だった瞳は血に濁り、開花した竜胆(りんどう)のよう。

 あどけない笑顔には生気が無く、紅を引いた艶やかな唇は顕現した虚無のようだ。

 漆黒よりもさらに深い涅染(くりそめ)の衣をまとい、楓呼はそこにいた。

「なかなか来てくれないから、待ちくたびれちゃったよ。もう……」

 楓呼は子供のように拗ねて、笑って、京平に寄りそった。

「待ってたんだよ、ずっと。………約束、守りにきてくれたんでしょ?」

「楓呼、俺は───」

「言ったよね、ずっと一緒にいるって。守ってくれるって」

「………ああ、そうだな。約束した」

「じゃあ、ここで一緒に暮らそ。ここには誰も来ないよ。わたしを傷つける人は誰も来ない。おにいちゃんとわたしの二人きり」

「……………」

 ひどくのどが渇いた。目の前にいるのは本当に自分の妹なのだろうか。子供のような幼さを残したまま娼婦のような妖艶さすら持ち合わせる彼女を見ていると、その自信が薄れてくる。

「ね、おにいちゃん」

 楓呼が甘えた声ですり寄ってきた。細い腕を首にからめ、触れあうほどに唇を近づけてくる。彼女が何を求めているかは明白だった。

 楓呼の瞳は妖しくも魅惑的で、淡くかかる吐息は橙花(とうか)のような甘い香りがした。

「………キス、しよ」

 吸い込まれそうな響き。それは子供だと思っていた妹のものではなく、艶麗な女の声をしていた。

 男としての猛りに何もかも忘れてしまいそうになる。このまま己の欲望に従って少女の細い腰を抱き寄せ、唇だけでなく彼女のすべてを貪りたいという暴虐な情欲に駆られる。

 ───俺は楓呼の気持ちを知った。

 出会ってからの十年間を顧みて、彼女が自分のことをどう想っていたのか。その感情が兄妹の情とは決定的に違っていたこと。彼女が求めるものはその一線を越えてしまうこと。

 すべてを彼女に触れたことで知った。

 楓呼のことを可愛いと思う。大事だし、守ってやりたいと思う。彼女の気持ちにずっと気付いてやれなかったことも悔やんでる。もしも哀と出会う前に楓呼の気持ちを知っていたら、どうしていたか分からない。

 だから、答えた。

「それはできない」

 きっぱりとした拒否を、突き放すような鋭さを持って、京平は発した。

 楓呼は唇を寄せるのを止めて、つぶやいた。

「………あの女(ひと)が、好きだから?」

「そうだ」

 京平はなにも面に出さず、あえて淡々と答える。

 ───俺は楓呼の気持ちを知った。同時に、自分の気持ちにも揺るぎがなくなった。

 自分の心が誰に向いているのか。そしてそれは決して楓呼に向けられることはないのだということを。

 気づいたからには嘘をつく事なんてできない。たとえその答えが楓呼を傷つける結果になったとしても。

「………そう」

 楓呼は腕を降ろして、一歩、二歩と下がった。

 重く、息苦しい沈黙のなか、楓呼はただうつむいていた。

「………。楓呼……」

 かけてやる言葉など見つからなかった。こんな時どうしてやるのが良いかを知っているほど大人でもない。けれどこのまま放っておくことなんて出来ない───それは卑怯者の理屈だろうか。

「来ないで」

 ぴしゃりとさえぎる妹の言葉。静かなその声音(こわね)は絶叫にも似た拒絶だった。

「来ないで。好きじゃないなら来ないで。裏切るなら来ないで。わたしを傷つけるなら来ないで───」

「おい、楓呼……?」

「来ないでよっ!!」

 伸ばした手がもげる。見えない衝撃波に、京平は容赦なく衝き飛ばされた。

 一瞬の無重力感の後、いつの間にかできていた床にこっぴどく叩きつけられる。盛大にへし折れる骨が打楽器となって全身を走り抜けた。

「………が、ふっ……」

 京平は仰向けになって、気道につまった血を吐き出した。

 治るはずの怪我が治癒しない───それもそのはずだ。いまの自分には牙も角も生えておらず、鋼の皮膚すらない。

 当然だ。ここは楓呼が生み出した楓呼のためだけの世界なのだから。

 時間も空間も姿見も、彼女の望むように変えられる。さしずめ楓呼は全智全能の神様で、自分は零智零能の虫けらといったところか。

「ぐっ……」

 ガクガクと震える膝を押さえつけ、京平はなんとか立ち上がった。痛みだけが生々しい世界を歩く。

 まるで容赦のない衝撃が顔面を突き抜けた。たった三歩進んだだけで衝き飛ばされる。転がる視界が止まる頃には、楓呼の姿はいっそう遠くなっていた。

「ぐ……ぅ……っ!」

 先程の数倍の時間をかけて立ち上がった。折れた足を引きずり、血反吐をまき散らしながら楓呼を目指す。

「っ……! 来ないで! 来ないでよっ!」

 衝撃波。衝撃波。衝撃波。こっぴどく打ち据える見えない攻撃。

 それでも京平は立ち上がる。何度も、何度でも、立ち上がる。

「………来ないでって……言ってるのに……」

 声が近い。知らぬ間に楓呼の許へとたどり着いていた。

「俺は……げほっ……。俺はお前をむかえに来たんだよ」

 折れていない方の腕を伸ばすと、楓呼は怯えたように後ろへ下がった。もう衝撃波は飛んでこなかった。

 楓呼は唇をきゅっと噛み、うつむいて、何かをこらえるように小さな拳を震わせている。

「………優しくなんて……しないで……」

 押し殺した声で楓呼は言った。

「好きじゃないのに……優しくなんてしないでよ……」

 その言葉は彼女自身を傷つけるだけなのに。それでも言わずにはいられないのだ。ぶつけずにはいられないのだ。それほどまでに彼を愛しいと想っているから。

「………わたしの事なんてどうでもいいくせに……っ………優しくなんてしないでよっ!」

 楓呼は自分の言葉に息を詰まらせ、それでも強がるようにひきつった笑みを浮かべた。

「ガキだよね、いつまでも昔のことにこだわってさ。あんなのただの子供の約束なのに。ウザすぎるよね、昔の思い出で気を惹こうなんてさ。そんなの見せられても今更なに言ってんだよって感じだよね。………でも……でもね、それがわたしの全てだったの。なくしちゃったらもう何も残ってないんだよっ……!」

「………」

「分かってるよ……、馬鹿なこと言ってるって、勝手な思い込みだって。お兄ちゃんは誰にでも優しいからこんなわたしでも接してくれてるんだって。それを勘違いして、ずっと引きずって。こんな方法でしか気持ちを伝えられない臆病者のクセにさ。………はじめから分かってたのに。わたしはずっと妹なんだって、いつかおにいちゃんは私じゃない誰かを見つけて行っちゃうんだって。………ぜんぶ分かってたよ。でも……でも好きなんだよ! どうしようもないじゃないっ!」

 さしのべられた手を打ち払い、楓呼は自分の胸をぎゅっと押さえる。堰を切ったようにこみ上げる感情を抑えつけるように。なけなしの憎悪をしぼり出すように。

「殺せばいいじゃない! わたしのこと好きじゃないんでしょ? 全部知ったもの! わたしが死なないとみんなが死んじゃう! オックンも杏ちゃんもおにいちゃんも! みんな、みんな死んじゃう! 殺してよ。私は独りぼっちなんだから。最初からずっと独りぼっちだったんだからっ! 好きじゃないなら、殺してよ!!」

 ののしるように、懇願するように、楓呼は叫んだ。

「……………その方が……ずっと、楽だよ……」

 目を真っ赤に泣きはらして、楓呼はつぶやいた。

 あとはもう声にはならず、力なく嗚咽を漏らし、ぽろぽろと涙を落とす。

 再び、沈黙の帳が降りる。

 京平の右手が鋼に変わっていた。楓呼がそうしたのだろう。この腕ならば苦しませることなく彼女を殺すことができる。

 それが彼女の望みというのならば、かなえてやる方がいいのかも知れない。

 尾を曳く硬音を鳴らして、鋼の拳が開いた。どこまでも凶々しい鉤爪はゆっくりと少女の頭をおおっていく。

「……っ」

 楓呼はわずかに身をすくめた。

 だが十秒が経ち、二十秒が経っても、その鉤爪が楓呼の頭蓋を切り刻むことはなかった。代わりに紅く染まった髪を優しく撫でつけ、梳いていく。それはお互いに懐かしい感触だった。

「………そんな悲しいこと、言うなよ」

 京平のささやきに楓呼は顔を上げた。

「痛かったよな。苦しかったよな。妹のフリするの、しんどかったよな……。ごめんな、ずっと気づいてやれなくて……。ひどいヤツだよな、俺……」

 ひどくうわずった声。かすれて消え入りそうな声。それはひどく痛切で、彼はまるで───

「泣いて、るの……?」

「………っ……殺してとか、言うなよ。お前はたった一人の家族なんだよ。独りぼっちなんて言うなよ。お前は俺のこと家族だと思ってなかったのかよっ……!」

 楓呼はうろたえた。

 兄が泣く姿などついぞ見たことがない。初めて見る彼の弱さが痛かった。どうして彼は泣いているのか。その答えは胸をしめつける柔らかく温かいものが教えてくれた。

 ───ああ……そうか。彼も寂しかったのだ、ずっと。

 同じ孤独を知っているから、二人は兄妹になれた。兄妹だったからこそ、どこかが欠けた心の隙間を埋めることができた。それはずっと望んでいて、最初から持っていたものなのに。

 どうして忘れていたのだろう。どうして捨てようとしたのだろう。もどかしさばかりにとらわれて、どうして今を見ようとしなかったのか。

「………ごめんな、さい……」

 彼を想う気持ちは生涯変わらないだろう。けれど彼は自分を裏切ったのではないことを知った。同じ悲しみを背負っていて、それを表に出せなかっただけ。彼はそれを見せてくれた。きっとその弱さを見せるのは家族である自分にだけだろう。

 ようやく、このしがらみから解放された気がした。







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