第漆章/無明長夜


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 かなりの深さまで降下してきた。哀の眼はすでに幽界の底を捉えているようだ。

 髪は灼け、肌は凍てつき、闇は濃度を増していく。

「用意して」

 哀が刀を真一文字に構えて言った。京平は結界を鋭角的に変形させ、突貫に備える。

「………海だ」

 海が見える。一筋の光差し込まぬ闇の中、その海原が波打つのがはっきりと分かる。

 闇よりも冥い海がせまる。速度は落とさない。むしろ上げる。深紅の刀が一閃する。間髪容れず裂け目に飛び込む。



 その先は───

                       ───虚無───

  ───すすり泣く子供の声───



                                ───そして、金色の楓。




       †   †   †




 真っ暗な“部屋”に、京平はひとり佇んでいた。

 闇の中で、なぜか自分の姿だけがはっきりと確認できる。

 哀が居なくなったことにも、驚きや焦りを感じない。おそらくそれは、こういった“部屋”に来るのが初めてではないからだろう。

 京平が何か口にしようとした時、向こうから小さな子供が歩いてくるのに気付いた。

 金色の髪をしたその少女の名を呼ぼうとして───京平の身体をすり抜けていった。

 振り返ったとき、そこはもう闇ではなくなっていた。



 夕方に近い昼、新品のランドセルを背負った少女が帰り道を歩いている。

 少女は平均的な子供の身長よりも背が低く、まるでランドセルが自分で歩いているようだった。

 これでもずいぶんと良くなった方だ。数年前まで虐待を受け続け、苛酷な生活環境に置かれていた彼女は、極度の栄養不良でひどく病弱な体質になっていた。

 永禮楓呼という名前を与えられて環境が一変してからも、彼女が外へ出歩く機会はほとんど無く、況わんや、幼稚園に通ったこともない。

 数年間を新しい家で暮らすうち、ようやく些細なことで病気に罹ることもなくなった。

 その頃には、楓呼は小学校に上がる年になっていた。

 新しい両親は善良な人間だったが、養女が負っている精神的外傷まではいたわってやれなかったようだ。

 楓呼はほとんど対人恐怖症と言っていいほど、極度に人見知りをする子供だった。家族以外の人間とは話すどころかまともにコミュニケーションも取れない。

 両親はそんな性格が少しでも良くなればと思い、あえて楓呼の学校生活に干渉しなかったのだが、それは逆効果だった。

 楓呼が小学校に通い始めて一ヶ月が経つが、友達はひとりもいなかった。話しかけてくる者もおらず、それどころか嫌がらせをしてくる者すらいる。

 子供というのは残酷な生き物だ。自分たちと少しでも違うものを見つければ、容赦なく排他的行動に出てくる。

 例えば、栄養失調のために四つの時から伸びていない背。

 例えば、ほとんど色素のない髪。

 例えば、気味が悪いほどに無機質な緑の瞳。

 要素としては十分すぎる。

「「「せーのっ!」」」

 後ろから石ころが飛んでくる。ほとんどは外れたが、その内の一つが楓呼の頭に当たった。

「っ……いた、い……」

 激痛に頭を押さえる。血がにじんでいた。

 後ろから石を投げてきた数人の少年たちが、一斉に楓呼を取り囲んだ。

「うっわ〜、痛そー」

「なんだ、泣いてねえじゃん。つまんねー」

「あははは」

 楓呼の痛みを理解することもせず、少年たちはあざけりを上げる。

 一人が楓呼を突き転ばせて、見下すように指差した。

「知ってるか? コイツ捨て子なんだぜ」

「捨て子ぉ?」

「そうさ。コイツはこんな気持ち悪い格好だから親に捨てられたんだ」

 ニヤニヤと嗜虐的な笑みを浮かべてその少年は言った。

 ナガレはしゃべらないし、すぐに学校を休むし、おまけに頭は金髪だ。先生は可哀相な子なんだから仲良くしなさいと特別あつかい。仕方なく声をかけてやっても怯えるばかり。なんだこいつ。面白くないヤツだ。いじめてやろう。

 そういった子供の、無知で短慮な思考が呼び起こす行動。無知が故に残酷だ。

「この髪の毛、黒く染めてやろうぜ!」

 リーダー格の少年が髪をひっぱる。どこへ連れて行こうというのか───近くには真っ黒い汚水が流れる溝(どぶ)があった。あそこへ落とすつもりだ。

「や……いや……っ」

 髪のことよりも服が汚れてしまうことに、楓呼は強い抵抗を感じた。

 新しいお母さんは服が汚れたくらいで怒ったりなどしなかったが、前の母親は違ったからだ。その恐怖は身体が憶えてしまっている。

「手伝えよ!」

 乱暴に髪を引っ張る少年が仲間に呼びかけたところで、鈍い音がした。

 『ごんっ』と言うゲンコツで殴るような───いや、実際殴る音だった。

「……………?」

 地肌の痛みが消える。見れば、髪を引っ張っていたリーダー格の少年は自分の頭を押さえてうずくまっていた。

「オマエらっ、人ん家の妹になに手ェ出してやがるっ! ぶちまわすぞっ!」

 小学生とは思えない啖呵を切る彼は、周りの小学生よりも頭ひとつ分背が高い。やたら凶悪な目つきで少年たちを追い散らす。

「う、うわぁあっ?」

「きょ、京平だっ! 逃げろっ!」

「ま、待てよ! くそっ覚えて───イタぁっ!」

 ゲンコツを一発ずつくらった小学生たちは泣きながら逃げていった。

「ったく……。大丈夫か、楓呼」

 すりむいた拳をさすりながら兄がふり返る。

「おにいちゃん……」

 一つしか年は変わらないのに、彼はとても大きく、頼もしく見えた。

 しがみつくように抱きつくと、頭に手を置かれる。

「よしよし、怖かったな」

 優しくなでつける感触は心地よく、先程の恐怖など簡単に忘れてしまった。

「さ、帰っぞ」

 さしのべられた手を取ろうとして、楓呼はためらってしまう。さきほどの少年たちの言葉が耳にこびりついて離れない。

「どうした?」

「……………。……おにいちゃん……あのね……」

「なんだ、おんぶして欲しいんか?」

「ち、ちがうよぉ」

「じゃあ、どした?」

「………。ふうこのかみのけ、ヘンなのかな……」

「はぁ?」

「ヘンだから、みんなふうこのこときらいなのかな……」

「バッカ、おまえなぁ───」

 兄はいつもの軽口で流してしまおうとしたが、とどまった。いつもと違う妹の様子に何か感じ取ったのかも知れない。

 楓呼は自分の姿を嫌悪し、そして人に嫌われることを恐れていた。

 だから良い子でいようとしたし、言われることには何にでも従順にしたがった。

 けれど本当はみんなに嫌われるのが怖いんじゃない。彼一人に疎まれるのが怖いのだ。

 彼は決してそんなことを思わないと分かっていても、もしかしたらという不安が離れない。

 本当はわずらわしいと思われているのかも。痩せっぽっちでまともに口をきくこともできない自分が愛してもらえるはずがない。

 その証拠にほら、前の両親は辛くあたってばかりいたではないか。

 うつむいていると、兄が言った。

「俺は、楓呼の髪、好きだよ」

 くしゃりと頭に手が乗り、そのまま髪を梳いていく。

「柔らかいし、さらさらしてるし、それにきれいだ」

 見上げると、兄は笑った。不安など簡単に吹き飛ばしてしまうような、遠慮のない笑顔だった。




       †   †   †




 少年と少女が消え、夕暮れの町が薄れ、京平は闇の世界に戻ってきた。

 そう、自分はあの光景を覚えている。違うのは体験している視点が自分のものではないことだけだ。

「楓呼……」

 妹の名をつぶやいたとき、ふたたび景色が変わり始めた。

 闇の中で古ぼけた映画のようにつづられるのは、妹との楽しかった思い出。どれほどの数の思い出を、彼女が憶えていたかを京平は知る。

 まだ二人が一緒にお風呂に入っていた頃、代わりばんこに背中を流し合ったこと。

 よかれと思って兄が捕ってくれたアブラゼミを見て大泣きしてしまったこと。

 寝るときはいつも、こっそりと兄の布団に潜り込んでいた頃のこと。

 夏の暑い日はベランダにバケツを二つ並べ、ぬるまった水に足をつけて一本のソーダアイスを分けあってかじったこと。

 初めて作った料理を、卵の殻がいっぱい入っていたのに美味しいと言って食べてくれたこと。

 野良犬に襲われたとき、身をていして庇ってくれた兄が足に大怪我をしたこと。

 その怪我を縫ったところを自慢げに見せてくれて、また泣いてしまったこと。

 大きな思い出も、小さな思い出も、どんなたわいのないことだって憶えている。

 二人はいつも一緒だった。どこへ行くにも何をするのにも兄の傍にいた。



 ───思えば私はいつも兄の後ろ姿ばかり見ていたような気がする。



 なんとか彼の歩幅に合わせようと小走りになって追いかけたものだ。けれど、そんなことは苦にもならなかった。彼といるためならどんなことでもできた。

 たとえ兄妹にすぎなくても、妹としか見てもらえなくても、ずっと一緒にいられると思っていたから。

 そう、お父さんとお母さんが死んだときも───。



 通夜の日。雨が降り続いていた。

 凍えるほどに冷たい雨。大嫌いな雨。

 葬式はとうに終わり、参列していた喪服の人たちも帰った。今は兄と自分の二人しかいない。

「うぅ……うぅぅ……っ」

「………もう泣くなよ」

 泣きじゃくるわたしの頭を兄がなでる。

 彼の方が悲しいはずなのに。ほんの四、五年の時しか共有しなかった自分よりも、本当の子供である兄の方がずっと悲しいはずなのに、彼は一度も泣かなかった。

 代わりに、ずっとそばにいてくれた。

「楓呼がそんなに泣いてたら、父さんも母さんも悲しむだろ?」

「だって……だってぇ……っ」

 それでも涙は止まってくれない。

 お父さんとお母さんは自分を受け入れてくれた本当に優しい人たちだったから。また独りぼっちになってしまった気がして、どうしようもなく悲しかった。

「……………。俺はずっといるから」

「………ふ……ぅぐ……すん……」

「俺は楓呼を置いてどこにも行ったりしない。約束する」

 兄の眼差しはどこまでも純粋だった。一瞬、泣くことを忘れて見とれてしまう。

「楓呼が怖いとき、悲しいとき。いつだって俺が守るよ」

「………ホント……?」

 ああ、と兄は力強く頷いた。

 その瞬間から、わたしの心は彼に囚われてしまったのかもしれない。もはや離れることなど考えられない。彼がそばにいなければ、自分は比喩抜きで死んでしまう。

 けれど、彼は違った。

 彼は誰にも依存しない。彼の心はどこまでも広く、誰であろうと受け入れてしまう。

 わたしもその一人にすぎないことは分かっていた。

 だから自分の気持ちを隠して、ずっと妹に徹してきた。そうすれば、そばに居られるのだから。ずっとそばに居られるのだと思っていたから。







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