第漆章/無明長夜
2
白と黒。色彩の褪せた竪穴を、二人は高速で降下していく。
人界と見た目が似かよっていたのは最初の階層だけだった。潜っていけばいくほど、秘境、魔境、そう呼ばれる景色がめまぐるしく移ろっていく。
階層が五千をこえたあたりから、白と黒とを分かつその光も届かなくなってきた。
「このまま降下を続けて。道案内はこの刀がしてくれる……」
深紅に灯る神剣だけが道標の闇に、彼女の声が澄んで響く。
幽界は恐ろしく広い。それこそ並列するもう一つの宇宙だ。悠久なる太古から、人々はこの地に焦がれ、足を踏み入れようとしてきた。まだ見ぬ神との交信を夢見て、魔導の究極を求めて。
だが歴史上、幽界に行って無事生還できた人間というのは数少ないのだそうだ。その理由が、広大無辺で複雑怪奇な幽界の構造にある。
「果ても地軸もない幽界では、一度迷ってしまうと二度と元の世界には戻ってこられない……」
「ふーん……」
京平は生返事を返した。
「広大な階層が無限に続く幽界に、行き着く場所は上下しかない……。上は人界に、下は幽界が生まれた場所に繋がっている……」
「へー」
また生返事を返す。
「京平……?」
怪訝に思った哀が声をかけてきた。
「聞いてるよ。この底に楓呼がいるんだろ」
「ええ……」
生返事を返していたのは、哀の話を聞いてなかったからじゃない。別のことが胸につかえていたからだ。
腕にかかえた彼女は熱を持ってここにいる。けれどまたいなくなってしまいそうな、そんな悪い予感が京平の胸をざわつかせていた。
「哀。疑ってるわけじゃないが、確認させてくれ」
「なに……?」
「もう独りで抱えこもうとするな。お前が苦しむところは、もう見たくない」
「……。大丈夫」
「それが聞けりゃ充分だ───って、なんか向こうの方で動いたぞ?」
「どこ……?」
薄闇の向こうで蛇のような物体が宙を泳いでいる。かと思えば、それはうねりながらこちらへ急接近してきた。
「おい……おい……おい、おい、おいおいおいおいっ!!」
蛇の全長は接近するほどに明らかになり、その大きさは頭だけで家屋をしのぎ、鼻から尾っぽの先まで数えれば、三〇〇メートル近くはある。あと少しで東京タワーと同列だ。
「で、でけえっ。なんだコイツは……?」
「八大龍王の座に列する一の親族(うから)、白龍。………停止して。こちらから刺激しない限り、危害は加えてこないはず……」
「はずってな。こんなクソでかいのと戦っても勝ち目ねェぞ?!」
「安心して……。白龍の吐息は太陽の光冠と同じ熱量だから。もし戦えば痛みを感じる前に消し炭にされる……」
「……………どこらへんに安心するんだよ、それは」
京平のうめきは聞き入れられず、哀は蘊蓄(うんちく)を続ける。
「この龍はまだ幼生(ようせい)……。たぶん生まれてすぐ群からはぐれたんだと思う……」
悲しげな啼鳴を上げて、白竜の子供は二人を中心に周回し続ける。けれど同族の者ではないと分かると、そのうちどこかへと去っていった。
「はぐれ竜か……。会えるといいな、仲間と」
「無理よ」
「………え?」
「話したでしょう。幽界は広大無辺で複雑怪奇。一度でも親から離れたらその龍は孤独に生き続けるしかない……」
淡々と、沈んだ声で哀は言った。
「………まさか自分と重ねてるんじゃないだろうな」
「…………」
哀は答えなかった。代わりに降下しろとだけ告げ、目的地に着くまで一言もしゃべることはなかった。
† † †
鋼を鎧う彼の腕は、不快ではなかった。
結界ごしとはいえ、幽界の空気は肺にこたえる。にぎった刀は、石臼で轢くように、なけなしの生命力を搾り取っていく。
京平と龍の話をしてから一時間が経った。
彼自身は気づいていないのだろう。彼はあの幼龍はおろか成龍と戦ったとしても、一顧だにせず撃破できてしまうことに。
京平が鋼の鬼神から鬼もどきの姿に戻ったのは、力を失ったからではない。彼は不完全な姿のまま“力”を統御してしまったのだ。成長し続けるその力は、時を待たずして彼の自在となるだろう。
どうやら彼の先祖は数ある鬼の中でも相当古い血統のようだ。
空五倍子色の大鎧をまとったあの姿は、かつて阿防羅刹鬼と双璧をなしたと云われる最古の鬼神、羅侯阿修羅王にちがいない。
授肉している彼は、精神のみの羅刹鬼よりもよほど危険な存在なのかも知れない。
もし彼が狂えば誰にも止めることはできないだろう。そしてわたしも彼と戦えば……。
───いや、戦えはしない。なんの抵抗もせず、楽な死に方を乞うだけだ。
彼を殺す悲しみを負いたくないがために、彼に殺してもらおうとすら願う。なんと浅ましい女だろう。
───思えば私は、彼との約束を一度として守ったことはなかった。
殺してでも止めると約束した。
殺せなかった。
共に戦おうと誓った。
孤独に逃げた。
もうかかえ込むなと言われ───
是(ぜ)と答えた。
今度の約束を、私は守ることができるのだろうか……。