第陸章/蒼茫の傷痕、澱む流砂


Title

Back         Next



10



 京平たちが隠れたのは保健室だった。

 敵に見つかってしまうため灯りは点けられないが、遠くで燃える炎が部屋をやわく照らして、怪我の手当てには問題ない。

 応急処置でも、何もしないよりはマシだろう。京平は医療棚からガーゼと消毒液をあるだけ取った。

「………来て欲しくなんて、なかった……」

 哀は陰気な声でうめいた。

「喋るな、しみるぞ」

 パイプベッドに座らせた哀の膝に消毒液をかけると、哀は小さく痛哭をもらした。

 それで言葉が途切れても、包帯を巻き始める番になると、閉ざした口をまた開く。

「………私に助けてもらう価値なんてない……」

 京平は黙って手当てを続ける。

「私は……私は、人を…………。っ……もう戻る事なんてできない……」

 包帯を巻いてもすぐに石榴色がしみ出てくる。止血もかねて固めに巻きなおした。

「使命を裏切り、守ろうとしていたものさえ壊してしまう私は、もう誰からも必要とされない……」

 余分な包帯を切るのにハサミはいらない。鋼の指先で蔕をちょん切り、同じ指で器用に包帯を結ぶ。

「私はもう何のために戦っているのか判らなくなってしまった……。どんなに必死になっても報われない。誰にも求められていないのに、どうして私だけが戦わなければならないのだろう……。それならいっそ、ここから逃げ出したい……。何もかも捨てて、どこかで静かに終焉を迎えたい……」

「……。そうか」

 目を閉じて京平は答えた。それだけだった。

 哀は───彼女はおびえていた。

「どうして……?」

 震えた声でつぶやく哀に、京平は顔を上げた。

「どうして怒らないの……? 私は誹られて当然のことをしているのに……。あなたが軽蔑することを願っているのに……。どうして何も言わないの……?」

 哀の瞳は困惑と居たたまれなさでひどく揺らいでいた。杏もこんな気分だったのだろうか。

「俺はさ」

 薬箱のふたを閉じる。

「俺は、お前のこと知っちまったからな。お前がどうやって生まれて、どんなふうに生きてきて、どれだけ苦しんできたのか、ぜんぶ知っちまった。だから、俺にはお前を責めたりなんかできないよ」

 本心だった。彼女が本当に逃げたいと言うのなら、それもいいと思った。

「でもな。俺はここで逃げたらきっと後悔すると思う。みんな捨てて、こっから逃げだしても誰にも責められはしない。けど、そんなの悔しいじゃないか」

「………でも……私……」

「お前を許してくれるのが誰かは知らない。神様か仏様か。そんなことはどうでもいいんだ。お前は裏切り、死なせ、取り返しのつかないことをしてきた」

「誰も助けられない……わたしに……価値なんて、ない……」

「だったら───」

 京平は病んだようにうわごとをくり返す哀の肩をつかんだ。

 揺さぶり、前を向かせる。

「───だったら、やり直せばいいだろうが!!」

 その時になって、京平は初めて怒鳴った。

「裏切るなよ! 死なせるな! 何度でもやり直せ! 振り返って後悔するぐらいなら隣に手を伸ばしてみろ。俺がその手を掴んでやる! お前は独りなんかじゃないって言っただろ! こんなクサイこと何回も言わせんな!!」

 京平はなかば逆ギレの混じった声尻で言い放ち、哀を抱きしめる。

「……………。……京平……」

「これから言うのは、単なる頼みだ。断ったっていい」

「……………」

「楓呼を助けたい。それからお前が奪われたもの、ぜんぶ取り返したい。───この悪夢を、終わらせよう」

「……………」

 哀は恐怖にかじかんだ緊張を解き、京平の胸に頬を寄せた。

 そして、再び爆風。




       †   †   †




「……………。……なんつーか、破滅的に場の雰囲気が読めねえババアだな、オイコラ」

 京平は吹き荒れる熱風から哀を庇いながら、不機嫌にうなった。

「あら、校舎ごと吹き飛ばしてもかまわなかったのですけれど、そちらの方がお好みでしたでしょうか」

「どのみち夕紀先生は怒るな、ゼッテー」

 そんなごく身内の名前を訶利帝母は知らない。知ってもらうつもりもない。

 しばしの休符を置いて、

「今生の別れは済みましたね」

 訶利帝母は隻腕をたおやかに持ち上げた。こちらを向いた掌が、焦熱を交えて燃え上がる。

 熱波に肌が焼けつき、唇が乾燥してしまう前に、

「別れ? ───違うな。てんで的はずれだ」

 京平はかぶりを振った。焦りはない。恐れもない。

「では何でしょう?」

「作戦会議だ」

 背後から哀が飛び出した。京平の肩を踏み台にして、焼け落ちた校舎を跳び越える。

 一瞬の隙───彼女を目で動きを追う程度の隙───が訶利帝母に生じた。京平はその空隙に一気に間合いをつめる。

 “纏絲”を応用した渾身の踏み出し。腕から派生した螺旋運動を足先まで伝導させる。地面を蹴り砕いて加速した瞬間、音速の壁を突破した。

 爆音を後方に残しながら拳を握り込む。さらに握力を込めると中指の関節が隆起した。

 その鉄杭のごとき拳で訶利帝母の額を割る、ことは出来なかった。

「ぐ熱ぃぃっ?!」

 あっさりといなされ、腹に灼熱の掌底を返される。だがそれをした訶利帝母も呆れかえっていた。

「なんとまぁ堅牢な皮膚ですこと。普通は触れた刹那で消炭になるはずなのですけれどね」

「そいつぁお断りだ」

 京平は焦げた腹をはたいて起きあがった。

「それにしても……、これが作戦なのでしょうか」

 訶利帝母は振り返りもせず、駆ける哀に向けて紫炎の蛇頭を放った。

 光の槍がそれを上回る速度でのたうつ炎蛇を撃ち抜いて直撃を阻止する。

 哀は後方での攻防を振り返ることなく駆け、目当ての場所まで行き着き、目当ての神剣(もの)を引き抜いた。

「………ああ、そういう作戦」

「そういうこと!」

 言って、京平は再度挑みかかる。今度は小分けの順突きを織り交ぜ、反撃を許さない。

 だが訶利帝母もさる者。フェイントに乱されることなく本命の攻撃のみを片腕だけで受け流す。

 振り抜いた拳に鬼女の細い腕がからむと、京平の視界は引き寄せられるように半回転し、次の瞬間には投げ飛ばされていた。

「───っが……!」

 背中から落下した京平は受け身をとって───眼前に訶利帝母が迫っていることを予想しながら───跳ね起きる。

 ところが、この追撃の好機に訶利帝母は追いかけてこず、同じ場所で悠々とたたずんでいた。

「………余裕綽々かよ」

 口に溜まった砂利を吐き捨て、京平はうめいた。

 手合わせてみて分かったが、接近戦の攻撃力はさほどでもない。嗅鼻と比べればいたって非力だ。

「(だがコイツは───)」

 戦い慣れている。多対一という最もやりにくい戦闘に場慣れしているのだ。全力で向かってくる京平を相手にしながら、死角から接近する哀に対しても警戒を怠らない。柔と剛を併せ持つその動きは合気道にも通ずる精妙さだ。

 京平がふたたび訶利帝母に挑みかかる頃には、すでに哀が攻撃を仕掛けていた。

 柄を壊されたため、茎(なかご)が剥き出しになった神剣を握りしめ、薙ぎ、突き、斬下する。

 訶利帝母が手の甲をかざすと、五爪が西洋刀のように伸張した。二度刃音が響いて、両者は距離を開けた。

 最高の潰裂強度を誇る鬼の爪甲は、たった二度の剣戟で半分の長さになっていた。

「流石は最古の神剣。この爪は金剛石をも切断できるのですけれど」

 だが爪は爪、すぐに再生を終える。

「それにしても……」

 今の鬼遣の動きはどうだろう。つい先刻まで死にかけていた者とは思えない。悲壮は消え去り、猛る闘志までうかがえる。

 これもあの鬼もどきの影響なのだろうか。来るべき闘争の日に備えて、数百年をかけて人間というものを研究してきたが、まったくもって興味深い。圧倒的優勢を誇っていた我々が過去の大戦に敗れた原因にも、この雑草のような人間のしぶとさが関係しているのだろう。

「それで? 続きはどうするのでしょうか」

 左右をはさまれてなお平然と訶利帝母は訊ねた。

「アンタ、二対一は卑怯とか言うタイプか?」

「片腕も使わない、と言いたいところなのですけれど、あいにく一本しか残っておりませんので」

「助かるよ」





 機先を制したのは哀だった。正面から鬼女のふところに飛び込んだ彼女は、神剣を低く構え、その切っ先で不知火を削りながら斬り上げる。

 飛燕の一撃が着物をかすった。いや違う。白梅の袂が生き物のように刀身にまとわりつき、哀の重心を引き崩す。

 哀とて接近戦には一日(いちじつ)の長がある。巧みに半身をひねり、逆にその技を訶利帝母に返してやる。腰を折るようにして姿勢を乱した鬼女に向けて、哀は渾身の回し蹴りを見舞った。

 強烈な殴打音。しなやかな脚が訶利帝母の額を打ち据える。常人なら頭蓋骨が陥没するほどの蹴撃だ。

 だが相手は常人では───人間ですらない。

 白い臑に隠れた鬼女の紅唇が、笑みの形に弧を描いた。

 ダメージを受けていないのだ。いくら鍛えていても、やはり人間の筋骨では鬼に効果的な打撃を与えることは難しい。

「ふふ……」

 訶利帝母は腕がない方の着物の袂で神剣を押さえたまま、哀の足首に手を添える。

「年頃の娘が殿方の前で足を上げるなんて、はしたないですよ」

 鬼女は嘲笑混じりに哀の足を握りつぶす。

「ふっ!」

 とっさに哀は身をよじった。掴まれた足を支点に跳躍し、訶利帝母の延髄を逆の脚で蹴り抜く。

 いくらダメージを与えられないとは言え、中枢神経の集まるそこを揺さぶれば隙を作るぐらいのことは出来る。

 哀は解放された片脚で着地し、地面を蹴って飛び退こうとして───爪剣の追い打ちをモロに受けた。

 金属音と共に蒼い閃火が散り、哀が刀での防御に成功していたことを知る。だが、重い一撃は彼女の身体を軽々と宙に打ち上げた。

 京平は偶然落下地点にいたため、高速で投げ出された哀を受け止めることができた。慣性にあえて逆らわないことで衝撃をやわらげてやる。地をすべる両足が二本の轍を刻み、土埃が風に乗って流されていく。

「か───」

「平気……。心配は嬉しいけど、よけいな気づかいは無用」

 押しのけてきて哀は言った。だが、刀身の根元である茎を直接にぎる彼女の手は薄皮が破れ、朱色の血がにじみだしていた。

 京平の視線を感じたのか、哀はスカートを縦に裂いて茎に巻き付けた。

「この刀でなければ完全には殺せない。なんとか隙をつくらないと……」

「───ああ」

 そう答える間も、京平の視線は一点に注がれたままだ。

「なにを見ているの……?」

「スカートから見える哀のナマ足」

「……………」

 神剣を持つ哀の手が、振り子のように反動をつけ、京平のあご先を痛打した。

「痛ぇっっ?! か、カドで殴るこたぁないだろっ? ………っつーか、それ神剣じゃねェか?! 殺す気かよっ!」

 飄々としている哀に、京平はアゴを押さえて訴える。

 訶利帝母は微笑を苦笑に変えた。

「………。いかんともしがたく緊張感に欠ける方々ですね」

「───なに、呼吸合わせってヤツだ」

 言って、京平は拳を打ち鳴らす。見た目通りの硬鋼の哭が響いた。

 哀は鞘なき刀を居合の形に構えて自分の間合いをはかる。

 訶利帝母は余裕の笑みで爪剣を伸ばした。

 ───硬鋼の余音は続く───。

 殺意は混じり合い、風ではないうねりが木々を揺らし、小石が自殺を始める。

 余音がやみ、静謐が訪れかけたとき───三者は同時に動いた。

「はっ!!」

 金剛石をも寸断する五爪が回転一閃。

 哀は身を沈ませてそれを躱し、京平は鬼の動体視力をもって白刃取る。不協和音と共に火花が散り敷き、こそぎ取られた鋼の皮膚が火の粉となって夜に舞う。

 その間にふところに潜り込んだ哀は、下段脛足斬りから中・上段へと変則的につながる連続突きをお見舞いする。

 しかしそれをあしらったのもまた五爪。京平が止めたはずの爪剣は切り離され、新たな爪が哀の刺突をからめ取っている。同時に掌底が赤熱化し、近寄りすぎた哀の顔に押し当てられる───直前に躍りこむ乱打の猛襲。

 鋼の腕からくり出される、秒間百発の正拳突き。片腕一本でしのぐことなど不可能だ。

「(大門のマネなんて、死んでも言えねェ……!)」

 技のヒントをくれた男の顔を思い浮かべて、京平は心中で毒づいた。

「く……!」

 一糸乱れぬ挟撃に、訶利帝母はやむなく後退した。詰めた距離が再び開きかける。

 が、さらに二人は追いすがる。訶利帝母の余裕の貌をはぎ取るため、追撃に追撃を重ねて、常に咫尺の間合いを保つ。

 距離を置かせてはならない。技で劣る京平と、力で劣る哀がこの旧大陸最強の鬼に勝つには、互いの呼吸を合わせ、一気にたたみ掛けるしか策はないのだ。

 なにより哀は負傷している。この人外の高速戦闘に何手も合わせられる体力が残っているとは思えない。

 鬼女が飛びずさると、突進速度で勝る京平が追いつき、乱打乱打で足止めし、哀が一刀で必殺を決める。命中率は関係ない。ひたすら攻めの一手に尽きる。

「(行ける……!)」

 一瞬の弛みが即、死に繋がる相手に京平は肝を冷やしながらも、半ばまでの策の成功に哀と目を交わした。

 たった一度しか互いの攻撃を見せ合うことができなかったが、なんとか上手くいっている。タイミングの狂いは、ほぼ無いと言っていいだろう。

 初戦で二人同時に掛からなかったのはこのための布石だったのだ。

 相手に反撃のチャンスを与えず、二人がかりで執拗に攻めたてる。たった一人になんとも泥臭い戦法だ。

 だがそれがどうしたというのか。

 卑怯? 見苦しい? そんなものは正々堂々と闘ってどうにかできる者が相手だった場合の話だろう。

 残念ながら眼前の女は次元が違う。銀髪緋瞳に柔和な顔立ち。見た目こそは麗しき稲魂女だが、こいつは間違いなく最強の鬼だ。

 爪の一振りは魔獣の一撃。紫紺の火群は邪竜の息吹。身のこなしに至っては人の武術を超えている。

 慎重に小癪に、四十八手の限りを尽くして攻めていかねば、一瞬で巻き返される。

 息もつかせぬ攻防が続き、何度目かの追駆の時、ついに京平の拳が訶利帝母を捉えた。

 数百発の乱打のうちの二発、たった二発だが、もろにその胴に突き刺さる。

「ぐ……っ」

 たたらを踏んで下がった訶利帝母に、背後から斑模様の刀が迫撃する。肩から背へかけて袈裟懸けに血の筋が走った。が、まだ浅い。空中へ逃げられる。

 そこに待ちかまえるは動きを読んでいた京平の拳。鬼女の顔に少なからず驚愕が浮かんだ。

「っラァッ!」

 訶利帝母より高く跳躍した京平は、真下へ拳を振り落とした。今度は受け流せない。防御した敵の腕が生々しく軋むのが聞こえた。

「ぐっ! 貴様……!」

「は! どうした訶利帝母さんよ? 仮面が剥がれてきたんじゃないか?」

 京平が嘲笑混じりに鼻をならすと、炎蛇が飛来してくる。

「遅ぇっ!」

 空中で纏絲。十分に体勢を整えれば空気さえ踏みしめることは可能だ。

 光の槍で蛇を撃ち抜き、そのまま突進。

 全力で鬼女を押さえ込み、京平は錐揉みしながら地面へ落下していく。

 向かうはいかなる鬼でも一刀のもとに斬り伏せる神剣の御許。

「離せ───」

 訶利帝母が形相をゆがませる。しゃにむに手刀が腹に突き立つ。それに耐え、号叫。

「やれ!!」

 是非もない。哀は狙いをさだめ、飛燕を超える神速の一刀を浴びせた。







Title

Back         Next