第陸章/蒼茫の傷痕、澱む流砂
9
天と地をへだてる暗雲。それをさらに遮蔽するドス黒い靄(もや)。
はるか頭上で胎動するそれらを、彼女は虚ろな瞳で見上げていた。
「こふ……っ」
食道を流れる鉄錆のぬめりに、哀は力なく噎せた。
祀る相手の居ない夜神楽が、奈落に等しき地面で濡れた拍子を打っている。指先からしたたる血は、水時計のごとき正確さで身体から失われていく。
失血の極寒の中、囂々とうなる風音が、耳鳴りと同じくやもうとしない。
鞘はどこかで取り落としたようだ。かろうじて指に引っ掛かっているだけの緋刀は、もう何の反応も示してくれない。
この身には代償にする命すら残っていないということか。
皮肉なものだ。浅はかな決意。半端な覚悟。故に置かれている状況。それらの因果となった使命への背反。そういったもの全てが自分の行動を当てこすっている。
殺すことしか知らないから、殺すことで救おうとした。
だがそれは矛盾しているのではないか? 誰かのために誰かを殺す。その誰かは大事な人の大事な人なのに。
それを殺すことで救うなど、聞いて呆れる。
結局はそうすることもままならず、操られているだけの人々をいたずらに殺しただけだった。
そして今、こうして自分自身に死が訪れている。使命を果たせず、価値も証明できず、
無様に朽ちて、果てていく。
「───或いは、あなたが万全であれば、私に傷を負わせるぐらいのことは出来たかも知れませんね。千年前のあの日のように」
宙に立つ鬼のささやきが聞こえる。ほんのささやきにすぎない女の声が聞こえるということは、自分もまた宙にいるということだろう。
妖術によって生み出された蜘蛛の糸は、羽の折れた蝶を捕らえるかのごとく、哀を宙空に磔にしていた。
「疼くのですよ……、あなたに喰われたこの腕が、今はない双角が」
厚みのない袖を撫で、鬼女が紅をひいた唇を近づけてくる。
「あなたにかしずく従順な一族は絶えた。あなたを守る健気な老翁は嬲られ死んだ。あなたの価値を証明してくれる者はもう誰もいない」
耳を愛撫する吐息が蟻走感を誘う。
「ですが、安心してください。これからは私があなたを飼ってあげましょう。生まれたその日から、念入りに時間をかけて、苦痛という苦痛を、絶望という絶望を贈りましょう。皮を剥いで血吸蛭の沼に落としてもいい。手足を焼き落として鬼の巣に放り込んでもいい。いくら殺してもまた生まれ変わるのですから。あなたの無限の命は、これからは私の戯れだけに使いましょうね」
訶利帝母は密やかに紅玉の双眸を細めた。
「知っていましたか? あなたは玩具としてなら、とてもとても価値があるのですよ」
「っ……ふざ……けるなっ……」
哀は身体をよじる勢いで刀を振るう。だが鬼女の吐息が耳から離れることはなく、咒力の籠もらない斬撃は、指先一つで止められた。
訶利帝母は受け止めた刀に視線を移した。
「阿防羅刹鬼様と同じ時代を生きた最古の神剣。形を変え、銘を変え、けれど緋蓮の彩だけは変わらない。私たちにとって真の恐怖とは貴方ではなくこの刀。ですが振るう者が骸ならば、神剣もまた腐太刀。恐れる由もありません」
指先が刀を弾くと、切羽が砕け、鍔が割れ、目貫が外れ、柄が爆ぜる。
裸身を晒けだされた神剣は、友人を見捨てて闇の淵源へと落ちていった。遠い地面で刀が突き立ったことを知らせる無様な甲音が聞こえてくる。
「ふふ、薄情なお友達ですこと」
とうとう哀は訶利帝母に対抗する最後の手段までなくしてしまった。
鬼女は嫣然と微笑んで、哀の服の中に隻腕をすべり込ませた。
「慰みを得るにはまだまだ甚振りが足りませんが、今は羅刹鬼様を現世にさしまねくのが先決。一度死んでおいてください。ほんの少ししたら、お迎えに上がりますから」
たおやかな指先は淫らに肌の上をすべり、ふたたび開いた裂傷のところで動きを変えた。
「………ぁ…ぐ……っ……!」
丁寧にそろえた指爪が哀の脇腹の傷をえぐり、その奥の腹膜まで圧迫する。肺腑から空気が押し出され、なお指爪は食い込んでくる。
「っく……ぅ……ぁぁぁっ……」
鬼女の指は場所を確かめると、腸をくじり出さんと指を深々と潜り込ませた───その手がさらに動きを変えた。
傷口を離れ、横手の空間を扇ぐ。手の動きに召喚されるように鈍色(にびいろ)の鏡面が出現し、訶利帝母の側面を防護した。
それは高位の妖術者が使う強力な反射障壁だが、何故ここでそれを使う必要があるのか。
哀は訶利帝母のとった行動を理解できなかった───ほんの数瞬前までは。
光の槍。その閃光はそう形容するに相応しいものだった。
音はない。ただ光速よりもやや遅い速度で閃光が飛来してくる。漆黒の竜巻を突き破ることでその威力の大部分を減衰してしまった一撃は、鈍色の鏡面に阻まれて屈折する。
だがそれを見越したように、二度、三度、閃光は立て続けに訶利帝母を狙撃した。
「小賢しい……!」
空間がねじれる。さらにそれが一点に凝縮されると、彩度のない竅(あな)が開いた。
発動にかなりの時間を要するはずの『幽界干渉』を、訶利帝母は瞬息の時で編み上げる。溶けるように鬼女はその穴に消え、光の槍を回避した。
同時に、哀を拘束していた蜘蛛巣が解けた。いや、解かされたと言った方が正しい。
回避運動に、訶利帝母は意識の大部分を集中せざるを得なかった。それだけの威力がその閃光にはあった。
束縛から解放された哀は、万有引力に引きずられて落下していく。
消耗しきった彼女の身体は受け身を取ることすらままならない。確かなことは、この高さから落ちれば確実に死ぬと言うことだ。
だが、光の槍を放った者がそうはさせなかった。強引にこじ開けた風穴を抜けてきたかと思うと、疾風迅雷で哀を抱きとめ、狂瀾怒濤で着地する。
盛大に舞い上がる土煙が、二人の姿をおおい隠した。
砂塵立ちのぼる紗幕の中で、哀は彼の姿を見た。
「悪いな。寄り道してたら遅れちまった」
鉤裂きの傷のように、右頬まで鋼に侵蝕された鬼もどきが、哀をそっと地面に降ろした。
「……………どうして……」
哀は京平の肩に触れ呆然と彼を見上げた。
「………どうして、来たの……?」
「おいおい。せっかく必死こいて助けにきたってのに、第一声がそれかよ」
「来ないでと手紙に……」
「あーはいはい、話はあとな」
咎める声にも生気のない哀を制して、京平は上空を振り仰いだ。土煙の切れ間からのぞくのは、幽界から帰還したばかりの角のない鬼。
「………嗅鼻を摧破しましたか。見目の報告を失念していました。先にあなたを排除しておくべきでしたね」
訶利帝母は紅瞳を細めて京平の姿見を観察した。
「その銀灰色の肌。修羅の一族(やから)でしょうか。修羅族の血は絶やされたと聞いていましたが、生き残りがまだ居たようですね」
京平はそれには答えず、代わりにぐるりと周囲を見渡した。
そこは京平にとって馴染みのある場所だった。しかし暗闇の中では、そこはまったく別の場所にも思えた。
「まさか最後の舞台が俺の高校だとは思わなかったよ。粋(いき)なことしてくれるじゃねェか」
「この高台は元々羅刹鬼様が誕生するための厩戸(うまやど)。後から来た人間がここに学舎を建てただけの話です」
卒業生のするそれと同じ所作で学校敷地を眺める京平に、訶利帝母は答え、訊ねた。
「………先程の閃光、変わった術ですね」
「なぁに、アンタの妖術ほどじゃないさ」
“纏絲(てんし)”自体はさほど驚くものでもない。正しい教えと日々の鍛錬があれば誰にでもあつかえる力の伝動技術だ。
人間の貧弱な筋骨で最大限の破壊力を発揮するために、人類が連綿と築き上げてきた拳の極致。
それに鬼の身体能力が加わればどうなるか。
結果は今見た通り。音速の壁を越えて撃ち放たれた拳は、闇を貫き大気を燃やす光の槍となる。
「俺のはしょせん単なる技だ。練習すれば誰だって使える。だがアンタのはまるで魔法だよ。数千人近い人間をあやつり、このクソでかい竜巻をいまだ維持し続けてる。しかもまだそれで全力じゃねェ」
京平は挑むように話しながら、気配で哀の状態をうかがった。
ひどい怪我だ。動けるどころか生きていることさえ不思議なほどの深手を負っている。
「………ところで、ここに来る途中で見たんだけどよ。この真っ黒な竜巻の外側にゃあ、アンタの手下が山ほど居やがった。ずいぶんとうろたえてたぜ?」
「待機を命じましたから」
「そうか? まあいいや、そういうことにしとこう。確かに戦力になる鬼を分散させるより、操った人間で陣地を守らせた方が効率がいいしな。俺も手を焼いたよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
優雅に会釈する訶利帝母に、
「でもな、おかしいんだよ」
京平は芝居がかった様子で眉をひそめた。
「確かにやり方は理にかなってるが、ならなんでここに仲間を入れないんだ? これだけの広さがあれば鬼共全部を収容できるだろ。八局───だっけか?───と一戦やらかすつもりなら、この竜巻の中で敵を待ち構えた方が都合が良いはずだ。なのにアンタはそれをしない」
訶利帝母は薄く目を閉じたまま、京平の推測を聴いている。
「潔癖性だとかいう冗談はナシだぜ。あんたが一番血生臭い」
京平はなお問うた。
「仲間を切り捨て、この閉塞された空間で、アンタは何をしようとしてる?」
その詰問は、訶利帝母の目的が単なる羅刹鬼の復活ではないことを明言していた。
「……………。……ずいぶんと、頭が働くようですね」
細い目からのぞく虹彩が、ぬるりと色を変えた。
「それも隔世の力によるものでしょうか」
「かもな」
八つ裂きにされるような殺気を受け流し、京平は肩をすくめてみせた。
「そこまで理解しているのなら教えて差し上げましょう」
三拍おいて、鬼女はさえずるように言葉を並べた。
「私の悲願───いえ、阿防羅刹鬼様の悲願は、幽界の人界への帰依」
「………いまいち意を尽してねェな。それでどうする。お仲間をこっちに呼び込むつもりか?」
「私たち鬼は元々こちらに棲んでいた生黎。大戦の末に人間共に住処を奪われ、幽界へと追いやられた憐れな民なのです」
それを聞いて京平は笑った。
「ならアンタはそいつらを助けてやる女神様か?」
「救済こそが『鬼子母神』と呼ばれた私の存在意義ですから」
「それはそれは、お優しいこって。どうやってンなことをする気なのか、ぜひ教えてもらいたいもんだな」
訶利帝母は嫣然と笑んで答えた。
「救いとは、永遠の闘争」
甘い吐息のようなささやきは、鬼女がどれほどその教義を盲信しているのかを表していた。
「鬼と人との永遠の闘争。それこそが乖離したこの世界にある不平等をなくす唯一の手立て。幽界と人界の相異を整合し、病理に蝕まれた二つの世界に階(きざはし)を架ける。人智を越えた夢想も、阿防羅刹鬼様のお力を以てすれば実現可能となるのです」
隻腕をたおやかに広げながら述べる鬼女に、京平は耳をかっぽじった。
「───ごたく並べてもらったところ悪いんだが、つまりはどういうことだ? あんたの話だとこっちに敵・味方関係なく化物を呼び出して戦争をおっぱじめようっていう風に聞こえるんだがな?」
半眼でうめく京平に、訶利帝母は首肯した。
「二つの世界が融合したならば、天は変じ地は異なり、幻は妖となり、霊は怪となる。魔物の群れが空を覆い、鋼鉄の兵器が海を渡る。鬼の群れが街を襲い、重装の兵隊が巣を焼き払う。若者も老人も大人も子供も男も女も金持ちも貧乏人も健常者も障害者も。奪い奪われ、殺し殺され、わけへだてなく闘争に明け暮れる世界。あわせて百二十億の人間・妖魔が種族を忘れて殺し合う、なんと平等なる世界」
暗雲が稲光り、後光のごとく蒼い亀裂を生んだ。
「闘争こそがすべてに篩(ふるい)を掛けるのです。力なき者は死に、力ある者だけが生き残る。闘いの果てに残った者たちは新たな社会を創り上げていくことでしょう。それが極下の地獄であれ、至上の天国であれ、そこは間違いなく病理がおこたらんだ健康な世界です。それはそれは素晴らしい光景とは思いませんか?」
「思わないな」
即答されて、訶利帝母は笑みを消した。
「理解されないとは寂しいことですね……。では如何します。私を斃して復活の祭祀を止めてみますか?」
問われて、京平は邪魔くさそうに髪を掻いた。
「そういうのもヒーロー気取りな感じでいいんだが。ぶっちゃけた話、俺はアンタの目的なんざどうでもいい。世界がどーのこーのなんて、そんなご大層なものはいち高校生の及ぶモンじゃねェしな」
「では、お帰りなさい。同族のよしみ。とく走りて帰りたれば見逃しましょう」
「そうもいかねェ。うちの妹がそっちで世話になってるからな。迎えに来たんだ」
「では、我が軍門にくだりなさい。そこな死に損ないを始末し、羅刹鬼様に忠節を尽くすと誓うのであれば、皇子として迎え入れ、闘争の世界で妹と共に暮らすことを許しましょう」
それが鬼女の最後通牒であることはよく分かっていた。だからこそ京平は訊ねた。
「その前に、一つだけ聞いていいか?」
うなずく鬼女に京平は質問を投げかける。
それは重く、痛みを伴う問いだった。
「────────………杏をあんな風にしたのはお前か?」
憎悪が滴るような口調ではなかった。ただ悲しみだけがそこにあった。
「我が子は長く苦しんで死んだようですね、可哀相に……。七千三百二十四人の吾子の中でも彼女は特にお気に入りだったのですけれど。足止めにすらならないとは、───やはり塵は塵にすぎませんでしたか」
吐き気と猛烈な怒りは、それを上回る冷徹な意志が抑え留めた。
「なら……俺の答えは、聞かなくても分かるよな?」
「そのようですね……。残念ですが、逆らうのであれば仕様がありません」
訶利帝母を中心に、業と紫炎が舞い上がる。俊敏な大蛇(おろち)のように炎はうねり、鬼女の肌を這い回った。
恍惚とした鬼女の容貌に紫炎が妖しく照り返る。紫の炎蛇は隻腕に蜷局を巻き、その顎を大きく開いた。
伽藍の口腔より生まれたるは、灼熱の玻璃珠。四つの牙に制御された炎の球体は無尽蔵に酸素を喰らい、その熱と輝きを増していく。
「───死になさい」
圧縮された紫炎の塊が撃ち放たれ、反動で鬼女の腕が跳ね上がる。炎球が地面もろとも彼らを焼き尽くす直前に、京平は哀を抱き上げてその場を離脱した。
すぐさまその後を追いかけてくる第二射、そして第三射。火炎球の連射は正確に二人を追尾し、京平は不規則に方向を変えることによって危ういところでそれを躱す。駆ける彼のそのすぐ後ろで、紫炎の泡が爆ぜては散る。
今のところは回避できているが、こちらの移動速度よりも訶利帝母の狙いの方が精確で迅い。動きを先読みした鬼女が、京平の次の回避点を予測して狙撃してくる。
高熱の炎が眼前にせまり、直撃する───そう思った刹那、氷の壁が紫炎の一撃を禦(ふせ)いでいた。
身を乗り出した哀がなけなしの咒力で氷面鏡(ひもかがみ)の盾を創り、炎の威力を緩衝させたのだ。
「バカヤロ……、無茶すんな!」
直撃をまぬがれた京平は校舎の裏に逃げ込み、気息奄々の哀にがなり立てた。
「っ……平気。まだ戦える……」
「ケ。そんなナリでなに言ってやがる」
「ひとりで勝てるつもりなの……?」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すぞ。置いてけぼりは二度とゴメンだ」
「───………。悪いとは、思ってる……」
「思ってねェだろ」
「………じゃあ、どうしろと言うの……?」
「知るかバカ。自分で考えろバカ」
「馬鹿って言う方が馬鹿……」
「………幼稚園児か、オマエは」
校舎の陰に隠れて、つまらないやり取りを二人は続ける。
押し殺した声で、がなり、わめき、鬱憤(うっぷん)をぶちまけていると───、
───爆風。
隠れていた校舎の二階より上が吹き飛んだ。さらに直上から情け容赦ない紫炎球の連弾。
純粋な熱量は爆発を伴わず、くりぬくように地面を熔解させる。煮えたぎる溶岩は煙を上げることもせず、半球状に熔けたその口を徐々に閉ざそうとしていた。
だが、そこにいたはずの京平と哀は、
「……………。逃げた?」
訶利帝母は独り語ちた。漆黒の竜巻が破られた形跡はない。ここから逃げ出したわけではないようだ。
「………やれやれ、今度はかくれんぼでしょうか。“そのとき”まで幾許も無いというのに」