第陸章/蒼茫の傷痕、澱む流砂


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 街はおおむね静かだった。ときおり遠方で雷雲が稲光る程度のもので、風が吹き止んで澱みにに澱んだ街路は、暗鬱な静寂に包まれていた。

 が。

 それを乱す突然の轟音。

 火力によるものではない爆発が、連続して街に立ちのぼった。

 一直線の爆轟(ばくごう)に土煙が引きずられ、遅れて家屋が倒壊していく。

 それを引き起こしている張本人は、ひたすら身を丸めて耐えていた。

 何に耐えているのかと言えば───壁にぶつかるたび脳を揺さぶる衝撃。肌を掻きむしる建材の飛礫。後方へ引っ張られるような無重力感───等々だ。

 何件かの家を全壊させて、傷だらけの身体が壁にめり込んで埋まる。最低のブレーキだ。 生身の人間ならば斧の一撃で血の霧と化していることを考えれば、そう最低でもないのかも知れないが。

「げほっ……」

 白く煙る粉塵にむせながら京平は身を起こした。

「………ジリ貧だぜ。こっちにゃとことん時間がねェってのによ……」

 舌打ちして、瓦礫となった漆喰の壁を押しのける。

 何度も吹き飛ばされたせいで、最初にいた場所からだいぶ離れてしまった。ここにとどまれば、数分もしないうちに肥満の狂戦士が追いついてくるだろう。

 なんとかして人気(ひとけ)のない場所までおびき出さなければ、勝負にもならない。しかし今の自分では、まともに闘り合っても勝ち目はないだろう。なんとかしてあの斧だけでも封じなければ。

 対策を練りながら京平は民家を出る。外にはこの区の住人が待ちかまえているはずだ。

「痛っ……」

 京平は両腕の痛みに顔をしかめた。幾筋もの裂傷が刻まれた両腕。鋼の皮膚は裂け、その奥からは骨までのぞいている。あの剛斧を受け止めてこの程度で済んでいるのは、むしろ幸運と言えるのかもしれない。

 しかし相も変わらず全身には脱力感が漂い、一歩進むのも億劫だ。先の戦闘のような無尽蔵の妖力はどこにもなく、なんの超常も起こせない。

 そのくせ人間を相手にするには持て余すのだ。

「やっかいな身体だぜ……ったく」

 瓦礫(がれき)の山を踏み越えて外に出ると、

「あれ?」

 誰もいなかった。

 静かなものだ。どこにも敵の姿は見あたらない。

 京平はぴんと来た。

 あの鬼が何の考えも無しに吹き飛ばすものだから、人間の足では追いつけなくなったのだろう。そこから考えると街の人間全員が操られているわけではないと推測できる。そのわりにはこの家には誰も住んでいないが───たまたま留守だっただけのことなのだろうと京平は考えた。

 いずれにしろ好都合だ。奴をおびき出そうと思っていた場所にはまだ遠いが、ここであの鬼を待ち伏せることにしよう。

 そう黙考したときだった。

「せんパイ……」

 消え入りそうな声が聞こえた。京平は声の方に振り向く。聞き覚えがありすぎる声だった。

「杏っ……?!」

 そこには、ぼろぼろになって今にもくずおれそうな後輩がいた。

 彼女も操られているかも知れない。そういった考えはかすめもしなかった。自分の姿が普段と違うことも忘れていたほどだ。

 駆けよって杏の左肩を支える。

 右の肩には触れられなかった。脱臼していたからだ。

「大丈夫か、杏?」

「せんパイ……」

 苦悶の表情を浮かべながら、健気にも杏は笑って見せた。

 それから脱臼した腕をかかげ───無造作に殴りかかってきた。

 関節が外れていたせいか、狙いは逸れて背後の壁に当たった。頑丈なコンクリートにひびが走り、同時に関節の潰れるくぐもった音が京平の耳をねぶった。

「あは……すごいッスよね、人間て」

 呆然とする京平をとろめいた目で見やり、杏は血に染まった拳を引き抜いた。

「普段使ってない筋肉まで動かせば、何だって出来るんですよ。痛みだって、ほら、ぜんぜん感じない」

 折れた指を見せながら杏は言った。

「けっこうサマになってたでしょ? 実はあたし、昔は空手やってたんですよ、膝を壊して辞めるまで。結構強かったんスから。優勝だって、したことあるし」

 逃げ出したかった。いつもと変わらない眼差しで見つめてくる後輩の瞳から。

「でも、今は大丈夫。ちっとも痛くないです。どんな人にだって負けないッスよ」

 顔は笑っているのに、瞳は悲しみの色に染まっていて───杏の声は震えだした。

「あ、あたし、マネージャーやってたけど……、ホントはずっと空手やりたかったんです。また胴着を着て、思いきり動けるようになりたかったんです。こんな身体になって、イヤ だと思わなきゃいけないのに。こんなの間違ってるのに。心のどこかでうれしがってるんです。もっと早くこんな風になってたら、空手やめなくてもすんだのかなぁって。……………っ……最低ッスよね、あたし………」

 そこまで告白して、杏は息を吸った。何かを決心したように。

「だから、せんパイ……」

 やんわりと微笑む後輩の瞳は、すでに正気を取り戻していたように思えた。

「悪夢を……終わらせてください」





 大地が重く揺れる。月明かりすらない暗闇の中、巨大な影が杏に覆いかぶさった。

 杏は背後に何がいるかなど、どうでもいい様子だった。静かに目を閉じる。

「ぐヒ」

 下卑た笑顔。

 振り下ろされる鉄塊。

 杏の涙。

 声にならない誰かの叫び。



 ───血が飛んだ。



 紙人形のように杏の身体は切断されて、赤い尾を曳きながら弾き飛ばされる。

 壁に叩きつけられた杏はゆっくりとうつ伏せに倒れて、それきり動かなくなった。

 致死に値するであろう血溜まりが、彼女を中心に拡がっていく。

「……………杏……?」

 頬を濡らす温かい雫───彼女の血液。京平はそれに触れ、呆然とうめいた。

 あまりに無機質な光景だった。これが彼女の言う悪夢なのだろうか。だからこんなにも現実味に欠けているのだろうか。

 ここにいたのは自分の後輩で、少し前まで一緒に部活でバカやってて、あいつはやたらそそっかしくて、むやみに元気で、でも誰よりも一生懸命で───

 ───血溜まりに伏した彼女は、もう二度と笑わない。

「…………………………………………あ…………ああ…………」

 眼前で起きた光景を信じることが出来ず、京平は震える足で杏にすがった。

 何もできなかった。どうすることも、この手で庇ってやることすら出来なかった。

「ヨソ見はイケナイよ」

 肥えた鬼が立ち塞がって、彼女の姿が見えなくなる。

「───…………っ」

 『どけ』という言葉はかすれたうめきにしかならなかった。

 京平は仕方なく太い腕に手をかけ、脇に避けて通る。

 余りにも無防備だった。京平自身が。

 岩のような拳が鳩尾に刺さる。豪腕の一撃は鋼皮を砕き、肋骨を深く肺にめり込ませた。

 避けようと思えば避けられたのかもしれない。だけど避ける気にはなれなかった。

 杏の受けた万分の一でも苦しみを味わわないと、自分を許すことができなかった───こんな事で許されるはずがなくても。

 民家を突き破り、路上を跳ねて転がっていく。血が苦いのは内蔵のいくつかが破裂したからかも知れない。それでも京平は杏から目を離せなかった。

 彼女の姿がだんだんと遠ざかって、視界から消えて、それでもまだ見つめ続けていた。

 ───死んだ。あの娘は死んだ。

 ずきずきと痛む。それは幾度となく斧撃を受け続けた両腕なのか。それとも、言い知れようのない締めつけを感じるこの胸なのか。

 噛みしめる歯の抵抗が無くなる。奥歯が折れたのだと知れた。歯の痛みはずきずきとまぎれた。



 ───重圧が、解けた、気がした。



 自分には何が足りていないのか。自分には何が必要なのか───一様に理解した。

 京平は空中で身を翻し、勢いを殺さないよう後方へ飛んだ。

 嗅鼻の追撃をしのぎ、背後に建設途中のマンションがせまると、今度は真上に跳び上がって逃げる。

 青ビニールの遮幕をつかみ、鉄パイプの骨組みを踏み台にして、さらに上へ上へと登攀する。

 京平が登りきった先は、誰の邪魔も入らない広い屋上。闘いの場所としては申し分ない。

 二秒遅れて低い鼓音が一つ鳴った。さらに二秒。嗅鼻の巨体が屋上を跳び越え、宙空で平衡を取る。たった一回の跳躍でここまで昇ってきたのだろう。とてつもない腕力だ。

 巨体に似合わず着地は静か。しかし追従する鉞が太い肩に乗ると、その重さに床が悲鳴を上げ、足場を中心に亀裂が走った。

「いつマデ、逃げ回る気ダイ?」

 双眼を愉悦に光らせて、嗅鼻は訊ねてきた。

「安心しろよ。………もう逃げねェ」

 京平は折れた奥歯を吐き捨てた。口内に拡がった鉄の味は、冷静さを取り戻すには充分だった。唾液と混ぜ合わせて胃袋に流しこむと、胸の圧迫が解消された。同時に、頭の中が恐ろしく冷えていく。

「殺サレル覚悟が出来たのカイ?」

「そうだな……。殺す覚悟なら、たった今できたところだ」

「殺ス? 誰ヲ殺すってェ?」

 嗅鼻は腹をかかえて嗤いだした。当たり前だ。弱りきった鬼もどきになにができる。

 骨まで削がれた両腕は指先を動かすだけで激痛に苛まれ、全身の脱力感はいっこうに良くならない。先の戦闘のような人外の膂力は失われ、無制限の妖気はどこにも無い。

 現状は何一つ変わっていない。

 だが───、

「その程度か?」

「………なニ?」

 京平は振り返った。右足で円弧を描(えが)き、腰を落とす。浅く握った拳を前に出し、焦点は曖昧に。

 それは慣れ親しんだ旧知の構え。

「お前はその程度が本気なのかって聞いたんだよ、永禮京平」

 その言葉を残し、京平の姿は陽炎のように揺らめいて、消えた。

 存在の消失など有り得ない。考えられる可能性は三つ。異界へ逃げたか、幻術で目を眩ませたか、もしくは五感では捉えきれないほどの速度で動いているか、だ。

 答えは三つ目だと嗅鼻が知ったとき、彼は内臓を粉砕する衝撃を浴びた。

 そう、確かにそれは衝撃だった。音より先に衝撃がやってきたのだ。

 嗅鼻のたるんだ腹に鋼の拳が突貫している。遅れて、破れた空気の残骸が京平の髪を逆撫でた。

「ぐブぁ───?!」

 撃ち込んだ拳を中心に、太鼓腹が波紋を刻むかのごとくたわむ。

 一瞬にして相手の間合いに踏み込んだ京平は、さらに一歩、強く地を踏みつけた。

 地面をひずませるほどの脚力を一直線に伸ばした腕へ直列に伝え、鋼の掌底で嗅鼻のあごを打ち上げる。

「ゲぶっ?!」

 顎骨のない顔面がいびつにひしぐ。直上に跳ね上がる超重量級の体躯。京平は空中の標的に狙いを定め、その場で独楽のように回転し、何が起こっているのかも分かっていない嗅鼻の側頭を裏拳で打ち払った。

「ぷジャっ?!」

 ねじくれた角がへし折れ、嗅鼻の巨体は錐揉みしながら屋上から弾き出される───よりも速く京平が追いつき、節榑立った背骨に容赦なく肘鉄を叩き込んだ。

 踏みしめた足裏がコンクリートの床を陥没させ、そこに叩きつけられた嗅鼻がさらに大きなくぼみを作る。

 ゴム毬のような身体は、ゴムほどには跳ねず、地面に一度バウンドする。

 巨体の肩をつかんでこちらを向かせ、京平はガラ空きの腹へ驟雨のごとく拳打を降らせた。

 肉の潰れる感触。骨の砕ける感触。胃液と小便の匂い。どれもこれも虫酸が走る。それでも京平は殴打をやめない。執拗に、執拗に、殴り続ける。

 この数秒の間にいったい幾つの拳を撃ち込んだのか。相手が白目を剥いて口泡を吹くようになったところで、京平は凹んだまま元に戻らない肥満腹から拳を引いた。

 地響きを立ててくずおれる巨体。地べたに倒れ伏した嗅鼻は胃の中身を盛大に吐きもどした。黄土色の胃液が土石流のごとく床にまき散らされる。

 京平はもう嗅鼻には興味を示さず、ただ遠くを眺めていた。

 見渡してみても街に灯りはない。あたかも街全体が黒い漆で染め上げられたかのように、家々の輪郭すら窺うことはできない。

 このあまりにも寂しい街のどこかに、杏が───杏の死体がある。

「………ザマぁねェな」

 コンクリートに埋もれた嗅鼻を見もせず、京平はつぶやいた。

「はいつくばって、血ィ吐いて、けっきょく何も守れやしねェ」

「な、ナにヲ、言ッ……テ……?」

「あいつは、杏は、もっと痛かった……よな。俺やテメェなんかより、ずっとよ……」

 静かな殺意とでも言うのだろうか。

 冷静で、残酷で、暴虐で、虚ろで、優しくて、頼りない。凪いだ蒼空のような殺意。

「うオ、お、あ、ァァ……っ?!」

 吐瀉物の沼に手をついたまま嗅鼻はおののいた。

 どうなっている。この男の能力はなんら変わっていない。人間よりは強く、だが鬼よりは確実に弱い、そんな程度の力だ。

 だが、このスピードは? このパワーは? この強さは?

 こいつは潰せない。こいつは殺せない。こいつは喰らえない。

 このままでは、負けてしまう。

 負けてしまう? 自分が? こうるさい相棒の呪縛から解放された最強の自分が? 負ける?

「ソんな……、そンナ……ワケ、アるぅるルるルルかァぁぁァぁァァァっ!!!」

 怒りにまかせて起きあがった嗅鼻は、無茶苦茶に剛斧を振り回しだした。発生した風圧だけで、給水タンクがそれと繋がるパイプごと根こそぎ引っこ抜かれる。

 凄まじい威力だ。しかし命中(あた)らなければ何の驚異でもない。

 京平は烈風をかいくぐり、薙ぎ払おうとする厚刃をいなして、柄───すなわち嗅鼻の下腕をひざの裏ではさみ込んだ。

 ぶづん、という生々しい音と共に引きちぎれる筋肉。反動と梃子の原理は、鉄腕を難なくもぎ取った。

「ぶルァァァぁぁっ?!」

 絶叫と同時に鉞が飛び、猛回転しながら床に突き立つ。

 破砕音と共に、ついに致命的な亀裂が床に走った。亀裂は枝分かれしながら拡がり続け、階下の壁にまで及んでいく。

 だが、それは崩壊を調べる序曲にすぎない。

 戦闘での度重なる損傷。六百貫の質量を誇る剛斧の衝撃。さらには倒壊する給水タンクも手伝って、建設途中の屋上はもろくも崩れ落ちた。

 敵対する二匹の鬼は互いに姿を見失って、瓦礫の中を落下していく。

 彼らの落下はとどまるところを知らず、すべての階層を突き破って───行き着いた場所は地下の駐車場。

 濛々と粉塵が立ちこめるなか、嗅鼻は京平の姿を探した。

「どこ、ドコだァァアっ?!」

 居ない。どこにも居ない。自慢の鼻がきかない。気配すら感じない。

 恐怖、恐怖、恐怖。己より劣っているはずの者に追い詰められる未知の恐怖。

 死が、迫る。

「ウ、うあアアあっ!?」

 錯乱した嗅鼻は資材運搬用のフォークリフトをつかみ上げ、粉塵に向かって投げつけた。

 だが反応はない。重い震動だけが地面を伝って届いてくる。我武者羅に吠える。反応はない。荒い呼吸だけが虚しく木霊する。

 その虚喝を聴きながら、嗅鼻の恐怖を聴きながら、京平は静かに気息を整えた。

 芯から充足していく。千の鍛と万の錬を成し、自らの意志で殺すことを決めた者がついに至った境地。周囲で起こることすべてを知覚できた。

 身体を思うように動かせなかったのは当然のことだった。鬼の身でありながら人の感覚に固執していても意味がない。鬼の感覚を以て人の動きを辿ることにこそ意味があるのだ。

 それは畢竟、“武”と呼ばれるもの。

 肺に蓄えた空気を細く煉(ね)り、左手左足に同じだけの力を送る。

 紙縒(こより)のごとく絞られた力は、螺旋の経路をたどり、加速に加速を重ねていく。

 踏みしめた踵から、脚を抜け、腰を伝い、肩を経て、肘に至り、拳へと集束していく。

 それは限りなく出の遅い、役立たずな必殺技。

「ヒィィィっ………!?」

 嗅鼻はやっとで京平を見つけたところだった。向かって来るかと思えば、尻尾を巻いて逃げだした。

 だが、もう遅い。

「てめェ、大門よりのろいぞ」

「だ────」

 肥満の鬼が何かを聞き返したが、焼け爛れた地面の熱気と、ガラス玉をこするような湿った音、そして強烈な光の奔流がその問いを掻き消した。

 閃光が、夜を貫いた。







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