第陸章/蒼茫の傷痕、澱む流砂
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街を閉ざす暗雲。その中心に、漆黒の竜巻が囂々と呻めいていた。
何人(なんぴと)をも寄せつけぬ堅城の構えで、竜巻はその場を離れることなく常に一点にとどまり、目を守るべく聳えている。
そのすぐ近くで、前触れなく純白の竜巻が発生した。地面から急速に伸び上がる風の蔓草(つるくさ)。
渦巻く純白は天まで届くと、吸い寄せられるようにして漆黒の竜巻へ近付いていく。
威嚇するように暴風(あらしまかぜ)はうなり合い、上部から下部へと引き寄せ合あって、逆様の渦と渦がこすれあう。
衝突ではなく、中和。純白と漆黒が触れあった部分だけが暗灰の色を持ち、暴風の城壁に文字通りの風穴を開けた。
くすんだ微風に濡羽色の髪を靡かせながら、哀はそこをくぐった。
「………お久しぶり、とでも言えばよいのでしょうか。こうして鬼遣(あなた)と相見えるのはいったい何度目になるのでしょうね」
できれば二度と聞きたくない声だった。
だだ広い砂地にて、白梅の着物を着た妖女(あやしめ)がたたずんでいる。片腕に抱いたドス黒い靄を、乳を欲しがる我が子のようにあやしながら、女は雅に艶(え)んだ。
その靄こそが阿防羅刹鬼の胚珠。そしてあの靄の中心に“憑坐”は捕らわれている。
「私の杏は屠られたのでしょうか」
角のない鬼の問訊に、哀は沈黙を肯定にして返した。
「ふふ、あなたの役目は鬼を殺すことでしょう。人を殺めて何とします」
哀は携えた刀に目をやった。親指で鯉口を切ると、硬い金属音が尾を曳いた。
哄笑は聞き飽きた。涙は出尽くした。許しを請おうなどとは思っていない。
無数の化物を切り伏せ、守るべき人さえも殺し、いくつもの血河、いくつもの死山を築いてきた。罪から逃げることは出来ない。自分の犯してきた事はもはや罪ですらない。災厄、それに等しい。
そしてこれが、千年の災厄が行う最後の殺戮となる。
「あら?」
鬼の女がはたと思い当たったように形の良い眉を動かした。
「想い人はどうしました? ようやくあなたを愛してくれる人が見つかったというのに」
「……。彼は来ない……」
鞘をすべる刀鋩が鈴の哭(ね)を鳴らした。それは絶えず聞いてきた処刑の宣告。
斑模様の刃が鈍く耀うと、緋色の風が哀の衣服をたなびかせ始めた。砂塵が舞い上がり、ほどなく重力から解放される。
神剣が赫光の輝度を増す。命がこそげ落ちる感覚と共に、恍惚とした破壊衝動が訪れる。
とうに尽き果てた咒力が、最大容量を超えて増大する。
「彼は来ない……」
さとすように哀は繰り返した。それは訶利帝母にではなく、靄にでもなく、金輪奈落の闇へと沈んだ我が妹へ向けた、最期の言葉。
───彼は来ない。あなたの大切な人は来ない。
なぜなら、
「私が、あなたを、殺すから」
緋色の風は真紅の颶風となり、彼女を夜空に飛翔させた。