第陸章/蒼茫の傷痕、澱む流砂


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 そして、狩りは続いていた。

 夜音なき街で、彼女は鬼を狩り殺す。

 『一気五剣』の極意で投げられた手裏剣の一陣が、鬼の中でも最大級の体躯を誇る牛鬼の目玉に刺さり───炸裂。

 火薬で顔の半分を失ってなお牛鬼は倒れない。得物の長寸を活かした薙ぎ払いを眼前の小兵へ仕掛ける。低空の一閃を哀はさらに深くかいくぐり、相手の懐へ一気に踏み込む。

 電柱よりも太い脚が斬り飛ばされ、地を揺らして倒れ臥す巨体。哀は敵の背中へ駆け上り、爆符を苦無で打ち付けた。

 緩慢に起きあがろうとする牛鬼を無視し、哀は次の標的に向けて疾駆する。背後で真っ赤な花火が咲いた。

「「「シャァァァァッ!」」」

 真上から金棒を持った焔口鬼(えんくき)が降ってきた。その数は五。

 哀は相手を見もせず、対の斎鉈を腰から引き抜き、二刀を風のように操って攻撃を受け流した。

 流れる剣舞。蒼い閃火と太刀音が連続して散り、焔口鬼たちは何事もなく地面に降り立った。

 そして金棒が地面に転がったかと思うと、細切れの肉片となってその場にくずおれた。

 休む暇もなく、今度は左右から小鬼が群れをなして躍りかかってくる。

 いなすには数が多い。哀は斎鉈を地面に突き立て、両腕を広げる。左右の掌が異なる印を結び───、

「奄(オン)………!」

 咒力の盾が小型の鬼共を蹴散らした。

 ───あとどれだけいる?

 ───解らない。

 ───関係ない。

 ───斬る。

 無月の狩猟はいつ終わるとも知れず永々と続く。異形の化物たちは、殺されても、殺されても、多勢で視界を埋め尽くす。

「っ……」

 開きかけた傷の痛みを無視し、哀は背中の剛弓に矢をつがえる。

 脇腹の鈍痛が枷となって、どうしても足取りが重くなる。いや、枷となっているのは残してきた後悔か。

 いずれにせよ、敵勢に囲まれてそんな浅事に耽っている余裕はない。今考えるべきことは、どう狩るか、どう殺すか、それだけだ。

 八重十文字の乱戦のさなか、哀は殺気を感じるよりも早く、繁藤の弓を弾いた。

 六方水晶を鏃(やじり)にした一矢が風を切り裂いて飛んでいく。その遙か遠方には、草陰に隠れて弩を撃とうとしていた米粒のごとき冥鬼(めいき)の姿。

 弓の名手であったその鬼は、己の弓を弾くことも出来ずに即死した。

 残りの伏兵を五月雨のごとく射落としていると、真上から長大な斬馬刀が振り落ちてくる。哀は体(たい)を捌いてそれを躱した。

 的を外した目一つ鬼は雄叫びを上げて斬馬刀を構え直した───時はすでに遅く、長い咒符の帯(おび)に全身を拘束されていた。

 帯の端を握った哀が咒力をそそぎ込むと、黔布(こくふ)の咒符は絶対零度を以て凍てつき、包裹した鬼を一瞬にして凍結させた。

 路面を這う冷気と、氷塊に亀裂が走る甲高い音に、森羅万象が止まったかのような錯覚を覚える。

 彼我(ひが)の戦力差は圧倒的だった。数百に及ぶ鬼が人間の小娘ひとりに手も足も出ない。

 いや、そんな生優しい表現ではまるで足りない。それは、唯々一方的な、虐殺だった。

 晶化した炎のごとき少女の美しさに畏怖し、動きを止めていた鬼共だったが、その内の一匹が奮い立たせるように吶喊(とっかん)すると、彼らはすぐに突貫(とっかん)を再開した。

 どれだけ仲間が死のうと、鬼共は少しも退がらない。死よりも怖ろしい恐怖に縛られているからだ。訶利帝母という鬼女の恐怖に。

 押し寄せる軍勢が氷塊を押し倒した。粉砕された冷凍死体を踏み分けて、鬼共はなおも挑みかかってくる。

 それを迎え討つは緋き神剣を携えた鬼遣。濡羽色の髪をひるがえし、赤いの青いの黒いの、分け隔てなく鏖殺する。

 肉を裂く軟弱な抵抗感。数えることも忘れた鬼の死体。眼下に広がる呉の葵。

 何の感慨も感じない。これが己の在意義。いつも通り。何千何万と繰り返してきた作業。

 ───そうだ。もっと来い。いくらでも来い。お前たちを殺すたび、私たちの価値が証明されるのだ。

 神剣はその彩を強くしてそう叫んだ。いや、叫んだのは自分自身なのかもしれない。

 斬り捨てる。

 刺して燃やす。

 射て貫く。

 踏みにじる。

 確信を持って言える。これが自分の価値だ。殺戮こそが自分を見いだせる唯一の幸福だ。

 この行為に耽っているときだけ、自分には絶対の価値がある。

 ───けれど、それが何だと言うのだろう。

 その価値にいったいどれほどの意味があるというのか。

 意味など、ありはしない。殺戮に意味などあるはずがない。

 鉄を繰って、鬼共を皆殺しにすること。

 生まれたら、死ぬまで戦い続けること。

 誰も愛さず、誰にも愛されないこと。

 なにも思わず、なにも感じないこと。

 独りで生き、独りで死ぬこと。

 ただ殺し、ただ奪うこと。

 それだけが、自分の価値。こんなものが、自分の価値。

「……っ……」

 頬に貼り付いた血がわずかにとけた。まぶたが熱い。視界がにじむ───泣いていた。

「………ぁ……ぁあ…………ぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 涙をぬぐうことも忘れて、声を上げる。叫ぶ。

 悲しい。つらい。殺したくない。

 悲しいと思ってはいけない。つらいと思ってはいけない。殺したくないなどもってのほかだ。

 これがお前の役目だ。これこそがお前の真価だ。なにを思い煩うことがある。傷のことなど忘れろ。感情など捨ててしまえ。刀は心などもたない。刀は殺した相手に罪悪感など覚えない。傷つく恐怖も、傷つける躊躇も、“鬼遣”にあってはならない。

 殺せ。殺すために生き、殺すために死ね。

 老人に叩き込まれた殺鬼技術は軛となって屠戮を強制する。

 次々と鬼が狩られていく。他でもない自分の手によって。

 心が悲鳴を上げる。悲鳴は喉から絞り出すと咆哮に変わる。

 咆哮はやまない。敵が死ぬまで、己が死ぬまで。

 哀は闇に吠え続ける。獅子吼の仮面ですすり泣く少女の素顔を隠して。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 彼女は、闇に泣き、さけぶ子供。




       †   †   †




 赤い泥土がよどんでいる。鏖にされた鬼共の死体は、なだらかな坂道を血の河へと変貌させていた。

 動くものは何もなく、戦場の熱は夜気に冷えていく。凍えるほどの静謐の中、糸を引く体液の音が耳についた。

「っ……」

 腹部の裂傷は、すでに痛みではなく熱になっている。

 装備はすべて使い果たした。

 咒力は『雨乞』をする量も残っていない。

 残存する武器は、たったいま死体から引き抜いた斑模様の刀だけ。

 だが、それで事足りる。

 涙は枯れていた。もう後悔に泣くことはないだろう。生きた屍には十分すぎた。

「行こう……」

 哀は自分に言い聞かせた。役目を終えた剣帯と鉢鉄をかなぐり捨てて、歩き出す。

 坂をのぼる足取りはひどく重い。丘の上で待つ敵はどれほどの数だろう。傷んだこの体で勝てるだろうか。

「………京平……」

 その響きは足取りを軽くするまでには至らなかったが、せまる死をゆるやかにする効果はあった。

 戦いの一波が過ぎた今、少年への思いだけが、死にかけた少女の身を生かしている。

 そう、戦いはまだ終わっていない。罪は贖わなければならない。

 けれど、それが済んだら、永遠の牢獄の中で彼を想おう。死にも値しない罪人にも、人を想うことぐらいは許されるはずだから。

「うわぁ、すごいッス!」

 凄惨を極めた空間で、やけに軽やかな声が聞こえた。

「こんなにたくさんの鬼をひとりでやっつけちゃうなんて、先輩って強いんスねっ」

「………だれ?」

 坂の上から見下ろしてくる人影に哀は誰何(すいか)した。

 鬼ではない。が、人の匂いが希薄だ。暗闇では姿形もぼやけている。声から判断するに、年端もいかない少女。

「初めまして先輩っ。あたし九円杏っていいます。訶利帝母様のお言いつけで来ました」

 胸に抱えた荷物を落とさないようにして、少女は深々とお辞儀した。

「……………。そう……」

「あれ、驚かないんスか?」

 驚く? 何に驚けと言うのか。人を傀儡にするのは訶利帝母の常套手段だ。

 あの女の手など知り尽くしている。この様子では町中の人間が操られていると考えた方が良いだろう。いよいよ急がなければならなくなった。幸いにも奴の居場所は判っている。

「道案内なら、いらない」

「………そうッスか。お仕事一つ減っちゃったなぁ、残念。………あっ、でもでも、お土産があったんス。忘れるところでしたっ」

 土産というのは、大事そうに抱えたその荷物のことだろうか。はしゃぐ杏はそれを放ってよこした。

 べちゃり、と湿った音を立てて荷物が地面に落ちる。そのまま転がってきて、哀の前で止まった。

 示し合わせたように、雷光が刹那に街を照らした。強烈な明滅の瞬間、理解した。

 それは人の頭だった。見開いた眼孔に光はなく、気咬みした口の周囲には拷問の痕が見て取れる。腐りかけた老翁のその肉は蛆が湧いていた。

 これほど痛めつけられていながら、彼はほんの少し前まで生きていたようだ。苦痛に歯を噛みしめる顎の筋肉が死後硬直して間もないことから、哀はそれを覚った。

「良かったですねっ。これでもうこのおじいちゃんに誘拐されなくて済むッスよ」

 眼球のない曝首(されこうべ)は、生きていた頃の老人よりもむしろ愛嬌があった。絶対の洗脳者だった老人は、肉の塊として、今ここにある。

「なんでも先輩の居場所を教えてもらおうとしたらしいんですけど、そのお爺ちゃん強情で、怒った訶利帝母様に首を刎ねられて、知ってること洗いざらい脳から吸い上げられて、最期は発狂して死んじゃったそうっス。………あ、首落とされたらいやでも死んじゃうっスね、あははははははははははははははははははははははは───」

 哀は何も答えなかった。黙したまま老人の死骸を見下ろしている。

「あれ、どうしたんスか? もしかして、悲しいんですか?」

「……………。……いいえ」

「じゃあ、嬉しいんですか?」

「……………。……いいえ」

「じゃあ───」

「あなたには、判らない……」

 刀の切っ先が弧を描く。淡い赫光(しゃっこう)の軌跡は静かに追従し、杏の前で止まった。

「あなたは、助からない……」

 新たに現れた鬼の大群と少女に向けて、哀は持てる咒力で最大の咒術を発動した。







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