第陸章/蒼茫の傷痕、澱む流砂


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 幽界はざわめいていた。

 人ならざる者共の住まう世界は、寂寞としながらも荒れ狂う力に酔いしれ、歓声のように、慟哭のように、唯々ざわめいていた。

 分厚い雲はとぐろを巻き、暗灰色の空に雷鼓を轟かせる。腐敗した気流は人界へ漏れだす勢いでうねり、触れるだけで死にいたる毒の霧は、瘴気を帯びてなお濃密になっていく。

 これらの天変地異が、ただ一匹の鬼が及ぼす影響だと言ったら、誰か信じる者はいるだろうか。

 まだこの世に存在してすらいない者が、空間に歪みができるほどの妖気を発生させているのだ。

 彼の方が降臨なされば、この世は再び魑魅魍魎が跳梁跋扈する極下(ごくげ)の地獄となるだろう。同胞よ“そのとき”はいずれ近い。

 そう高々と宣言した鬼共の指導者───訶利帝母の姿はどこにも見あたらなかった。




       †   †   †




 無数の鬼が棲む、無数の廃墟がひしめく一角で、巨大な鉄塊が岩に突き立っていた。

 否、岩かと思われたそれは豪腕を備えた鬼であり、鉄塊は失(な)くした手首の代用品だった。

「本当に行く気かい?」

 長年戦場を共にした相棒に、見目は背後ら訊ねた。

「訶利帝母が黙っちゃいないよ。あの女が私闘を見逃すはずがないじゃないか」

 嗅鼻は答える代わりに鉞(まさかり)の刃を舐め上げ、ひどく凄惨な笑みを浮かべた。

「……………。あたしは行かないからね」

 見目はきびすを返して廃墟へ戻っていった。

 嗅鼻もまた、笑みを浮かべたままその場を後にする。

 彩度のない竅(あな)が口を開け、嗅鼻を人界へと導く。幽界に拡充した妖気は嗅鼻に尋常ならざる力を与えていた。

 だがその根底となっているのは、あの“鬼もどき”への憎しみの念。相棒に見限られても、嗅鼻には鬼もどきを殺すことしか頭になかった。

 痛めつけて、泣き喚かせて、指から解体して少しずつ喰う。そのことにしか興味が湧かなかった。

 だから、相棒がこれからどうなろうと、知ったことではなかった。




       †   †   †




 見目は廃墟へ戻るや、ある場所へと歩を速めた。

 その場所には、訶利帝母が故郷(インド)から召喚した強力な鬼たちが待機しているはずだった。

 彼らは仏典にも載記される名だたる武将たちだ。事情を説明すれば、なかには協力してくれる者もいるかもしれない。一人でも手伝ってくれれば、我を忘れた嗅鼻にも勝機は出てくるかも知れない。

 結局、見目は相棒を見捨てることが出来なかった。

「たいがい、あたしも甘いね」

 見目は自嘲して、廃墟の行き止まりまで来ると、開門の呪(かしり)を唱えた。

 その先には客室用の部屋がある───あるはずだった。

 扉を開けて、まず気づいたのは、それを嗅ぎ慣れた見目でさえ吐き気を催すほどの重い屍臭。

 次いで、それが人間のものとは違うことに気付く。

「……っ?! なんてこった……!!」

 予想だにしていなかった事態。客室へと続く廊下は、煉獄の火車でも通り抜けていったかのように荒れ果てていた。

 天井や床は何らかの攻撃───おそらく高熱の衝撃波か何か───で根刮(ねこそ)ぎ剥がされ、いたる所に血痕が散乱している。

 奥へ行くほどに数を増す赤茶けた手形や足跡は、そのときの様子を克明に物語っていた。

 まず一人が喰われた。強烈な力で頭を割られ、絶命する。

 だが彼らも最古参の鬼将たちだ。突然の襲撃を受けても、一度は体勢を立て直したのだろう。戦列を整え、各々の絶技をもって襲撃者───ないしは襲撃者たち───を撃退しようと試みた。

 しかし襲撃者はこれをしりぞけ、ひとところに固まっていた彼らを爆撃した。

 戦意を挫かれ、火の海の中を這いずって逃げ回る負傷者たち。それを悠然と追いつめていった襲撃者。

 壁際に追いつめた者は肉塊になるまで切り刻み、外へ逃げようとする者は後ろから猛火の渦に巻いた。

 あがく獲物の恐怖をじっくりと堪能しながら、一人ずつ狩り殺していったに違いない。

「だが、どうして……?」

 不審な点があった。これほどの惨劇があって、なぜか肝心の死体が見あたらない。肉片のひとつさえも見当たらないのはどういうことか。

 もしや鬼遣がここまで攻め込んできた?

 ───いや、ありえない。鬼に対して絶大な戦闘力を誇る鬼遣でも、幽界の空気を一息吸えば即死する。酸雨と瘴気に汚染されたこの界域に棲めるのは鬼だけだ。

 疑問に対する解答は出てこなかった。推測はいくつも頭をかすめるが、矛盾がそれらを否定する。

 見目が待ち伏せに用心しながら襲撃者を探していると、ぐちゃりという肉の潰れる音がした。

「(そこか……!)」

 物質透過の妖術で、音もなく扉をすり抜(ぬ)ける。すぐさま攻撃に移れるよう次の妖術を口号しながら、見目は部屋に踏みこんだ。

 そこには古き大陸の鬼たちの、死体があった。

「な……?」

 E々と拡がる血の水面に、累々と臥せる屍蝋の群。符陣の壁に囲まれた密室は八つ裂きにされた肉で満たされ、あまりの血臭に空気が錆びて見えた。

 驚愕は見目の思考を停止させる。だから、他に生きている者がいると気付くまで、彼女は数秒の時間を要した。

 いくつもの死屍を越えた向こうに、“憑坐”の名を冠されたあの少女の姿があった。

 恐ろしさで心が壊れてしまったのか、少女は緋染めの床にへたりこんで、色褪せた瞳で項垂れている。

「ふふ……」

 そのすぐ隣で、角のない鬼女が肉塊を握り潰し、憑坐に鬼の血を振(ふ)りかけていた。楚々としたその様相は、聖香油を用いた洗礼の儀式にも思えた。

「あんた……いったい何を……?」

「あら、見つかってしまいました」

 しなだれた手から肉骨がぬめり落ちる。

「最後まで誰も気付かないと思っていたのですけれど」

 悪怯びれない物腰で角のない鬼は振り返った。

「だから……何をやっているのですか……訶利帝母様っ……?!」

「ふふっ。見て解らないのでしょうか。大切な準備ですよ。?そのとき?に向けての、大切な、準備」

「それが仲間を殺すことに繋がると言うのかっ!?」

 訶利帝母は微笑みをたたえたまま、しゃなりしゃなりと歩み寄ってくる。

「近付くな!」

 その笑みに本能的な恐怖を感じた見目は、訶利帝母に対して何らかの妖術を発動した。

 しかし角なき鬼の歩みは止まらない。発動中の妖術に干渉して攻撃を無効化させたのだ、コンマ一桁の瞬時に。

「クッ……!」

 飛び退こうとした見目の首を片方しかない腕が掴んだ。

 そっと触れる程度の力なのに、見目はたやすく自由を奪われ、見えない何かが全身を束縛する。

 まるで女郎蜘蛛の抱擁を受けているかのような、凶悪な拘束力だった。

「っ……本性あらわしやがったね……! この糞婆っ!」

 ののしる見目に、訶利帝母はさも可笑しそうに目を細めた。

「なにを恐れているのでしょうか。羅刹鬼様の血肉になる以上の歓びはないと言うのに」

「だから、そこの娘が餌なんだろう? 憑坐ってのは羅刹鬼への生贄じゃないのかい?!」

「あなたは……、いえ、あなた方は何か勘違いをされていたようですね。彼らもあなたと同じようなことを言っていましたよ」

 周囲に散乱した肉の群に一瞥をくれて、訶利帝母は上品に笑った。

「よもや羅刹鬼様は“憑坐”を喰した刹那よりすぐさま人界を支配してくれるような、そんな都合の良い鬼神とでも? とんでもない。彼の方が人界(うつしよ)に顕現するには、数多くの贄を必要とするのですよ」

「な、なら人間を生贄にすればいい。攫ってくれば良いんだろう! ここまで来たら、もう八局も関係ない!」

「ふふっ。無知は罪ですね」

 なぜ笑う。わからない。この女の言っていることは何一つわからない。

 そもそも訶利帝母は、人界に攻め込むという一大戦火を巻き起こすこの企みについて、何一つとして説明しようとしなかった。

 にもかかわらず、この計画に千を超える鬼が賛同したのは、阿防羅刹鬼という最古の鬼神の名と、訶利帝母自身の力だ。

 その気になれば独力で国一つを盗れる力を鬼たちは目の当たりにした。少なくとも、見目や『彼ら』のような中心を担う者は、彼女の恐ろしさを誰よりも知っている。

 だから今の今まで誰も逆らえなかった。死が目前となった今では、何もかも遅すぎるのだが。

「羅刹鬼様は誰によって封印されていたかを考えてみなさい。人間が施した封印の開にわざわざ自分たちを生贄にするでしょうか。あなたも妖術使いならば判るでしょう。妖術を行使するのに妖気を代償とするように、鬼の復活には鬼が必要なのですよ。彼の方の精神を現世に括り付け、かつ力ある肉体を与える。一体どれほどの贄を要すると思います?」

「だ、だったら、その娘はなんのために?」

「彼女は……、言うなれば器のようなものでしょうか。なみなみと注がれた蹤血によって彼の方に相応しい化粧をし、彼の方にその操を捧げ、彼の方をその胎に宿す。そして憧憬の産土(うぶしな)へと彼の方を導き、肉の身を以て彼の方を産す。人でありながら鬼神の母となる娘。それが“憑坐”と呼ばれる存在」

 妖艶なささやきに、見目は愕然としてうめいた。

「憑坐は餌じゃ、なかった……?」

「餌はあなた方でしょう? 薄汚い鬼畜共」

「貴様っ……!」

 噛みつこうにも、見えない節足に拘束された手足はびくともしない。

「最古の鬼神“阿防羅刹鬼”様は、あらゆるものに与えてくれるでしょう。力を、そして破滅を。かくしてこの地は、闘争のみが支配する生命宿らぬ死の星へ」

「馬鹿な……! 世界を滅ぼしちまったら意味をなさないじゃないか! 人間を家畜化させて、より効率的に食料管理することが目的だろう?」

 悲鳴に近い声音で反駁すると、訶利帝母は小首をかしげた。何を言われているのか分かっていないようだ。それから、やっと思い出したように女は微笑んだ。

「ああ。あれは、法螺です」

「う、そ……?」

 あくまでもほがらかな物言いに、今度こそ見目は絶望に圧殺された。

「あなたは聖人君子でも相手にしているつもりですか? あなたの前にいるのは紛れもない“鬼”ですよ」

 憐れみをこめた嗤笑。呆然としている見目の鳩尾を、たおやかな指先が押した。

「ここまで知ればもう満足でしょう? さあ、あなたも贄の歓びを感じなさい……」

 細い指が見目の腹を破った。

 卑猥なまでに肉を掻き分け、だがあくまでも優雅に、指は埋没していく。

「がっ……。い、いずれ、あんたも、死ぬんだぞっ……?」!

「ええ。けれど己が消える前に他者の死を見届けることが出来れば、それは至極幸せなこととは思えませんか? 私はもう護法神でいることに飽いたのです。私は死が見たい。ですからあなたの死も見せてくださいな」

 背の皮膚が五指の形に盛り上がり、ぷつぷつと裂けていく。見目は激しく吐血した。

「が……ふっ……! あたし達は、なんのために……! 今までっ……───」

 白い手が脊椎を粉砕して背より突き出る。そのまま小腕(こがいな)が心臓を引きずり出すと、見目はあっさりと絶命した。






「つまらない死」

 亡骸を脇に捨てて、訶利帝母は脈打つ石榴を楓呼の上で握り潰した。

 降りかかる血汐が、滝に等しい勢いで少女の頭に降りそそぐ。

 新たな鮮血を与えられて肌に貼りついた油膜が再び赤みを取り戻した。

 髪をしたたり、首筋を通って胸元へ流れるぬめった液体。それは耳の中にまで浸入し、下着までも紅く濡らした。

 不快な温度と不快な臭気。けれど楓呼はまばたき一つしようとしない。

「当面はこれで足りるでしょう。捷疾鬼の血があれば、なにも手駒を減らす必要はなかったのですけれど……。勘が良いようですね、彼女。逃げましたか……」

 作業を終えた訶利帝母が軽く手を振るうと、付着していた肉片が赤い煙になって蒸発した。

「……。杏、居ますね?」

「はい、訶利帝母様……」

 見目は気付いていただろうか、この場所に“憑坐”以外の人間がいたことに。

「何なりと、お申し付けください」

 暗がりから現れた少女は、陶然とした目でひざまずき、恭しく頭を垂れた。酸鼻きわまるこの屠殺場を、まるで静閑たる霊廟か何かのように。

「下命(かめい)です。ここへ“鬼遣”を連れてきなさい」

「かしこまりました……」

「ああ、御土産も忘れずに。彼女はきっと喜んでくれるでしょう」

「はい。………楓呼ちゃん、また後でね」

 訶利帝母が人界への扉を開いてやると、杏は迷わずその中へと飛び込んでいった。

 彩度のない竅(あな)が閉じ、羽虫の飛行音のような反響が薄れると、陰鬱な静寂が戻ってくる。

 汚れた血の儀式が済んだあとも、楓呼はやはり項垂れたままだった。

 だらしなく涎をたらし、仄暗い部屋でぽつんと座り込んでいる。

 友達に呼びかけられても、その友達が鬼の従婢にされていても、楓呼はなんの反応も示さない。心を閉ざして、完全に外界との接触を絶っている。

 なんの変化も起こらないまま、時は久遠に刻み続けられるものと思われた。



 だが、変化は起こった。



 杏が人界へ消えて、しばらくが経とうとしたとき───。

「……………ぁ………………」

 土塊(つちくれ)のように動かなかった楓呼の身体に、異変が起きた。

「は───…………」

 今初めて呼吸を知ったように、彼女は引き攣らんばかりに息を吸った。

 重い血臭にむせぶことなく、楓呼は寒さに凍えるように震えた呼吸をくり返す。だが、それはまだ異変というほどのものではない。

 真の異変は、彼女を染める血、そのものにあった。

 彼女を濡らす真紅が薄れていく。血で生乾きのブラウスは白く漂白され、はだけたブレザーが元の色に戻る。まるで誰かが血を吸い出しているかのように、下着も靴も、何もかもから血の穢れが消え失せる。

 その間、ずっとある一つの音が、部屋を支配していた。

 液体をすするかのような低い嚥下音。その誰かが喉を鳴らすたび、彼女の穢れは薄れていく。しかし、彼女の身体の一部からは血の色が消えようとしなかった。

 それは彼女の美しく長い金色の髪。嚥下の音が響くたび、血の色は彼女の髪から消えるどころか、その色彩を濃くしていく。

 それはどのように見ても彼女の髪が血を啜っているようにしか思えなかった。長い髪は服に染み付いたものだけではなく、床一面に拡がった血の池すらも吸い上げていく。赤銅に染まった髪は脈打つようにその光沢を揺らめかせ、思うさま凶つ饗宴を愉しんだ。

 ものの数秒で、血の池が一滴残らず枯渇する。

「──っっ?!」

 楓呼の身がびくんと跳ねた。

「うぁ…………あぁっ……あぅぅぁ……っ?!」

 頭を抱え、悲痛な嬌声を上げ始める楓呼。髪を掻きむしり、壊れた螺子巻人形のようにがくがくと手足を痙攣させて首を振る。

 それはどう見ても自然な目覚め方ではなかった。楓呼は苦しげに悶え、悲鳴とも呻きともつかぬ奇声を細い喉からしぼり出している。

「や……う……ぐあぁぁぁぅぅっ……!」

 苦悶と悲鳴をくり返し、そのうち奇声は感情を介するようになり始めた。が、そうなってからが悲惨だった。

「うぅぅ……うぇぇぇぇぇん……ぁ……あは、あははははははっ……!」

 泣いていたかと思えば、けたたましく嗤いだし、痛がっていたかと思えば、淫らな喘ぎ声を上げる。それは狂人の様だった。

 唯一人の少女が詠み奏でる狂歌は、次なる詠草へと譜を進める。

 言語を取り戻し、精神の不協和が正されると、彼女本来の心が戻ってくる。だがそれは決して良いことではなかった。少なくとも狂っていた方が知らないで済むこともある。

 それは彼女が知りたくないと恐れているものであり、また彼女が知りたいと願っていることでもあった。理性と本能、どちらがそれを司っているのか。

 確かなことは、楓呼は“それ”を拒絶していた。

「や………こんなの……見たくない……! ……見たくないよ……。……こんな、の……見たく………っ」

 病的なほどに見開かれた彼女の双眸に映るのは、血肉のへばり付いた壁と、その向こうに透けて広がる千里先の世界。それが見目の血によって与えられた能力だと、楓呼は知る由もなかった。

 流れゆく雲。すぎ去っていく景色。世界の流動が止まる。街が見える。自分の街だ。見下ろしていた街が拡大される。さらに拡大。古い寺が見えた。次は寺が透過する。中の様子が手に取るように分かる。

 そこにはただ、ただ残酷なだけの光景が拡がっていた。

 兄と知らない女の姿。二人は寄りそい、穏やかに語らっている。

「あ……あぁ……!!」

 それは楓呼が最も恐れていたものであった。常に不安として心の底にあった、兄が自分以外の女を選ぶ瞬間。そしてそれは兄への想いが踏みにじられた瞬間でもあった。

「ちが……うぅぅ……違うっ……ちがう……っ!」

 しかし彼女はそれを認めない。信じているから認められない。認めてしまったら、信じることをやめてしまったら、自分はもう“自分”を抑えられなくなってしまう。

 けれどいくら目を閉じようとも、いくら耳を塞ごうとも、どこまでも知らしめようとするのだ、この残酷な現実は。

「なんと美しい光景でしょう……」

 楓呼が悶え苦しんでいる間、訶利帝母は頬を上気させて、少女の狂っていく様を心ゆくまで愉しんでいた。

「ああ!」

 感極まった訶利帝母は思わず楓呼を抱きすくめる。だがそれは慰め癒すためではなく、不信の崖に立たされた彼女を絶望の奈落に突き堕とすためだった。

「拒絶などやめておしまいなさい。十の鬼の血はあなたの望みを叶えているだけなのです。 いくら拒んだとて、それがあなたの得たい事柄なのですよ」

 柔らかく諭すように言って、訶利帝母は愛おしげに楓呼のおとがいを包み、その顔を覗き込んだ。

 彼女の濁った瞳には、

「なにが見えますか? 誰が見えますか? それはあなたの信頼する人でしょうか? その人は何をしていますか? あなたの愛する人は何をしていますか?」

 喘鳴をあげて息を凝らせる楓呼に、訶利帝母は恍惚として問うた。

「あなたが愛する人は、こんなにもあなたが苦しんでいるのに、あなたを助けにも来ず、自分だけが愉しんでいる。それもあなた以外の人と。酷いでしょう? 憎いでしょう?」

「………ぁ……ぁ……ぁ……ぁ………!」

 訶利帝母の手を振り払うこともできず、楓呼はこの場にいない相手に哀願する。

「おにいちゃん………お願い……助けに、来てよ……。楓呼は……ここに、いるのに……」

 だが、見開いた眼に映るのは───。

 知らない人を抱きしめるおにいちゃん。

 そんな優しい顔をわたしは見たことがない。

 知らない人に微笑むおにいちゃん。

 その笑顔はわたしだけのものだったはずなのに。その眼差しはわたしだけに向けられていたはずなのに。



 どうして? おにいちゃん……。



 ───楓呼はもういらないの? 

「いや……!」

 ───おにいちゃんは楓呼のことキライなの?

「いや……!」

 ───楓呼のこと捨てるの? あの父親と母親のように。

「いや……!」

 ───一緒にいてくれるって言ったのに、あの約束は嘘だったの?

「いや……!」

 ───わたしが欲しかったもの、ぜんぶ他の人にあげちゃうの?

「いや……!」

 ───楓呼はもういらないのおにいちゃんは楓呼のことキライなの楓呼のこと捨てるのあの父と母のように一緒にいてくれるって言ったのにあの約束はウソだったのわたしが欲しかったものぜんぶ他の人にあげちゃう────────

「いや、いや、いや、いや、いや、いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 楓呼の額がみしりと音を立てた。

 皮膚を破り、頭蓋より突き出る双角。

 伸びた牙が唇を傷つけ、血がしたたる。

 式も術もなく、ただ垂れ流された妖気がそこかしこを破壊する。

 それは壊れていく彼女の心そのものだった。

「……………………」

 妖気の放出が途切れる。弓なりにのけ反っていた楓呼の身体から力が抜けた。

「……………うそ………つき…………」

 澱んだ流砂の瞳から、一筋の血涙が、こぼれて、落ちた。



 ───闇が降りる───。



 ぬばたまの黒靄(くろもや)が少女を手抱(たうだ)き、信じる者に裏切られた彼女を深層へといざなう。幽界(かくりよ)の最も深きところ。鬼共の王が眠る寝所へ。

 もう戻ることはできない。何より彼女自身がそれを望まない。

 暗黒の抱擁に身をゆだね、彼女は誰にも邪魔されないやすらぎを求めた。鬼共の王はそれをかなえる。永遠の死というかたちで。

 “そのとき”への化粧は、今、ととのった。







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