第伍章/夢幻泡影


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 戸板の隙間から差し込む陽光の中を、綿埃がゆるやかに舞っている。空気に混じる黴の酸味は、あの倉とよく似ていた。

「夢……だよな?」

 二人で寝るには少々せまい布団の中で、京平は独り語ちた。

 さっきのが夢なのは間違いない。その証拠にどうだ、手は夜が明けてもまだ金属の爪を生やしている。牙も舌にいらつくし、眼もたぶん紅いままだろう。

 横にはこちらを向いて静かな寝息を立てている哀がいる。その様子からは腹部にひどい裂傷を負っているようには見えない。

「もう大丈夫か?」

 大丈夫なわけがない。あれほどの重傷が一日や二日で治るはずがない。そんなことは判っている。返事が欲しかったわけじゃない

 組んだ両手を枕に京平は天井を見上げる。

 今は何時だろう。戸板の隙間から差し込む忌々しい陽の明るさからすると、まだ夜が明けてそれほど経っているわけではなさそうだ。

 欠伸をひとつして、もう一度哀の寝顔をうかがうと、彼女のまぶたが薄く開こうとしていた。

 そこで彼は気付いた。と言うか、寝起きで馬鹿になっていた頭が、ようやっと常識を取り戻した。

 二人は同じ布団にいるのだ。しかもすぐとなり、互いの吐息がかかるほどの距離に。

「………………」

 目を覚ました哀は、特に不審がる様子もなく京平を見つめ返す。その視線に非難の色はなかったが、齢十七の京平にその意を見分けることは不可能だった。

「あ……こっ、これはだなっ。きのうお前すごい体が冷たくなってて、でも余分な布団がなかったんだ。なんとかしようと思ったんだが、この寺、暖房もなんにもなくてだな。それでしょうがなく添い寝を……。───じゃなくて、すまんっ、いま出る!」

 京平は必死の弁明をして、布団から出ようと立ち上がる。

 そこを、服の裾(すそ)をつまむ程度の弱々しい力で引き留められた。

「……もう少し……このままで」

「いや、だけどな。……………この状態は色々と問題があると思うんだが……」

 哀は黙(もく)して見つめてくる。

「…………。……わかった」

 息をついて京平は布団に戻った。

 本当に寒いのかも知れない。哀の体温は横で寝ていても感じるくらいに低い。夜、放っておけば彼女はこのまま目を覚まさないような気がして、どうしようもなく不安になった。

 二人は特にすることもなく、互いの瞳を見つめ合う。

「…………」

「…………」

「………………」

「………………」

「……………………」

「……………………」

「…………………………」

「…………………………」

 そのまま見つめ合うこと暫(しば)し。

「(……別に目を開けてる必要はないんだよな)」

 自分のやっていることがひどく間抜けなことに思えてきて、京平は目を閉じた。

 視野が閉ざされると、彼女の体温がより近くに感じられるようになった。

 いや、これは、本当に───

「……寒いから」

「あ、ああ。そうだよな」

 身を寄せてくる哀に、どうして良いか判らず硬直してしまう。

 確かに湯たんぽ代わりとしてなら今の京平は最適だ。体温が普段の一割り増しとなっている。

 哀が顔をうずめてくれていて助かった。顔面どころか耳まで朱に染まっていることだろう。

「……」

 どうも彼女の様子が昨日とは違う気がする。柔らかくなったというか、幼くなったというか。

 ───いや、それが当然なのだろう。彼女の心は六歳のあの日より成長を止めている。殺戮人形として生き続けた彼女には心を育てる余裕などなかった。彼女はそんなことさえ許されていなかったのだから。

 あの老人たちには心は弱いものとしてしか映らなかったようだ。人形に心などいらない。人形は心など持たない。そういった理念が彼女を千年ものあいだ凍らせ続けた。

 その彼女がこうして弱い心を見せてくれている。

 ───と言うことは、やはりさっきの夢は自分一人が観たものではなかったのだろうか。

 確かめる方法は、ある。

 京平はためらいがちに彼女の名を呼んだ。

「な、なあ……哀」

「なに? 京平……」

 何事もなく哀は返してきた。

 どうやらあれは夢ではなかったようだ。いや、夢には違いないのだが。

「……?」

「あ、いや。───け、怪我はまだ痛むか?」

 取り繕うように訊ねると、哀の面貌(おもえり)が翳った。

「ごめんなさい……。もう少しで動けるようになると思うから……。そうしたら……」

 そうしたら、楓呼を助けに行く。哀はそう言いたかったのだ。

 ───馬鹿だ、俺は。彼女の怪我は一日や二日で治るような傷じゃないのは分かっていたはずなのに。わざわざ彼女を急かすような真似をしてしまった。

「悪い。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」

「分かってる……ごめんなさい……」

「………なんか、俺ら、謝ってばっかりだな」

「そうね……」

「やめよう。誰のせいでもないんだ。いちいち謝ったりするのも間が抜けてる」

 京平は金属の指で髪の分け目を掻きながら、何をするかを考える。さしあたり思いつくのは状況確認ぐらいのものだが。重要なことであるのには違いない。最低限でも知識を仕入れておく必要があった。

「なあ、できればでいいんだが……、いま俺たちの周りで何が起こってるのか説明してくれないか? あれだけ啖呵を切っときながら、こんなことを聞くのも恥ずかしいんだが。俺はなんで楓呼がさらわれたのかも分かってないんだ」

「………。……分かった……」
 起き上がるのはさすがにつらいのか、哀は寝返りをうって天井を見上げたまま、ことの概略(あらまし)をぽつりぽつりと語った。

「私たち鬼遣と鬼は長い間“憑坐”という存在を求めて争ってきた……」

 楓呼を連れ去った鬼と哀のやり取りから、京平にもそのあたりのことは想像がついた。

「そのヨリマシってのが、楓呼のことなのか?」

「そう。彼女はあなたの本当の妹ではないでしょう……?」

「……。まぁ、血はつながってないな」

「彼女のあの髪や眼は生まれつきだった?」

「たぶん。初めて会ったときからアイツはああだったよ」

「そう。やはり……」

 哀は納得したように視線を天井に戻した。

「別にハーフとかだったら不思議なことじゃないだろ? それが関係あるのか?」

「ええ、とても重要……。あなたの妹は無差別にさらわれたわけじゃない。彼女は数ある異能者の中でも殊(こと)に神異な人間。“最も神聖な巫女の血を受け継ぎながら、最も穢れた魔
を産す娼巫”。そう呼ばれる存在……」

「はぁ……?」

「……。これ以上詳しいことを説明しても、どのみち京平には分からないだろうから、要点だけかいつまむ……」

「おう」

 答えて、『もしかして馬鹿にされてる?』とも思ったが、それは置いとくことにした。

「彼女は“憑坐”という羅刹鬼の降臨に必要不可欠な人間なの……。頭髪や虹彩の色彩変貌はまぎれもないその証……」

「そうだったのか……」

 京平は妙なところで感嘆してしまう。しかし鬼の兄に巫女の妹とは、何とも珍妙な兄妹だ。

「“憑坐”がいなければ羅刹鬼は復活できない……。だから、彼女を先に保護してしまえば、彼奴の降臨だけは防げるはずだった……」

 それで哀も楓呼───“憑坐”を探していたのだ。

「彼女は、簡単に言うと生贄……。憑坐を妻とし、その操をもらい受けることで彼の者は肉の身を持って此の地へ誕生することができる……」

「なっ?! お、おいっ?!」

 物騒なことを言い出す哀に、慌てて真偽を確かめようとすると、

「大丈夫。助ける機会はある」

 たしなめるように哀はさえぎった。

「羅刹鬼の誕生には大がかりな儀式とそれなりの時間を要するの……。そしてそれは人界で行われるから、その時になれば、私はかならず彼女の居場所をつきとめることができる。おおよその場所はすでに目星がついているから……」

「連中が行動を起こすまで待ってりゃいいってことか」

「そう……。彼女はそれまで丁重に扱われるはず。なんらかの危害を加えられるということはないと思う……」

「だからって心配なのには代わりねェよ」

「そうね……」

 二人して陰気にうなずいたところで、腹の虫が鳴った。もちろん誰の腹の虫かは言うまでもないが。

「なあ。ハラ減らないか? 簡単なのでよかったら作れるぜ」

「……いいの?」

「いいもなにも。……つか、俺がハラ減ってんだよ。台所、借りるな」




       †   †   †




「鬼になっても、食いたいモンって変わらねェんだなぁ」

 ニンジンをみじん切りにしながら、京平はしみじみとつぶやいた。

「てっきり、人間食いたくなったりするのかと思ってたんだが」

 竹筒で竈に息を送り込む。火力が上がると同時に煤が舞い上がった。

「ゲホっ……。ったく、今時、釜はねェだろ釜は」

 油をひいたフライパンに刻んだ野菜を放り込んでいく。ほどよく炒まったところへ炊けたばかりの飯を混ぜて───と、実に手際がよい。

 ほんの二〜三〇分で手製炒飯が完成した。

 両手に一つずつ、二人分の皿を持って哀の部屋へと急ぐ。

 いつの間にか身を起こしていた哀は、布団の上で仄かに差し込む陽光を眺めていた。

「ほら、哀。チャーハンだ。肉がなかったから野菜しか入ってないけどな」

「その方がいい……。お肉、嫌いだから……」

「(お肉?)」

「なに……?」

「い、いや、なんでもねェ」

 京平は少し離れたところに腰を降ろし、熱々の炒飯をかき込んだ。が、すぐに異変に気付いて手を止める。

「(味の次は熱さかよ……)」

 味覚や触覚。それどころか嗅覚すら麻痺してきている。今食べている炒飯を他の物にたとえるなら、米粒の形をした発泡スチロールだ。

 半分ほど食べたところで限界が来た。こんなメシ、食えたものじゃない。

 見ると哀も手を付けていないようだった。

「あ、やっぱ不味かったか?」

 楓呼にも散々こき下ろされているので自覚しているつもりだったが、それほどまでとは。

 多少がっかりしながら訊ねると、哀は否定するように首を振った。

「手、動かなくて……」

 哀が手を持ち上げると、すぐに力が抜けてぱたりと布団の上に落ちる。なるほど、失血と体温低下による一時的な痺れだろう。

「あー、じゃあ俺が食わせてやるよ」

 哀の分の皿を取って匙(さじ)で適量をすくい、彼女の口に運ぶ。

「…………」

「………どうだ?」

「……。おいしい……」

「そ、そうか。良かった」

 咀嚼する哀の動きが止まるのを待ってから、また口に運ぶ。あまりに咀嚼数が一定なので、数えてみたらきっかり三十回だった。

「ほれ」

「……は…ふ……」

 口にレンゲを持っていくたび、哀の吐息が手にかかってこそばゆい。

「京平……」

「あん?」

 きっかり三十回咀嚼して、哀はぽそりとつぶやいた。

「顔、赤くなってる……」

「?!  っば、バカ、違ェよ! 気のせいだよ!」

「?」




       †   †   †




 食べ終わった皿をかたして、京平は湯を沸かした。

 哀の食べた量も京平と同じ程度だ。傷のせいもあるだろうが、あまり食べそうなタイプには見えない。

 京平は沸騰した湯をヤカンから盥(たらい)に移した。水を足して、そこにタオルをひたす。どれくらいの熱さか分からないが、運んでいるうちに冷めるだろう。

 哀は先程と変わらない様子で雨戸から差し込む陽光を眺めていた。少しもゆるがない静謐なその光景は一枚の絵画を思わせた。

「気分はどうだ?」

 布団の横に盥を置いて、京平はタオルをしぼる。力加減にも大分慣れてきた。注意していれば普段通りに物をつかむことも出来る。

「なにをしているの……?」

 哀はタオルに視線を移して訊ねてきた。

「ん? まだ風呂には入れないだろ? 体だけでも拭いといたらどうかと思ってな」

「………拭いてくれるの?」

「ば、バカ、しぼるだけだよ。ほら」

 タオルを差し出すが、哀はそれを取ろうとしない。

「でも、手が動かない……」

「あ。そう、か。忘れてた」

 となると京平が拭いてやるしかないのだが、炒飯を食わせてやるのとではワケが違う。ましてや彼女の体に触れるのだ。緊張しないわけがない。

「いや……?」

「い、いやじゃねェけどよ。その、お前がイヤじゃないのか?」

 哀はこくりとうなずいた。つまり嫌ではないと。

 本人が拭いて欲しいと言っているのに、やらないわけにもいかない。

「…………。じ、じゃあ、拭くぞ」

 一言断ってから、京平はひんやりとした手を取り、暖かいタオルで指先から丹念に拭いていく。

 彼女の細い指は、およそ戦いに向いているとは思えなかった。この華奢な身体で彼女は幾千もの鬼を切り伏せてきたのか。心身……いや、魂まで削って。

 一通り拭き終えて、京平はタオルを盥にひたした。すると、じわりと赤い膜が遊離する───血だった。

 正視せずに濯ぐ。血の膜は湯に溶けて見えなくなった。かたくしぼってから、もう片方の腕も拭く。

 哀はその間、京平の手の動きを、まるで生まれて初めて見るものかのように目で追っていた。前のように茫洋と眺めるということはしなくなっていた。

「足も、拭いといた方がいいのか?」

 こくり、と無防備にうなずく哀。京平は、自分は邪(よこしま)なことなどしていないと己に言い聞かせてから、彼女の膝にかかっていた毛布を取りはらった。

 太ももまで露わになった素足に、思わず生唾を呑み込んでしまう。

 哀の体は足先まで冷たかった。暖かいタオルがそこをくるむと、哀は目を閉じて気持ちよさそうに息をとろめかせた。

 そのまま足をくるんだままタオルを動かす。

「……ぅ……」

 ふくらはぎを滑り、膝の上ぐらいまで拭いたところで哀が小さくうめいた。

「す、すまん、痛かったか」

 京平は慌てて手の力を緩めた。

 この金属質の腕は体温こそあれ、質感はさながらナイフだ。肌をひっかいてしまったのかもしれない。

 けれども、哀は目を閉じて首を横に振るだけだった。怪訝に思うも、こうして動かないのも妙だ。もう片方の足を拭くことにする。今度は前よりも力を抑えて、撫でるようにして拭く。

 哀はせつなそうに短く息をついた。京平は大丈夫かと聞こうとしたが、哀は首を振るだけだろう。それならば早く終わらせてやる方がいい。

 それも済むと、自分が拭けそうなのは、あとは首筋ぐらいのものだった。

 飾り気のない黒の首環(チョーカー)を巻いた細い首。哀は着替えた後もこの首環だけは外さなかった。

 人前では外せない理由が、その首環にあるからだろう。

 自分は観たはずだ。過去の哀がいったい何をしたのか。

 あの首環の下には、おそらく在るのだろう。在るべきものが、現実として。

「……。首の、取るぞ」

 だが、京平は迷わなかった。哀がもし拒否してもやめるつもりはなかった。

 誰かが彼女を見てやらなければならない。そしてそれは自分でありたかった。

 哀は髪と同じ色の瞳で見つめてきて、そしてうなずいた。

 京平は哀の後ろへ回り、彼女の首環を外す。ホック式のチョーカーの下には、京平が予想していた以上のものが在った。

 頸動脈どころか気道にまで達していそうな深く生々しい傷痕。完治している今も、変色した腫瘤がこの傷ができたときのことを物語っている。

 白い“部屋”で観た夢はやはり現実に起きたことだったのだと、京平はまざまざと思い知らされた。

「……。気持ち悪い……?」

 押し黙っていると、哀が瞳に暗い影を落として訊いてきた。

「いいや」

 強がりじゃないと言えば嘘になるが、『あの時、俺がいれば』なんて馬鹿な悔恨は口にしなかった。彼女はきっとその言葉を嫌うから。

「…………。よし、見てろよ。俺なんかもっと凄いのがあるんだぜ」

 きょとんとしている哀をよそ目に、京平はズボンの裾をまくった。

「膝にひっかき傷みたいなのが残ってるだろ。これはガキのころ校舎の三階から飛び降りたときにできた傷なんだ」

 何をするのかと思えば勲章(キズ)の自慢ときた。まるで時代遅れのガキ大将の発想である。

「左足の噛(か)み傷は近所の野良犬を退治したときので、頭のハゲは車にはねられたとき、奥歯がはへへふほは中坊のとき暴走族と闘り合ったからで、腹なんか師匠に打たれた拳痕がまだ残ってるんだぜ。ガキ相手に手加減しろってんだよなあのジジイ。んでだな、これが………。……………て……わりィ。フォローになってねェよな」

 京平は気落ちして頭を掻いた。

「…………」

 哀はうつむいたまま震えていた。とぎれとぎれに吐息を漏らし、何かをこらえている。だが、そこに悲壮は感じられない。

 肩が震えているのは、ひょっとして───

「(笑ってる……のか?)」

 哀の突然の行動に目を瞬かせていると、彼女はぽつりとつぶやいた。

「間抜け……」

「あ?」

「『いちいち謝ったりするのも間が抜けてる』……でしょう?」

「ま、間が抜けてるとマヌケは違うだろっ。元気づけようとしてる俺がバカみたいじゃねえかっ」

「くすくす……」

「あ、また笑いやがった!」

 憤慨すると、哀はますます肩を震わせて吐息を漏らした。本当に楽しそうだった。



 ───ずっと後になって、俺は時々この瞬間を思い出す。後ろを向いた彼女はどんな風に笑っていたのだろう。できれば知りたいと思う。もう知ることは出来ないけれど。



「ったく。さっさと拭くからな。………ええい、笑うなっ」

 京平は赤面しながら哀の長い髪を持ち上げて、うなじをタオルで拭っていく。面積の少ない首はすぐに周回した。

 やがて小さな笑い声も消え入り、静けさだけが際立つようになる。

 拭き終えたあとも、京平は何となく動かなかった。哀が言おうとしていることを感じ取っていたためかも知れない。

 しばしの沈黙のあと。

「この傷は、私の烙印………」

 哀は握力の戻らない指先で、暗がりにさらされた傷痕に触れた。

「千年間、生と死と殺を繰り返してきて、初めて抗うことを思いついた。でも逃げられはしなかった。運命という名のしがらみは、いつも後をついて回る……」

「今も、そう思ってるか?」

「………わからない。でも、もう一度やってみようと思う。今度はこんな方法じゃなく……」

「それがいいな。俺も手伝ってやるよ」

 言ってから、京平は鼻の頭を掻いた。

「ま、あんまし頼りにはならないだろうけどよ。そこは勘弁してくれよな」

 笑って付け足すと、哀はつられて少しだけ笑んだようになり、それから愁いを帯びた声で言った。

「ありがとう……」

 ───どきりと、した。

 哀のささやくような感謝の言葉を聞いた瞬間、京平の心臓は大きく打ち震えた。

 ありがとう。感謝の言葉。それはありふれたささやきにすぎないのに、なぜか身体中が熱くなって、初めて感じたあの感覚がよみがえってくる。

 鼓動が早くなり、彼女の仕草ひとつひとつに心が乱れる。触れそうに近い肌が熱く、緊張とは違う倦怠感にも似た痺れがもどかしい。

 どうして今まで彼女のそばにいて平気でいれたのだろう。

 押さえようがなくこみ上げてくる感情にどう対応していいか分からない。愛しさと欲望が複雑に入り交じって、どうしようもなく不安になる。

 だけど、きっとそれは、もっと単純で純粋な気持ち。

 抱きしめたい、ただそう思う。

「……京平」

 ぱさりと、哀は胸に体重を預けてきた。抱きとめるにはあまりに華奢な肩に触れる。手は背へ回り、交差する。

 強くもなく弱くもなく、柔らかで暖かな抱擁。

 好きな人のかたち。温もり。心音。呼吸。こころ。

 身体全体を通して伝わってくる。

「哀……」

 もう二人を阻むものは何もない。目を閉じた哀に、唇を寄せる。

 彼女の細面が近づき、濡れた唇が京平に目を閉じさせる。

 かかる息はこそばゆくも穏やかで、規則正しくも穏やかで、それは───────寝息だった。

 親に抱かれて眠る赤ん坊のように、安心しきった様子で哀は眠っていた。

「……………。ははっ。やっぱなー。そうだよなー。……………そういうオチだと思ったんだよ……」

 京平はがっくりと肩を落として、それから微笑をもらした。

 しんしんと降り積もる薄闇の中、陽光の色をした埃だけがゆるやかに踊っている。

 鬼もどきと人造の娘。生物として不完全な二人は、寒さから互いを守り合う雛(ひな)のように、丸くなって眠る。

 たとえそれが拙(つたな)いままごとだったとしても。

 いつか終わりの来るなぐさめに過ぎなかったとしても。

 そうすることで互いの傷を癒すことができるのなら。

 それが悲しいことでも。虚しいことでも。二人にはきっと意味のあることだから。

 せめて今だけは───安息の時間を、こいねがう。





第陸章【蒼茫の傷痕、澱む流砂】へ続く───


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