第伍章/夢幻泡影
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あぐらをかいた京平によっかかる形で少女は眠っている。その寝顔は疲れきってはいたが、とても晴れやかだった。
「ま、あれだけ泣けばしょうがねェか」
倉を軋ませる風の音以外、なにも聞こえない。少女の寝息は浅くて耳まで届いてこない。
「ほらな。我慢なんてすることないんだ。お前こんなにいい顔してるじゃねェか」
少女の顔にかかった前髪を梳(す)いてやり、京平は天井を仰ぎ見る。
「そういや、どうやったら元の世界に帰れるんだろうな……」
「もうすぐ……。そろそろ夜が明けるから……」
質問に答えたその声は、眠る少女よりもしっとりと大人びていた。
上に向けた顔をのけぞらせると、逆さまに立つ哀がいた。
それは幼い少女ではなく、京平がよく知る彼女だった。
突然現れた彼女に、さして驚きは感じなかった。ここがどこなのかは漠然と解っていたから。
ならば、彼女に言ってやるべきことがある。呼んでやれる名前がある。それは今ここで口にできることだ。言ってやれ。恥ずかしがるようなことじゃない。
「……………。よお、哀」
その短い一言は、うわずることなく、ごく自然に発音できた。
「………。名前……」
「海神って苗字、嫌いなんだろ? 俺も呼びにくいしさ。なんだったら俺のことも呼び捨てにして構わないぞ。永禮だろうが京平だろうが」
哀は、少しためらってから、
「………京平」
「ん?」
「ありがとう。その子を助けてくれて……」
ささやくように礼を言ってきた。
「………この子はお前だろ?」
「その子は私の過去、幻影……。私はもう変わることは出来ないけれど、その子はきっと救われた……」
無表情な、だが寂しげで優しい瞳をして哀は言った。
「お前なぁ……」
京平は指先でこめかみをこすり、不機嫌に嘆息をこぼした。
「俺の言ったこと、ぜんっぜん聞いてなかったろ?」
「え……?」
「お前はこの世でたった一人か? 違うだろーが。ダチだって作れるし、親御さんにだって会いに行ける。ウンメイなんてものはブチ壊すためにあるんだよ」
「………でも……」
「なによりな、俺がついてる」
言ったあと、哀が何も答えてくれないので、ちょっとクサかったかと京平は頭を掻いたが、哀は惚けてはいても呆れてはいなかった。
「……。うん……」
白い頬をわずかに赤くして哀はうつむいた。
それは今まで見た彼女のどの表情よりも可愛く思えた。冷徹を帯びた艶麗の容貌ではなく、年相応の少女の仕草。
いつの間にか膝の重みが消えている。眠っていたはずの幼い少女は哀の隣に手をつないで立っていた。くすぐったそうな、ひかえめの笑みをたたえて。
倉の一角が崩れた。いや、崩れているのはこの世界。
静寂のまま、摩邪枷(まやかし)のすべてが崩れ去る。哀と、小さな哀。彼女たちに別れを告げる前に、京平の意識は急速に遠退(とおの)いていった。