第伍章/夢幻泡影


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 乳酪を押し切るような柔い感触と共に、熱い飛沫が少女の白無垢を赤く染める。

 刃を伝う垂露は真紅の脈筋をつくり、いくつもの花弁を床に散らした。

 なのに、裂いたはずの首に痛みはなかった。

「───痛〜っ……! クソっ。夢ン中でも痛えじゃねェかよっ?!」

 毒づいたのは少女ではなかった。刃を伝うのは少女の血ではなかった。

「………ったく、ガキが刃物なんか持ってんじゃねェよ、ボケ」

 すんでの所で刃を止めた京平は、イタズラをした子供をとがめるように少女を小突いた。

「…………」

 少女は小突かれるままに従った。だが、それだけだった。感情を無くした少女は、京平のことなど無視して、中断させられた自害を再開しようと刃を引く。

 しかし握りしめられた刀はびくともしない。

 再度自殺の妨げを受け、うつろな少女は疑念を口にした。

「……どうして……邪魔するの……?」

「うるせェ。“死にたがり”が俺に意見すんな」

 言い捨てて、京平は少女から紅い刀を取り上げた。

「………返して」

「いやだ」

「返して……」

「いやだね」

「………返して……返してよ……! 邪魔をしないで……!」

 高く持ち上げられた刀に手を伸ばす。その気になれば彼を打ちのめして力尽くで奪い返すことだってできた。

 けれど、京平の言葉がそれをとどめる。

「なに泣いてるんだ?」

 不意をついた質問に、少女の動きが止まった。

「……? 私は、泣いていない……」

 そう、両の瞳は渇いたままだ。少しも濡れてなどいない。

「泣いてるじゃねェか。そんなつらそうな顔して、なにやせ我慢してんだ」

「……。やせ我慢なんて、してない……」

 そう、つらいと思う心は死んだ。やせ我慢などしていない。

「してる。本当は悲しくてしかたがないくせに、無理矢理自分を抑えつけてる」

「抑えつけてない……。悲しくなんてない……」

 これではまるで自分に嘘を言い聞かせているみたいだ。本当にそう思っているのに。思っているはずなのに。

「じゃあ何でうつむいてる? なんで逃げようとする? なんで───死のうとなんかしたんだ」

 目の前の彼はそうやって正論ばかりを繰り返す。人の汚泥を掘り返して何が楽しいというのだろうか。人がとうに諦めていたものを、やっと諦められたものを、眼前にちらつかせて。

 そうして最後には絶望を突きつけるのだ───何も知らないが故に。

 それなら教えてやろう。真実を知れば、きっと彼も失望して、愛想を尽かすに決まっている。

「………終わりにしたかったから……」

 そう、何もかも終わらせたかった。殺戮も、死も、繰り返される生も。もう疲れたのだ。

 だから、終わらせたい。終わりなど無いと分かっていても。すぐにまた転生すると知っていても。わずかな時間でもこの痛みから逃がれたい。

 ただそれだけの、臆病者の『逃げ』なのだ。

 正義感で闘ったことなど一度も無い。鬼を殺すことを大儀になど思っていない。本当は周りの誰が死のうがどうでもいい。

 行動に意志などなく、惰性で殺し、惰性で生き、惰性で死んできた。

 もう放っておいてほしい。終わりにさせてほしい。

 なんならあなたが殺してくれても……───

「ふざけんな」

 それが彼の返答だった。

「終わりだと? ああ、首をかっ切ればそりゃあ楽に終われるだろうさ」

 彼はちゃんちゃらおかしいとばかりに鼻で笑った。

 それから刀を握っていない方の手が伸びてきて着物の胸ぐらを掴み上げる。

 頭突きでもするかのように額をつき合わせて、彼はうなりをあげた。

「苦しいんだろうが? つらいんだろうが? だったら死ぬ前にまず戦ってみやがれ。輪廻だか役目だか知らねえが、それがテメェを縛り付けてるんなら、そいつら全部にケンカ売りゃあいいだけの話だろうが。ガン付けて、蹴飛ばして、ぶちのめして、ツバ吐きかけてやりゃあいい。手始めは糞ったれのあのジジイだ。今からだって遅くねェ」

 彼は凶暴に犬歯を見せて言った。

「…………。……遅すぎる……」

 少女の口から吐き出された言葉は、およそ年に似つかわしくない、くたびれた響きをしていた。

「どうしてそう思うんだ?」

 胸ぐらから手を離し、彼は問うてきた。

「………だって……それは仕方のないことだもの……」

「仕方なくなんかない」

「……だって……わたしは、独りだもの……」

「お前は、独りなんかじゃない」

「……………」

 ───何か針のような物が心臓を圧迫する。

 奇妙な感覚だった。不思議だ。今、自分は確かに怒りを覚えている。全てに納得し、全てを諦めていたはずの自分が、だ。

 否定も譲歩も懇願もすべて跳ね返され、空虚な心の中には汚泥だけが残った。

 胸の痛みは灼熱の怒りへと変わっていき、彼の正しさすべてを打ち壊したくなる。

「………あなたが……あなたがいったい何を知っていると言うの?」

 憎悪が滴るような声音だった。憎しみが黒い炎となって少女の身を焼いていく。

「何も知らないくせに……。知ったふうな口をきかないで」

 猛毒のつぶやきは、彼を黙らせるのに充分だった。この愚直)な男に、自分の苦しみを思い知らせてやらねば気が済まない。

「あなたは自分がどれだけ幸せな人生を送ってきたか判ってるの? 殺さなくてもいい。憎まなくてもいい。そんな風に生きられることが、どれだけ幸せなことか……!」

 造られた人格。洗脳による理論武装。殺戮以外に取る行動はなく、自身は何も望めず、何も思えない。唯一の解放は己の死だけ。

 そんな自分にも憧れはあった。何も知らないまま、真っ白でいられる同い年の子供たち。彼らには父がいて、母がいて、友達がいた。

「私だって変わりたかった。変わろうとした……! ……………でも、無理だった……」

 自嘲。憧憬の対象になろうとして挫折した自らを憐れみ、いまだそれを望もうとする自らをさげすむ。そういった笑み。

「仕方がなかったの。私にはそれしかなかったから。戦う以外に生きる価値なんて無かったからっ。お父さんもお母さんもいない! 友達もいない! 私は孤独(ひとり)だった、千年前からずっと!」

 うわずった声はすでに叫び声と変わらない。憎しみを吐き出さないと押しつぶされてしまいそうな、涙なき慟哭だった。

「独りじゃないなんて軽々しく言わないで! 何も知らないくせに! 誰も、何も知ろうとしなかったくせに! 独りじゃないって? なら誰がいるって言うの? こんな………こんな“化物”にっ!!」

「俺がいる」

 きっぱりと、彼はそう答えた。

「……………」

 想像もしていなかった答えに、少女は呆気にとられる。あれほど身を灼いていた怒りがきれいに霧散してしまった。

 なにか言おうと口を開きかけてはみるものの、声の出し方を忘れてしまったかのように、何も出てこない。

「………確かに俺は何も知らない。友達がいなかったこともないし、千年も孤独を味わったことなんてない。お前の苦しみを理解してやることは、たぶん一生かかっても無理だと思う。───でもな」

 刃を直接握って傷だらけになっても、なお力強い手が少女の頭をなでた。

「俺とお前はこうやって出逢えただろ。泣くのが怖いなら俺も泣いてやるよ。独りがつらいのならずっと一緒にいてやる」

 髪に吹き込まれる声は、少女の心に優しく浸透していく。千年の氷河を溶かす暖かな日射し。彼の言葉はそれに等しかった。

「だから、もう我慢するな」

 微笑みかける京平を、少女は無心に見上げて───左目からひとしずくの水がこぼれた。

「………あ…………」

 手に落ちた水滴が何なのかも分からぬまま、それは止めどなくあふれてくる。

「っ……う……うぅ……」

 肩が無意識に震えだして、勝手に嗚咽が漏れだしてくる。

「…………ふ……ぅ……ぅく…………うぅぅ……っ」

 忘れていた感情が溶けて、熱く目の奥からあふれてくる。自分がなぜ泣いているのかも判らない。

 ただ懐かしさだけが胸を揺さぶって、そのたび心臓をつかまれるような悲しみに襲われる。ぬぐっても、ぬぐっても、涙が止まらない。

 自分を受け入れてくれる人がいる。その事がどうしようもなく嬉しかった。

 涙を止めることなんてない。もう我慢しなくてもいい。

 そう言ってくれた人がここにいる。

 あとはもう、ただただ涙があふれてきて、

「っ……うぅ……うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」






 京平の胸にしがみついて、少女は泣いた。

 それは、生まれて初めて流した涙のように、不器用で透き通っていた。







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