第伍章/夢幻泡影
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───一番新しい死の記憶は、十七年前。
私を殺したのは西欧の名のある吸血鬼だった。その吸血鬼ものちに法王庁の悪魔払いに始末されたと聞く。
どんな化物も、いつかは必ず滅ぼせる。心臓を貫けば、首をもげば、頭を潰せば。
いつの世も人間は化物共を禁絶してきた。聖なる剣で、神の祝福で、信仰の力で。
だが、それを覆す者がいた。
あらゆるものに終焉をもたらす鬼共の王。海を灼き、大地を沈め、太陽すらも覆い隠す。力を求めるものがあればそれを与え、死を望むものがあればそれを叶える。神武以来(じんむこのかた)、彼奴は人の敵だった。
誰も彼奴を滅ぼせはしない。多大な犠牲を払った古の大戦も、肉体を殺したのみで、ついに魂までは滅せなかった。彼奴は霊魂だけを幽界へ逃がし、その淵底で力を蓄え、いつの日にか何処(いずこ)かにて顕現した。
その者の名は阿防羅刹鬼(あぼうらせつき)。現存する最古の鬼神にして、未来永劫戦い続ける人類の宿敵。
最古の鬼神を滅ぼすことは叶わない。復活する度に斃し、封じる他ない。それこそ未来永劫。
だが、時間は常に彼奴の味方をする。幾星霜を経ようとも、最古の鬼は衰えない。その一方、人間の調伏の力は、代を重ねるごとに弱まっていった。
それは祓いの宗主たる鬼遣たちにあっても同様だった。
“永遠に生き続ける鬼”に対抗するためには、“永遠に殺し続ける鬼遣”が必要とされていたのだ。
そして時代の波に消えゆく彼らは、ある一つの成果を遺した。
咒禁・厭術・蠱、果ては神代の遺物まで。大陸にすら絶無の、ありとあらゆる術式体系を詰め込んだ“鬼遣”を製造したのだ。
頑丈で、死ににくく、たとえ死んでもすぐに転生する強力な“鬼遣”を。
事実、それは画期的な性能を示した。これまで鬼遣たちが数人がかりで一匹の鬼を退治していたのを、それは単独で数百からなる鬼を相手にできてしまったのだ。
人にとって天敵であるはずの鬼を喰らう“鬼遣”。それが人造の娘に冠された名だった。
彼女は人類史上最高の咒式師であり剣術士だった。
人造ゆえに持ち得た人外の能力。まさしくヒトの頂点に立つに相応しい。
だが、彼女の本当の強さは、超絶の身体能力でも、自然すら爪操(つまぐ)れる咒力でもない。
圧倒的な強さの基址となっていたのは、自らの命を路傍の石ほどにもいたわらない、捨身(しゃしん)の戦いぶりにあった。
“鬼遣”は己の腕一本と鬼の首一つなら、確実に後者を選ぶ。生還など最初(はな)から考えていない。出血多量で数時間後には死に及んだとしても、その場でより多くの鬼を殺すことを優先する。
腹を割かれようが、顔をひしゃがれようが、たとえ手足を落とされ輪姦されようとも、その命ある限り彼女は鬼を狩り続ける。
否、命尽きた時が殺戮劇の終幕ではない。彼女は“鬼遣”だ。人によって造られた傀儡だ。繰り糸が切れたのならば張り替えてしまえばいい。
人形は真の意味で死ぬことなど出来ない。彼女はいくらでも生まれ落ちる。
“生き変わり死に変わりの条理”───輪廻転生の則(のり)では、死した魂は天に還り、新らたな生命となって地に生まれ落ちる。それが天地神明の理だ。
しかし、彼女にかけられた呪いが天為を人為に阻害する。
呪法により神工・塑造された魂は決して成仏することはなく、簪(かんざし)の語源ともなった挿頭(かざし)という感染呪術によって、彼女の意志とは関係なく転生させる。
唯一、転生の呪いが解ける日が来るとすれば、それは“死なぬ鬼神を殺した”その時のみ。
矛盾する解呪の条件は、彼女を永劫に縛り続ける。
転生した“鬼遣”は、生まれながらにして膨大な咒力を持ち、前世の記憶をすら領有する。
死した“鬼遣”がどの女の腹に宿るかまでは予測できない。いかに強力とは言え、生まれたばかりの赤子がすぐさま鬼と戦えるはずもない。よって、赤子を見つけて教育することが何よりも優先される。
金はもとより、権力、人脈、ありとあらゆる手段を用いて赤子を捜索し、見つけしだい親から買い取り、もしくは拉致して、“鬼遣”として養育する。
妖の力を持った赤子を慈しむ親など居ようか。捨てるつもりだった忌児を大金と交換できる思ってもみない僥倖。
たいていの親は喜んで祓いを生業とする者の宗家───海神家に赤子を提供した。
赤子の教育に関しては、死した“鬼遣”が学ばなかった術だけを教えればいい。忘却した前世の記憶は年月と共にいずれ戻る。
『───……そうやって千年間、わたしは技という技を、術という術を、智という智を、学んできた』
虚ろな目をした娘は深蒼の水面(みなも)に立ち上がり、透けるように消えて失せた。
三千世界の夜に突き立った刀の一振りが、空へと還る。
その光景を見守りながら、京平はつぶやいた。
「そうか、ここは海神の……」
その先を上手く表現する言葉は思いつかなかった。理解したわけではない。漠然と………なにか海神の匂いのようなものを感じとっただけだ。すぐ傍にいるのにどこにもいない。ただ彼女の気配だけは其処彼処(そこかしこ)から感じる。
水面が跳ねる小さな水音───湖はさらなる変化をきたしたようだった。
蒼い月から零れる銀のしずく。落ちた零露は水鏡に波紋を生み、どこまでも広がっていく。
澪なる鏡は物語を綴る。ゆらめく銀幕に映るのは、永々と連なる人造の娘の歴史。
鬼を殺し、鬼に殺され、生まれ変わり、売られ、育ち、また鬼を殺す。
転生するたび彼女は別人となり、だが魂と記憶だけは同一で、抗うことなく運命に呑み込まれていく。
不倶戴天の仇敵、阿防羅刹鬼とは三度戦い、いずれも封印するにとどまった、安い命を引き替えにして。
最古の鬼神を封印しても、他の鬼までもがいなくなるわけではない。彼女は一刻とて休むことは許されず、殺し、殺され続ける。
殺戮。殺戮。殺戮。
血と鉄と雨の歴史。
千年それを繰り返し、心だけが冷えていった。