第伍章/夢幻泡影
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浅い寝息を立てる哀のかたわらで、京平はうつらうつらと頭を揺らしていた。
寺はほぼ無音を保っている。時計すら置かれていないのか、秒針の音も聞こえてこない。二人の睡眠を妨害するものは何もなかった。
ここ数日満足に寝ていなかったことも手伝ってか、京平の意識はだんだんと深いところへ沈んでいき、知らず知らずのうちに寝入ってしまっていた。
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どれくらいの時間が経ったのだろうか。泥のような眠りから京平は目覚めた。
「……う……」
まぶしさに片目を開けて、視界いっぱいに拡がる真白(ましろ)に目を奪われる。
白。
それ以外の色は一切ない。
「(……どこだ、ここ……?)」
寝ぼけた頭で、京平は誰ともなしに問うた。
ここはどこか? それを知りたいのなら、まずは周囲を測るべきだろう。
右を見た。白だ。
左を見た。白だ。
上も、白。下も、白。前だろうが後ろだろうが、見渡す限り、ぜんぶ白。
「ま、マジか……」
くらむほどに白んだ世界は何も応えず、京平を無限の茫漠に浮遊させる。
ここは───『部屋』だ。彼は直感的にそれを悟った。
白色に統一された“部屋”を京平は流れるままに漂っていた。
見渡す限りに地平はない。重力がないので、どの方向を向いているかも判らない。ここには空間の概念すら通じないようにうかがえる。
しかし『部屋』と言うからにはどこかにあるのだろう、床や壁や天井が。ただそれが見つからないと言うだけの話だ。
つい先刻まで微睡みにいたはずが、いったいいつの間に、どういう理屈で、この『部屋』まで運ばれてきたのか。
ふと己の手を見やれば、金属の爪が消えていた。舌に苛つく牙も、髪を縫う角も消えている。
まとっているのは着慣れた学ランと履き慣れたスニーカー。
ついこないだまでの永禮京平だった。
「海神?」
隣で眠っていたはずの彼女の姿が見えない。自分一人だけがここにやってきたのだろうか。もしそうだとすれば、いったい何があってこんな状況になったのだろう。
疑問に思うも、それ以上は考えがまとまらなかった。目は醒めているのに感覚が曖昧模糊として集中できない。意識はあるのに霞がかかったように視界がぼやけている。
それと気づいた時には、京平は二本の足で立っていた。
重力を感じさせてくれる白色の床は、硬くなく、柔らかくなく、冷たくなく、熱くなく、汚れてなく、清冽だった。それはまるで誰かの心のように。
この幻想そのものの空間に、京平はなぜか居心地の良さを感じていた。
あたかも誰かが優しく包んでくれているような、そんな心地よさがある。
だからと言って和(なご)んでばかりもいられない。早いところ脱出する方法を探さなければ。
だがどうやって? 床以外にはなにもないこの部屋で何を見つけろと言うのか。
京平が考えあぐねていると、にわかに風が靡(なび)いてきた。
『部屋』を支配していた無音は、いつしか無であることをやめていた。
「……? 上?」
切り裂くような風音は真上から。何かが鋭く回転するような風音が曳々と近付いてきて───紅い飛沫が白い床をびしゃりと打った。
血に染まるかつては白い床。
認識したと同時に、血と同じ色をした刀身が床に突き立った。
音叉のように甲高い余音にわなないた後、斑模様の刀は静止する。
この刀には見覚えがあった。彼女の持っていた刀と似ている───いや、同じものだ。何故こんな物がここに………。
怪訝に思う暇もなく、二本目の刀がすぐ横に落ちてきた。
そして三本目。四本目。見上げれば、白空より降りそそぐ深き紅の雨。
緋雨は深々と地に突き立ち、白い床を血の色へと塗り替えていく。わずかな間に『部屋』は斑模様の刀で満たされてしまった。
「どう、なってんだ……これ……。───っ?!」
スニーカーに浸みてきた冷たさに京平は飛び跳ねた。
次に変化があったのは下だ。床から水が浸水してくる。湧き出ているわけではなく、水面も揺らぐことはなく、水平に水位だけが高くなる。
その水は京平の膝下まで来ると上昇をやめた。
それは奇妙な水だった。濁っているわけではないのに、血斑の床は完全に見えなくなってしまった。
代わりに水面より上のものすべてを反射して、精細にもう一つの世界を形作っている。
部屋はさらなる変化を望んだようだ。
白い天井が溶けるように夜空へと変わった。星のない夜に月だけが浮かんで、あたりを蒼く照らしている。
「寒………」
京平は思わず腕をさすった。歯が鳴り合うほどの寒さではないが、息がこごるほどには気温が下がっている。
肌を撫でる冷気は青白く、彩を伴って紅い葦辺(あしべ)をたゆたっている。
ここはもう何もない“部屋”ではなくなってしまった。
波打つことのない幽邃とした湖。
墓標のごとく突き立ついくつもの刀。
下界を見守る蒼い月。
そして、水鏡にひざを抱いて座る、幼き少女。
「………? おい───」
『───……一番新しい死の記憶は、十七年前』
蒼ざめた夜に反響する幼い声音。
透けるように現れた幼女は、こちらの呼びかけを遮って、挿話を詠い始めた。
それは挿話と言うにはあまりにも壮大で、そしてあまりに無意味な御伽噺だった───。