第伍章/夢幻泡影
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時は十数時間をさかのぼる。そこは未だ闇の侵蝕を逃れ、日常の姿を保っていた。
小高い丘に建つ学舎は夕陽を浴びて、校舎の壁を茜色に照り返らせている。
時たま肌寒い風が吹きつけるが、熱気に満たされた体育館内ではそれも心地よいもの
に感じた。
高ワットの白熱電球が並ぶ高い屋根に、運動部員たちの喧噪が反響する。
空手部のマネージャーである九円杏(くえんきょう)は、京平らと別れたあと、いつもと同じく部員の世話にいそしんでいた。
「やっぱり永禮は休みか」
「仕方ねーだろ。練習中にキレて暴れた上に大熊にボコボコだからな。今頃病院にいるんじゃねーの」
「二年のクセにいきがってた野郎にはいい薬だろ。だいたい朝練もまともに顔を出さない
ヤツが毎回試合の代表に選ばれること自体が───」
「はーい、はいはーいっ! アップは終わったッスかー? そろそろ、練習始めるッスよ
ーっ!」
クリップボードを持った杏が部員全体に声をかけた。それは京平への陰口に耐えかねたためでもあったが。
「今日のメニューは形(かた)練習中心でやりまーす。皆さん平安、鉄騎、抜塞、観空、燕飛、十手、半月、岩鶴、慈恩と色々ありますけど、ちゃんと覚えてますかー!」
杏がすらすらと形の名前をあげると、とたんに『げー!』というブーイングがおこった。
形の修練は空手を極める上で必要不可欠な要素であるが、実戦派の鳴北空手部員からすれば、有り体に言って、かなりつまらない練習である。
「なんで今日はスパーをやらんのじゃ、杏どん」
「杏どんはやめてください大門先輩」
すげなく言い捨てて、杏は練習内容の変更の旨を伝えた。
「えと、今日は危ない練習は出来ないんですよ。狐塚主将はお休みだし、大熊先生も来られないそうですし……」
「べつにいいじゃろう。今までも勝手にやっとったんじゃし。のう?」
「「「そーだそーだ!」」」
大門の意見に周りの部員たちも賛同する。
「だ、ダメッスよ。そういうときに限って怪我するものなんスから」
「「「ぶーぶー!」」」
「「「マネージャーは引っ込めー!」」」
ほぼ全員からの非難を受け、杏はたじろいだ。
いつも助けに入ってくれる京平も、文句を言う男たちをノしてくれる狐塚主将も、ニコニコ笑顔で威圧してくれる大熊先生もいない。
「(うぅ、なんで今日に限って誰もいてくれないんスかぁ……)」
不運に嘆きつつ、杏はふと疑問に思う。
京平はともかく、勇樹や権佐が休むなんてことは珍しい。権佐は必ず練習の監督に来るし、勇樹もああ見えて真面目な主将なのだ。それが二人同時に欠席。
詳しいいきさつは聞いていないが、二人とも無断欠席になっているらしい。京平が起こした騒ぎと何か関係があるのだろうか。
その疑問に対する答えも、また、答えを知っている者もいない。
考えすぎだ。たまたま体調を崩してしまって、連絡できなかったなんてのはよくあることだ。偶然だ。そう、偶然……。
「───って、ああっ?! 勝手にスパーリングしちゃだめッスー!」
好き勝手に稽古を始める部員たちを止めようとして───生ぬるい風が吹いていることに杏は気づいた。湿気った黒南風が髪にまとわりつき、じんわりと肌が汗ばむ。
そして感じる視線。ただの視線。なんの感情もこもっていない、うわべだけの視線。
両開きの鉄扉の前に、女性がたたずんでいた。
呼びかけられたわけでもないのに、体育館にいた全員が彼女の存在に気付いた。
白梅の着物を着た清楚な女性。隻腕であることすら彼女の美しさを際立たせているようであった。
生徒の保護者だろうか。そのわりには若すぎるような気もする。
すると女性は観世音菩薩のように微笑み───
杏の意識はそこで途絶えた。