第肆章/紅藍の霞、罹る朧月
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〈─────。───すぎる。あまりに早過ぎる展開だ。予知が追いつかない〉
〈鬼遣の隠れ里が襲撃されたという情報が耳に入ったかと思えば、今度は憑坐が誘拐され、対策を立てようとしたときにはもう次の事態〉
〈『迅雷、耳を掩うに遑あらず』とはこのことか〉
円卓を囲む五つの石版は口々に囃したてた。
黒塗りの石版には小さなカメラが内蔵されており、それで相手の様子が分かるという通信機器だ。しかし全員が石版では、せっかくのその機能も無意味なものになっている。
いや、むしろそれで良いのだ。非公式の会議で彼らが直接顔を合わせるというのは些か問題があった。
日本政府機構には、総理府という他の行政機関に専管しない行政事務機関があり、その外部機関として国家公安委員会なるものが存在する。
委員会は長と五人の役員で構成され、委員は内閣総理大臣直々に任命される。警視庁すら管理する国家行政の要である。
細部に至るまでその部署は多種多様に分かたれ、外局として公安審査会・公安調査庁。内局として民事局や刑事局など、合わせて七つの局が存在する。
そのなかでもひとつ、内局にも外局にも属さない、特殊かつ独立した局があった。
名は公安八局。正式名は宗教的職能局とされている。
この局の扱う業務は異を極めており、まさしく“霊”や“化物”を相手にした特務を担当している。神隠しや迷宮入りした殺人事件など、通常捜査では解決できない事例はすべからくここに回ってくるのだ。
何も知らぬ人々よ、笑うだろう。それは至極当然のことだ。疑問の余地すらない。
だが信じよ。“相容れぬ者”たちは実在するのだ。
そして彼らに敵対する組織もまた、実在する。
〈法王庁は『我関せず』の姿勢を保ったままです。期待はしない方が良いでしょう〉
〈彼らは無神論国に用はないのさ。我らとてヴァチカンなどに用はない。これは委員会の問題だ〉
〈日本人の問題、の間違いでしょう? 民族意識を捨てるにはまだ早いわ〉
〈ならば各国の民間祈祷師への依嘱申請は底止(ていし)させるかね?〉
〈それはそれ、これはこれ。味方は多いに越したことはないわ〉
〈いやはや。なんとも世知辛い世の中だな〉
終盤に来た会議が徒論となる前に、ただ一人生身である代表は、威迫を持って会議の終了を告げる。
「では此にて対策会議を了とする。各自隠密にして迅速の行動をせよ」
低い音律と共に、薄暗かった部屋が完全に夜に支配された。
石版たちは沈黙し、それぞれに宿っていた各界の高官たちは、今頃は最大の能力と権限を以て職務を遂行していることだろう。
この部屋の主である公安委員長は、傍らに佇む自衛官に一つ語った。
「奴らに法は適用されない。なぜなら人間ではないからだ。奴らに律は通用しない。なぜなら化物だからだ。奴らに有効なのは“力”だ。奴らを討伐し、駆逐し、撃滅し尽くせる力だ」
一言も発さず、寸歩も動かず、無機の石版たちよりも生なく佇んでいた自衛官は、銀縁の眼鏡をくいと押し上げた。
「そして我々こそが、その“力”です」
公安委員長は首肯した。咥えていた葉巻をすり消して、年相応に肉の付いた体躯を椅子から持ち上げる。
「君の立案した作戦だが、問題はない。問題はないが、それには広範囲・長期に渡る情報封鎖と莫大な費用が必要だ。どこからそれを捻出するか………。それを考えると、私は今から頭痛がしてくるよ」
委員長が苦りきった口調でうめくと、自衛官は不敵に一粲した。
「国民が何のために血税を支払っているか考えるべきでは? 公式・非公式にかかわらず、我々にはか弱き子羊を守る責務があります。予算のご心配ならば国会でどうぞ」
有事に際し限りなく最高に近い権限を持つ者を相手に、若い自衛官は畏まった風情もなく話す。公安委員長はそれを不快に思うこともなく、むしろ国民を比喩した『羊』という言葉に興趣を惹かれたようだ。
「国民が羊なら、私は羊飼いの少年かね?」
「牧羊犬かもしれませんな」
公安委員長は皮肉った笑みを浮かべ、新しい葉巻を取り出した。両端を切り落として火を点し、しかめた顔で紫煙を燻らせる。
「対策は打ち立てたが、憑坐を奴らに取られたのは痛手だったな。何のために十年も君を付けて監視してきたのか。あの不確定要素(イレギュラー)にはほとほと困らせられる」
「彼女に非はありませんよ。憑坐の情報を彼女に提供していれば、我々も後手に回ることはなかったかも知れない」
「対鬼畜を想定した戦闘訓練を受けた護衛を、数秒で音もなく鏖殺するような鬼共を相手にかね? ………聞けばこの一件、首謀者はあの訶利帝母と言うではないか」
「ええ。別名、鬼子母神。旧大陸ではハーリティと呼称され、いまいましくも安産育児の神として崇め奉られているそうですな」
『ただし彼女の実態に気付いている寺院だけは忌諱してやまないようですがね』と、その自衛官は付け足した。
「訶利帝母が公安の目をかいくぐって集めた鬼の総数は約一〇〇〇。そのうち十体は仏典に名を記されるほどの猛将───これは偵察班が最後の通信に残した報告によるもの───です」
人間の身体能力をはるかに上回る鬼が千匹。小国なら一晩で陥落されうる戦力だ。
「恐ろしい女ですよ。元来単体で行動することを好む鬼をこれだけ集めるとなると、百年……いや、そのはるか以前から用意周到に綿密な計画を立てていたに違いありません。………さりとて───」
熱くなった語調を自衛官は落とした。
「………さりとて、それがみすみす後陣に立たされた弁明になるとは思っていませんが」
犠牲になった部下のことを思い出したのか、握りしめた自衛官の白手袋が、ぎっ、と音を立てた。
「いずれこれらの戎兵を抜きにしても、訶利帝母自身の個体戦闘能力は鬼神にすら匹敵します。旧大陸最強の鬼という冠は推して知るべしと言ったところですか」
「まさに悪夢だな」
葉巻の先がちりちりと焼け、灰が落ちる。くゆる紫煙が夜を白く霞ませた。
「だがそれすらも問題ではなくなるだろう。この世に存在してはならない者が顕れようとしているのだからな。決して、我々と“相容れぬ者”が」
「そう。そしてその“相容れぬ者”を禁絶できるのは公安ではありません」
「とどのつまり、あの娘に頼る以外に策はない、か………」
若い自衛官は瞑目した。寂静が沈殿していき、ブラインドから射し込む月明かりが朧雲に翳る。
そこで話は終わりかと思われたが、
「…………。“鬼遣”と初めて会ったときのことを話したことはあったかね?」
公安委員長は再び口を開いた。それは独り言と言ってもいい、相づちもいらない、感想もいらない、老人の語りだった。
「あの頃の私は、公安に入って間もない若造だった。彼女もまた幼い少女だった。そして二度目に会ったとき───最近だ。つい一年ほど前だよ」
一息吸ったばかりの葉巻を灰皿に押しつけ、公安委員長はその情景を思い返す。
「私は………そう、ゾッとした。彼女はあのままだった。三〇年前に会ったときから何も変わっちゃいない少女の姿だった。素知らぬ顔で彼女は言ったよ、『久しぶり』とね。私はときどき………いや、いつも思う。本当は彼女こそが化物ではないのか、と………」
葉巻を押しつぶす彼の指は怯懦に冒され、小刻みに震えていた。
「………」
若い自衛官は軍帽を目深にかぶった。
「彼女は人間です。私も、あなたも、人間ですよ」
退室前の敬礼をして、彼は大仰に宣した。
「ならば人間は、人間としての義務を果たしましょう。人間としての権利を主張しましょう。人外共にくれてやる命など一つとしてない。人間の力がどれほどのものか、存分に思い知らせてやりましょう」
その言葉は力強く、確信に満ちあふれていた。
公安委員長は『若造が』と言わんばかりに鼻を鳴らし、
「全ては可及的速やかに。現在時刻をもって君ら特隊にかけられた拘束を解除、およびあらゆる武力の行使を許可する。八局は君の好きに動かしたまえ、奥山一佐」
数時間後、火器と精鋭を積載した武装ヘリがある町に向けて飛び立った。
非公式に動いた彼らを知る者は少ない。だが確実に“そのとき”に向けた戦いは進行していた。
人識れぬ常識の外で。夢たゆたう夜の内で。
第伍章 【夢幻泡影】へ続く───