第肆章/紅藍の霞、罹る朧月


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 京平は慣れない飛行に、とにかく姿勢を維持することにつとめた。

 空間を飛び越える際に見えたのは、高速で過ぎ去っていく白と黒だけの色彩のない景色。

 居並ぶ家々は確かに自分の住んでいる町なのに、色が消失していて生物がいない。

 たったそれだけでまるきり違う世界のように感じられた。

 幽界に侵入することで他の化物と遭遇することも考えたが、どうやら干渉した“階層”が違うようだ。

 景色の向こうが拓ける。吸い寄せられるように、彼らは幽界から人界へと抜け出た。

 そうして転移した先は、一軒の荒屋の前だった。

 荒屋などと言っては罰が当たるかも知れない。そこは屋根を粗末な釉瓦で葺いた古い寺だった。

 良く言えば旧寺、悪く言えば廃屋と、今にも崩れて倒壊しそうなほど荒れた木造建築物。

「近くにこんな場所があったなんてな……」

 と言っても、転移した場所から十qは離れている。哀の思考に合わせて場所をイメージしただけでここに辿り着いた。かかった時間は五秒かそこらだろう。

「つくづく人間じゃねェな」

 京平は自嘲して、腕に抱える少女を雨から守るようにして古寺に足を踏み入れた。

 入ってみれば屋内はそれほど汚れてなかった。柱はしっかりしており、壁も腐っていない。清浄な空気すらここには漂っている。今の京平には堪らなく不快な空気だったが。

「奥の部屋へ……。そこに……っ……薬箱があるから………」

 哀の意識がまだあったのは、彼女の常人ならざる精神力の賜物だろう。普通の人間ならば、失血にともなうショック状態でしゃべることもままならないはずだ。

 哀の指示に従い、京平は足で襖を開けていく。三つの襖を開けて、力の加減を間違い、二つが壊れた。

「………こ、壊れる方が悪い、よな」

 精舎への破壊行為は捨て置いて、京平は目的の部屋へ急いだ。

「ここか」

 多少は生活の跡が見られる部屋だった。

 布団───おそらくこの寺に元々あったものだろう。そこに哀を寝かせる。

「薬箱ってどれだ?」

「そこ……。押入……置いてある………」

 すぐさま押入を開けて───横引きの戸が吹っ飛んでいった。どうにも力加減が分からない。力を抜きすぎると何も動かせないし、少し力を入れると、こうやって壊してしまう。

 まるでレスポンスの良すぎるスポーツカーのようだ。

 京平は戸を失った押入をのぞき込む。すると奥に薬箱とおぼしき木箱を見付けた。

 さすがにあれだけは壊すわけにはいくまい。苦難のすえ薬箱を手の平に乗せて、哀のところへ持っていく。

 応急処置ぐらいの心得は京平にもあったが、彼女の傷は出血具合から見て相当のものだ。すぐにでも縫う必要がある。しかし、たかが高校生の京平がそこまでの技術を持っているわけもなく、この金属の腕ではかえって彼女に怪我をさせるおそれがあった。

「針と糸と消毒液……、それと脱脂綿を……」

 哀も処置の必要性を承知しているのか、手早く指示を出してきた。

「あ、ああ」

 古い見かけとは違って、薬箱の中身はかなり充実していた。一般家庭ではまず使われない外科用の医療器具だらけだ。

 注射器や薬物等を選り分けて、言われた物だけを取り出すのは至難の業だった。喩えるならパワーショベルで卵を掴むようなものだ。力を入れすぎず、抜きすぎず、爪の先にまで極限の注意を払わなければならない。

「これか?」

 梱包された曲線的な針と光沢のある糸を見せる。

「ええ……あとは私がやる…………っ……」

「お、おいっ。動くなよ!」

「大丈夫……。貸して……」

「自分で縫うつもりなのか!? 麻酔は!?」 

「痲薬は、前の戦闘で使い切ったから、無い……。鎮痛剤を飲んで、効果が現れるのを、持つ時間も、無い……」

「で、でもよ……」

 哀は震える手で針と糸とを繋ぐ。何度か糸を取り落として、それでも準備は整った。

 京平にはそれを見ていることしかできない。消毒液を含ませた脱脂綿を傷口に押し込み、彼女が激痛に喘いでいても、その痛みをわかつこともできない。

「…………。……見た目ほど、ひどい傷じゃ、ないから……」

 安心させるように哀は言った。怪我をしているのは自分の方だというのに。

 哀が首に巻いたスカーフを抜き取った。そのまま服をのろのろと脱いでいく彼女を京平は何とはなしに見つめていて、交差した両腕の向こうに白い乳房がのぞいた瞬間、我に返った。

「わ、悪いっ」

 京平は慌てて後ろを向いて───音だけが鋭敏化された耳に届いてくる。



 衣擦れの音。

 苦しげな呼吸。

 一瞬のためらい。

 細く途切れる悲鳴。

 床に散る鮮血の飛沫。

 荒くなっていく息づかい。

 内側から肌を破る針の音。

 ───うめき。



 自分で自分の傷を縫合するなどという痛々しい作業を、何の気負いもなくやってしまう彼女は、一体どんな日々を送ってきたのだろう。

 その想像は容易についた。

 人々が生活する昼を眠りに費やし、夜になれば狩りにおもむき、誰とも接することなくまた眠りにつく。

 単調な、ただただ単調な、ある種平和な、そんな暮らしを彼女は続けてきた。そしてこれからもその日々が変わることはないだろう。

 居た堪れなかった。彼女は何のためにこんなにも傷ついて、そして戦うのか。他の奴のことなんて放っておけばいい。自分本位に生きたって誰にも責められやしない。楽な生き方は色々とあるはずなのに、彼女はそれを選ばない。

 あるいは選べないのかもしれない。戦って、戦って、戦い抜くだけの生き方しか知らないのかもしれない。

 ───そんな寂しい生き方、俺には耐えられない。

 針と糸が切り離される音がした。過マンガン酸溶液をかける炭酸水の弾けるような音が彼女の痛哭とかさなる。

 そして手術は終わった。

「海神……」

 荒い息のまま、彼女は毛布を取ってくれとだけ言った。

 押入から毛布を運んでくる間に、哀は血だらけの服から浅葱の単衣(ひとえ)に着替えていた。

 枕元には汚血が染みこんだいくつもの脱脂綿。京平はそれから目をそらし、横たわった彼女に毛布をかけた。

「痛むか?」

「平気……。血は止まったから、明日には…っ…動けるようになると思う」

「明日って……、もう少し休めよ」

 哀は首を横に振った。手術の余韻で絶え絶えになった呼気に合わせて、何とか言葉を漏らす。

「間に合わない……。それじゃ間に合わない……。全部わたしのせい、だから……必ず……かならず……っ」

「もういい。休むんだ」

 宙空を掻く哀の手を押さえ、毛布にくぐらせる。

「海神が明日から動けると言うなら信じるよ。だからこそ考えるのは明日だ」

 本当はすぐにでも楓呼を助けに行きたかった。歯がゆい気持ちは嘘じゃない。

 だけど、今は彼女の傍にいてやりたかった。

「お休み、海神」

「……………………。……お休みなさい」

 ほどなく微睡みは訪れた。




       †   †   †




 金属の腕に抱かれて転移した先は、哀自身が仮宿にしていた古寺だった。

 ここには鬼の目から隠す多重の結界を張っている。あの見目でもこの寺を探し出すのは困難だろう。

 哀はこの隠れ家の場所を京平に教えたことはない。おそらく何らかの妖術で自分の記憶を探ったのだろう。

 頭の中を覗かれたことに対して不快感などは覚えなかったが、誰の教えもなしにここまで高位の妖術を行使してしまう彼に畏怖すら覚えた。

「近くにこんな場所があったなんてな……」

 鬼と化した少年は、誰に言うでもなくつぶやいた。

「つくづく人間じゃねェな」

 そう言って彼は笑う。その苦笑も今は乾いたものにしか見えない。彼はもう人には戻れないことを覚悟しているのかもしれない。

 古寺の門を通ると不可視の違和感が身を包んだ。結界の調子は良好のようだ。儀式によって浄化された空気がそれを証明している。

「奥の部屋へ……。そこに……っ……薬箱があるから……」

「わかった」

 彼は即応し、廊下を抜けて次々と襖を開けていく。その途中で二つの襖が粉砕された。

 鬼が先天的に持つ恐るべき能力の一つが、その膂力(りょりょく)だ。素手で岩を砕き、人体など布きれも同然に引き裂いてしまう。

「う………お………?」

 その戸を壊した本人が自分のやったことに唖然となっていた。

 おそらく力の制御が出来ないのだろう。それでも彼はまだ優秀な方だ。普通の隔世遺伝者ならば、常軌を逸した闘争本能に自我を無くすか、絶対的な力に溺れるかして、とっくに人の心を失っている。

 煤けた天井と煤けた彼の前髪だけが、視界の中で揺れている。

 歩くときに振動を伝えないよう彼が気を遣ってくれるのが有難かった。

「ここか?」

 寝かされた布団の上でうなずくと、彼はさっそく薬箱を探し始めた。

 朦朧と場所を指し示すと、彼はすぐさま引き戸に手をかける。勢いよく開いた戸は枠から外れ、障子を突き破り、部屋の外へ飛んでいった。

「………すまん」

 彼は制御できない力に難儀しながらも、薬箱だけは壊さないように、そろそろと持ってきてくれた。

「針と糸と消毒液……、それと脱脂綿を……」

「あ、ああ」

 彼が苦労して薬箱をあさるのを見ていると、手伝ってやりたい気分になったが、この後の作業を考えると少しでも体力を残しておかねばならなかった。

「これか?」

「ええ……あとは、私がやる……っ」

 上体を起こすと、傷口から血がどっと溢れた。

「お、おいっ。動くなよ!」

「大丈夫……。貸して……」

 取り乱す彼から梱包された医療器具を受け取り、針と糸とを繋ぐ。冷えきった指先はその単純な作業にも労を要した。

 意識を失うか失わないかの狭間を彷徨いながら、手術の概要を彼に説明する。彼が何かを反論したような気がしたが、耳が遠くなってしまって良く聞こえなかった。

 なんとか繋ぎ終えた針を脇に置き、消毒液を脱脂綿に染みこませる。

 これで用意は完了した。まずは傷口を消毒し、それから縫合を行う。

「……………」

 医療用アルコールの匂いが決意を鈍らせる。しかしそうも言っていられない。

 意を決して傷口を押し広げ、流れる血を洗い流すように消毒液を流し込んだ。

「ひ……ぅ……っ!」

 傷を灼く消毒作業に、喉が勝手に悲鳴を上げる。

 激痛に屈する意識とは別に、脱脂綿を握った指は別の意志を持っているような正確さで、ただれた瘡蓋と油膜をこそぎとっていく。

 どれほど負傷を繰り返しても、『痛み』そのものに慣れることはない。傷を負えば負うほど、かえって痛みに対する恐怖は増していく。

 けれど、それを彼に見せたくはなかった。他人の怪我を自分のことのように心配してくる彼には。

「………見た目ほど、ひどい傷じゃ、ないから………」

 苦心して笑みのようなものを向ける。生まれてこの方、まともに『笑う』という行動を取ったことのない自分がちゃんと笑えていたかどうかは甚だ疑問だったが。

 彼は生来優しい性格の人間なんだろう。こんなにも他人に親身になれる者は少ない。

 羨ましかった。それほどまでに人を思いやれることが。

 自分には無理なのだ。自己の命を軽く見ることなら出来る。けれど彼のように他人の命を重く見ることは出来ない。

 その差は近いようで、どうしようもないぐらいに深い。いくら憧れても、彼のようにはなれないのだ。

 熱い血が脱脂綿を透過して指を濡らす。手術中だったことを忘れていた。

 血で張り付いた服を痛みに難儀しながら脱いでいく。

「わ、悪いっ………!」

 交差した両腕で視野が塞がったところで、彼が唐突に謝ってきた。

「……?」

 何について謝ったのかが理解できないまま、服を脱ぎ捨てる。べしゃりと濡れた音を立てて制服が畳に落ちた。

 気がつくと、京平が後ろを向いている。

 その理由はすぐに分かった。

 誰も好きこのんで傷口を縫う所など見たがらないだろう。彼が後ろを向いたのも無理からぬことだ。こちらとしてもこの鉤裂きになった傷口を見られるのは抵抗があった。

「……………」

 それはなぜだろうか? なぜ彼に見られるのは抵抗があるのだろう。傷口が醜いからと言って、それがどうしたというのか─────。

 猛烈な眠気が思考の邪魔をする。いよいよ意識がもたなくなってきた。

 可解ならざる感情を訝しんでいるときではない。用意しておいた針を取り、わずかな躊躇の後、肌に突き刺した。

「……く……ぅ……っ……!」

 スカーフを噛んでおかなければ歯が折れていたかもしれない。針を引き、糸が滑るうずきに耐える。曲線的な針を身体から出し、編んで、また刺す。

 泣き叫びたいほどの激痛なのに、針を持つ手は機械的な動きで精妙に縫合をおこなっていく。

 裂目の終点まで縫い目が行き届くと、傷口は塞がって、血の流れは自然におさまった。

 最後に、アルコールとは別の消毒液を脇腹全体に流す。

「っっっ────!!」

 縫ったばかりの裂傷の上で白い泡が音を立てて爆ぜる。焼きごてを押しつけられるような灼熱の痛みに、哀は声にならぬ悲鳴を上げた。

「…………はっ………はっ……っ………」

 まだだ。まだ気を失うわけにはいかない。

 哀は荒い息のまま、軟膏を塗り込んだガーゼを縫合箇所に当てて包帯を巻きつける。その上から治癒を促進させる咒符を貼った。気休め程度だが、何もしないよりはましだろう。

「海神……」

 声をかけてくる彼に毛布を取るように頼み、哀はその間に簡単な和服に着替えた。

「痛むか?」

 毛布をかけながら訊ねてくる彼に首を振る。

「平気……。血は、止まったから、明日には…っ…動けるようになると思う……」

 今夜はひどい疼痛と熱に苛まされることを覚悟しながら、哀は嘯いた。

「明日って……、もう少し休めよ」

 心配した彼が諫めてくる。

 だが、それでも哀は首を振った。

 自分にそんな資格はない。彼に気遣ってもらえる資格などないのだ。自分が犯した過ちのせいで、すべては最悪の方向へ向かっている。贖わなければ、早く、この命が保つうちに。

 熱にうなされて、思ったことが外に出てしまう。視界が滲むのは失血のためだけではなさそうだった。

「もういい。休むんだ」

 諫言が強くなり、無意識に宙を掻いていた指を彼が押さえる。毛布を深くかぶせられた。

「海神が明日から動けると言うなら信じるよ。だからこそ考えるのは明日だ」

 彼の優しさに甘えてはいけないのに、弱った心は彼の慰めに簡単に救われてしまう。

「お休み、海神」

 紅玉色の瞳はどこまでも透き通っていて、純粋だった。見つめられるだけで、もう何も言えなくなってしまう。

 素直に彼の言葉に従い、目をつむる。

「……………………。……お休みなさい」

 ほどなく微睡みは訪れた。







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