第肆章/紅藍の霞、罹る朧月
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逃げられないよう左右を鬼に挟まれて、楓呼は膠灰の道を歩かされていた。
まともな灯りがない通路は薄暗く、連行者の身体が邪魔で周りもよく窺えない。
しかし楓呼は自分がいる場所を充分に理解できた。
そこは邪気と臭穢にまみれた、鬼の巣窟だった。
廃ビルのような建造物の中には、大小様々な鬼が屯しており、壁や床には赤茶色の粘着物が饐(す)えた臭いを発している。時折、身の毛がよだつような断末魔が上がり、楓呼の耳を苛んだ。それはこの鬼共のものではなく、彼らの食物が悶えているのだろう。
つまりは────いや、考えるのはよそう。
考えては駄目だ。信じるのだ。兄が来るのを信じて待つのだ。あの時だって彼は助けに来てくれた。彼の記憶からその出来事は抜け落ちているが、自分は憶えている。両親は事故で死んだんじゃない。
───養父と養母は鬼に襲われ、殺された。
何が起因だったのかは分からない。気がつけば父と母は殺され、両親を殺した鬼はその子供も殺そうと、血に汚れた爪を伸ばしてきた。
その後は───よく憶えていない。気がつけば返り血に臥した兄と、文字通り細切れにされた鬼があった。
だからなのかもしれない。この悪夢の最中としか形容できない状況下でも、こうして理性を保っていられるのは。
「驚いたね。ここに連れてこられた人間はたいてい半狂乱になるんだけど……。さすがは“憑坐”様ってところかしら」
両隣に立ってどこかへ連れ歩かせる鬼のうち、痩せた方が口を開いた。
「最初に断っておくけど、あたし達から離れたらお終いだからね。ここの仲間はみんな馬鹿でさ。命令とか関係ないのよ。あんたが結界から出たらすぐさま喰らってやろうと狙ってる」
我慢できずに飛びついてきた小鬼を踏みつぶして、痩せた鬼は言った。
「………分かりました」
楓呼は無表情をよそおい、前だけを見て歩く。
彼女が意識を取り戻したのは、ここに着いてすぐだった。だから京平がどうなったのかも判らない。けれど、横にいる太った鬼が負傷しているのを見ると、彼はあのまま死んだわけではなさそうだった。
「あの坊やなら無事だよ」
「え……?」
痩せた鬼のつぶやきに楓呼は顔を上げた。
自分の倍近い身長の鬼はこちらを見もせずに言葉を続ける。
「あんたの連れさ。ずいぶんと手こずらせてもらったよ」
「兄を、兄をどうしたんですか……!?」
「殺した」
女の凶悪な笑みに楓呼の表情が凍りつく。
「───そうしたら、今度はこっちが殺されかけた」
女の笑みが自嘲めいたものに変わる。
その経緯は分からない。けれど兄の無事が確認できて、楓呼は幾分か安心できた。
「アンタもとんだ化物をオトコに持ったもんだね」
「こ、恋人なんかじゃ───」
ない、と訂正しかけて、反論する点が違うことに気がつく。
「───兄は化物なんかじゃありませんっ。化物はあなた達の方でしょ!」
「そりゃあ、そうさ。“鬼”だからね」
くく、と牙を剥くように笑って、女はそれきり口を閉ざした。
そのあとも楓呼は廃ビルの中を連れまわされ、何度か鉄筋がむき出しになった橋を渡り、ようやく行き止まりまでやって来ると、見目が壁に触れて二言三言何かを発音した。
それに呼応してコンクリートの壁が消え去り、室町時代の清涼殿を模した廊下が出現する。
奢侈と華靡をこらしたそこは、まさに別世界だった。
異世界の中の別世界。蝋燭ほどの明かりが一直線に続く仄暗い廊下橋。廃ビルの外は依然曇天だが、この空間には雲一つない。紫金の盈月だけが朧夜にくすんでいる。
「ここはいつ来ても気分が悪いわ。人間のマネごとなんてやめりゃいいのに、あの婆ァは……」
ぼやいて、痩せた鬼は楓呼の背中を押した。九年酒で灯る御灯だけが道標の廊下を歩いていく。
香木でも焚いているのか、廊下には上品な薫りがただよっていた。
張板の道を進み、いくつかの角を曲がると御灯が途絶え、その先に楮紙を張った障子が見えた。
「そこで止まりな」
肩に手を置かれ、楓呼は反射的に身震いしてしまう。
見目は苦笑気味に鼻を鳴らして、それから厳粛に拝跪した。隣を見やれば、肥満の鬼もひざまずいてこうべを垂れている。
「訶利帝母(かりていも)様、“憑坐”を連れてまいりました。入室をお許しいただけますでしょうか」
返事は三拍おいてから返ってきた。
「そこに置いていきなさい。あなた方は下がってよろしい」
「………。かしこまりました」
声は恭しく、顔では『この糞婆』と渋面を作り、見目と嗅鼻は去っていった。
置き去りにされた楓呼は、安堵よりむしろ不安が募っていた。この障子を隔てた向こうに、先程見た化物たちの首魁が居るのだ。どれほど醜悪な姿をしているのか。恐怖で身がこわばる。
「お入りなさい」
声は確かに中から聞こえた。人間のものと変わりがない女性の声。
楓呼はぎゅっと胸を押さえ、息を整える。震えが止まるのを辛抱強く待って、それから意を決して障子を開けた。
そこはさほど広くもない茶室になっていた。正座し、障子を閉じてから、楓呼は声の主へ向き直った。
「偉いですね。その年で礼儀作法を弁えているなんて」
眼前に瞑座する化物は、別の意味で楓呼を驚かせた。
───化物は、化物ではなかった。
瞳を閉じ、たおやかな佇まいで座っている化物は、美しい女性にしか見えなかった。その造形は廃墟にいた鬼たちとは月鼈の差だ。
着物を着た女性に角はない。肌も爪も人間のもので───そして片腕がなかった。
女性は───訶利帝母は楓呼の視線に気が付いたのか、厚みのない袖を撫でた。
「腕がなくとも茶はたてられますよ。いかがですか、一服」
「……。頂きます」
固い声で楓呼が答えると、訶利帝母は観世音菩薩のごとき微笑みをたたえて、柄杓(ひしゃく)を取った。
「断れば私が何かすると思いましたか?」
茶器を用意しながら訶利帝母は訊ねてくる。
「……いいえ」
楓呼は訶利帝母の前に座った。歩くとき足が縺れなかったのは、幸運だっただけの話だ。
本当はとても怖かった。目の前の美しい女性がいつ凶悪な鬼に姿を変えて襲ってこないかと、恐怖と不安で一杯だった。
「わたしを………どうするつもりなんですか」
訶利帝母は信楽の器に湯をそそいで、三拍おいてから話し始めた。
「あなたは選ばれました。最も神聖な巫女の血を受け継ぎながら、最も穢れた魔を産す娼巫(しょうふ)。そう呼ばれる存在」
これは人間の勝手な解釈ですけれど、と彼女は付け加えた。
「それが“憑坐”。つまりあなたの事です。あなたには我々の神、阿防羅刹鬼様の妻となってもらいます」
「………。そうですか」
楓呼はあくまで淡々と答えた。
「恐れないのですね。“鬼神の妻になること”がどういう事か、分からないわけでもないでしょうに」
萎縮させるような物言いにも、楓呼の凛とした表情は崩れなかった。
訶利帝母の言ったことは脅しでもなんでもないだろう。これから起こることの単なる告知にすぎない。
それでも、楓呼は決して取り乱さなかった。
「信じてますから。兄は必ず来てくれます。だから、わたしは屈しません。あなた達に、なにより自分に」
静かに、だが強い意志を持って、楓呼は答えた。
自分には信じる人がいる。この信念が続く限り、絶対に負けたりなんかしない。
「それは心強きこと」
訶利帝母はやわらかく艶(え)んだ。
抹茶を立てていた茶筅が逆しまに置かれる。楓呼は思わずそれに目がいき、稲穂のように分かれた竹がぐにゃりとゆがむ。それが幻術か何かだと悟ったのは、次に目を覚ましたときだった。
「次に目覚めたとき、あなたはもう人間ではなくなっているのですよ。その時に果たして同じ言葉が聞けるでしょうか。………お休みなさい、憑依の坐となる者よ」
しかして、鬼と人との奇妙な茶会(ちゃのえ)は終わった。