第肆章/紅藍の霞、罹る朧月
1
その日の夜は、なにもかもが、ひどく乾いていた。
眼球の奥が熱くうずき、指先がちりちりと痛む。
潰れたブリキの人形。間抜けなその有様が、終わりの始まりだった。
† † †
小岩ほどもあろうかという拳が、京平の胸郭を押し潰した。
圧倒的な暴威は肋骨を半球状に陥没させる───のみならず、骨盤から上を引きずり出した。
下半身を引きずりながら京平の身体はコンクリートの壁に叩きつけられ、鉄錆と潮の悪臭が夜気に混じり始めた。
「……………あ……あぅ……」
残された楓呼は、悲鳴にすらならぬ上嗄(うわが)れた声でうめいた。
同じだ、あの時と。養父と養母が死んだ、あの時と。
肉塊となった兄の姿を直視して、なお意識を保っていられるほど、楓呼の心は強くなかった。
「あらあら、お姫様には刺激が強すぎたかしら?」
脱力した楓呼を肩にかかえて、痩せた鬼。
「帰るわよ嗅鼻。今夜の仕事はこれで終わり」
嗅鼻はそれには答えず、
「あレ食べタイ。見目」
よだれを垂らして肉塊を指さす。
相棒の見境ない食欲に、見目は呆れて肩をすくめた。
「お腹壊しても知らないわよ」
許しを得た嗅鼻は、腹を空かせた豚か何かのように鼻孔を広げ、かつて京平だったものに駆け寄っていく。
「うフぅ、うふフウ」
食べやすいように、何とか繋がっている脚を掴んで瓦礫から引っ張り出す。ちぎれかけた京平の胴体は普段の倍以上の長さがあった。
「いたダキマあす」
頭から一気に飲み干そうと、嗅鼻は顎のない口を大きく拡げた。その奥には鋸のような涅歯(ねっし)が並ぶ食道が続き、エサを待ち焦がれて大きく蠕動している。浅黒い舌を唾液でヌラヌラと光らせながら、京平を口内に導いていく。
その口に突き入れられる、五爪。
「ぐ……?! ごオェぇっ!?」
血の味が舌に拡がり、次に鋭い激痛が走る。嗅鼻は堪らず京平から手を放して、嘔きながら転げ回った。
「な……まだ生きていたのかっ!?」
見目は驚愕した。鬼のはしくれとは言え、あれだけの重傷を受ければ、まず死に至るはずだ。
内臓は潰れ、四肢は千切れ、頸骨もひしゃげているに違いない。
その破損した部位を、蒼黒の“点”が跳ね回る。点は線となり、線は繊(せん)となり、そして繊は纏(てん)へと帰依し、地に臥した京平の体を覆っていく。
闇色の衣となったそれが、包裹した中身をどうしているのかは分からない。ただ、尋常ならざる気配がそこから漏れだしてくる。
時間にしてほんの数分のことだ。闇色の衣は溶けるようにして夜に消えてしまった。
「…………」
外気にさらされた京平の姿は、一見して何ら変わっていないように思えた。“肉塊に成り果てる前の姿”と比べての話だが。
彼は夜よりも昏い緇衣(しえ)の残滓をたなびかせ、仰臥から屹立へと体勢を変えた。
空気に背を押し上げられているような、ホラーめいた立ち上がり方。そのまま猫科の猛獣のように背を丸め、両腕をだらりと地面に垂らす。
「……………ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………」
長い呼気は白い蒸気となり、口から左右に排出された。
落ちくぼんだ眼孔から覗くのは紅玉色の瞳。闇夜にあってその双眸だけが爛々と燃えている。
ひたいには角らしきもの、口元には牙らしきものまで生えていた。
だが、一番の異形は、その“両腕”にあった。
肘の辺りで破れた制服から覗くのは、当然ながら彼自身の腕。
だが、その腕はもはや人のカタチを失っていた。
皮膚の代わりに腕を覆うのは、まるで鎧のような金属の群体。ひどく攻撃的な形状をしたそれは、今もなお増殖を続け、彼の下腕を武装していく。
その鋼色の金属を何かに例えるならば───鱗。そう、鱗という表現がぴったりとくる。
だが何の鱗なのかと問われれば、答えに窮するだろう。
それは世界に存在する如何なる生物の形態とも異なっていた。魚や爬虫類などではその鱗を喩える対象となり得ない。
なのに鱗と表現してしまうのは………、その生え方から来るのだろうか。燦然と臚列する鋼の層流は、それを想起せずにはいられない。
あるいは“龍”などという御伽話の生き物が実在するのならば、彼の腕に生えているのはまさしくそれだった。
「…………」
目覚めた彼は終始無言だった。
言葉を発さぬまま、新しい身体の仕上がりを確かめるように手を開いては閉じ、閉じては開く。そのたびに硬質の指先がこすれ、尾を曳く金属音を奏でた。
「イタひぃ、いたヒィ……!」
足下を見やれば、這いつくばった肥満の鬼がいる。
京平は道端に落ちている空き缶でも拾うかのように嗅鼻の前腕を持ち上げた。
丸太のような腕に金属の指が食い込み、そして───
「ぎ」
絶叫。握力だけで切断された手首が血の糸を引いて落ちた。
京平は手の中の残骸───健や骨や血管───を翫(もてあそ)びながら、傷口から噴水のように血を重吹かせる嗅鼻の腹を蹴り飛ばした。
爪先が肥満した腹にめり込み、そのままの勢いで嗅鼻の巨体を弾き出す。嗅鼻はサッカーボールのように跳ね転がって、見目の前で無様に止まった。
その行為はまるで『お返しだ』と自己主張しているかのよう。
「ちっ!」
変貌した敵の危険性をいち早く察知した見目は、素早く指を打ち鳴らした。十秒とかからず配下の鬼たちが影という影から這い出てくる。
人の基準で判別すれば、巨人と表現してまったく差し支えない体躯を持つ、目一ツ鬼(まひとつおに)が約三十匹。即席の戦力としては申し分ない数だ。
「痛ひいィぃぃ。イタイよウ見目えェぇっ!」
「黙りな。腕なんかすぐ治る。それよりあいつに注意し───」
掻き消す喉音。
「グルルルルルルル……」
静寂の夜に、燃えるような咆哮が響き渡った。
「───ルオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!」
静から動への急転。鋼の閃きが闇を貫き、飛び出した。
地を蹴るその一歩でアスファルトの道路がひび割れる。まるで砂礫(されき)を踏み抜くようにやわい───強靱な脚力に地面の方が耐えられないのだ。
一切を構わず、咆哮の主は二歩目を踏み出した。
白亜紀を生きた暴君竜のごとき乱雑な走り出しから、徐々に速度を上げていく。
攻撃的に指を折り曲げ、双牙を剥き出しに咆え猛る。
「なんだってんだい、こいつは……!?」
見目は戦慄した。こんなモノが自分たちと同じ生物であるはずがない。
それは奇妙な生き物だった。人間とは言えず、かといって鬼と判断するには“なごり”を残しすぎている。
だが、その強さは他を圧倒するものだった。
鋼色の鬼“もどき”は金属の爪を振り下ろした。颶風を纏った一撃に、召喚されたばかりの鬼が、三匹一度に斬殺された。
上半身と下半身、右半身と左半身、前半身と後半身が泣き別れになった死体が、小腸をこぼしながら宙を錐揉みする。
解体したそれらには目もくれず、鬼もどきはさらに加速した。
黒地の地面を蹴り砕き、正面にいた鬼に急接する。飛びつき様にその醜い顔を両手で挟んでねじり切り、首なし死体の肩を踏み台に、空高く跳躍する。
月夜を呪う咆哮を上げ、地面にいた敵に狙いをつけると、鬼もどきは落下の質量をそのまま相手にぶつけた。
踏みつけた四肢の裏で、ボン、と水風船が弾けるような音がして、皮袋の中身が盛大にぶちまけられる。
血潮の波は周りの民家にまでおよび、臓物の飛礫がびしゃりと窓に貼り付いた。
「グルルゥゥォォォッ!」
鬼もどきは四足獣の姿勢でうなりを上げ、刹那の休止もなしに次なる獲物へ向かっていく。
低空からの鉄爪の乱れ斬り。
空気を焦がすほどの斬撃に、鬼たちは身を庇った両腕ごと爆裂四散する。
血をたっぷりと含んだ細肉がコンクリートの塀に汚い花弁を咲かせた───頃には、鬼もどきは次なる標的に向けて疾駆している。
やっと反撃に出てきた鬼共の金棒を身をかがめる動作だけで躱し、避け様に腹へ手刀を突き入れる。
放り捨てられた心肺が落ちるのと、それを盗まれた鬼共が頽れるのはほぼ同時だった。
闇夜に風穴を開けるほどに、突貫は速度を増す。
高速で接近してくる鬼もどきに対応できぬまま、押し倒され、足蹴にされ、地面との摩擦で体重をみるみる減らしていく目一ツ鬼。
敵を足裏に押さえこんだまま、すれ違いざまに手近にいた鬼を咬鋲(こうびょう)のごとき五指で捕らえた。
300sを超す巨躯を藁人形のように軽々と振り回して両肩に担ぐ。
首と腰に手を回して一気に圧力をかけると、苦もなく敵の皮膚と腹筋が裂けた。
豚の腸詰めがそうであるように、腹にいびつな裂け目が走り、そこから勢いよく血がしぶく。
次いで、骨肉混じりの血脂がボタボタと重くあふれ出した。
強酸の黒血を全身に浴びて、鬼もどきは歓喜に打ち震える。伸びた牙が上唇を押し広げ、下弦の笑みを作っていた。
ボロ雑巾のようにちぢれてしまった目一ツ鬼から飛び降り、肩に担いだままだった死に損ないを、一つの場所に固まった鬼共へ投げつける。
逆向きに折れ曲がった半死体が血の尾を曳いて飛んでくるのを、愚かにも彼らは見守り続けた。半死体が影になって鬼もどきを見失った瞬間、それもろとも刺し殺される。
そして加速。さらに加速。溶けた景色が一瞬で後方へと過ぎ去っていく。
鋼の疾風が駆けた後には、蹴り砕かれた地面だけが残り、遅れて惨殺死体が雨霰と降りそそぐ。
もはや誰が止められるというのか。
触れるだけで肉を裂き骨を断つ弾丸と化した鬼もどきは、両腕を鎌のように広げて、本来仲間であるはずの鬼を次々と屠っていく。
「ククッ、カカカカカカカカッ!」
ついに鬼もどきは声を上げて嗤いだした。
───歓喜が全身を駆けめぐる。
禍々しいまでの快楽。荒れ狂う絶対の暴力。喰肉への憧れ。闘争への渇欲。
あっけなく理性はねじ切られ、あらゆる衝動が本能すら引き裂いていく。
目指すは、妹を乱雑にあつかう痩せた鬼。
───汚い手で触るな。そいつは俺のモノだ。
「グルルルォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
欲望は咆哮となって大気を激震させる。
痩せた鬼の喉元へ、鏨よりも鋭い手刀を突き立てる……!
「───縛───」「───爆───」「───駁───」「───漠───」
老人と子供と男と女が、同時に声を出したような奇妙な発音。極端に短いその声で、鬼もどきはまるで見えない壁にでも衝突したかのように急停止した。
「グルルルッ……!?」
不可視の境界をさかいに、彼はそれ以上一歩も進めなくなってしまった。
人外の本能が、それは妖術だと警告していた。
見目が発生させたのは結界などとは異なる物理的な、しかし不可視の壁。
唯一境界線を越えた鋼の指先は、万力にでも捻られるようにあらぬ方向へとねじ曲がっていく。
圧力に耐えきれなくなった指が一斉に逆側を向いた。さらに前腕の骨までへし折れる。甲高い音は太刀が砕ける鉄の哭(ね)に酷似していた。
「ガァァアアアアアアアッ!!」
その咆哮は、折れた骨が皮を突き破り傷口が血を噴く激痛のため───では、決してない。
鬼もどきの足が文字通り足掻く。地面を掘り抜かんばかりに爪を立て、彼を押しやろうとする壁の圧力に対抗する。
その間も境界の向こう側では腕が生々しい音を立てて破壊されていくが、構わず鬼もどきは残った左腕も見えない壁に突き刺した。
恐ろしいまでの執念。境界の狭間で鬼もどきの膂力(りょりょく)と不可視の圧力が拮抗する。
「……っ………」
見目が詠み上げる呪言に、焦りが混じり始めた。
鬼もどきの凶悪なまでの力に、なにもないはずの空間が軋み始めたのだ。
幾度となく紫電がほとばしり、徐々に見目が行使する妖術の本体が引きずり出されていく。
まず女の生殖器を準えた方陣が姿を現した。
複雑な悉曇字門で描かれたその方陣は、端々から淡光する鎖を生み出し、それが幾重にも重なることによって壁を構成している。
光鎖の壁は近くにいるだけで髪が逆立ち、肌が焼けつく。どうやら鎖を成す光輪の一つ一つが直列に並ぶことで、皮膚を焦げつかすほどの高圧電流を生み出しているようだ。
それが鬼もどきの侵攻を阻む壁の正体だった。
「グルルルッ、ルルアァァァァッ……!」
電撃に次々と神経が灼き切られていく。ぶすぶすと音をたてて蒸発する生身の皮膚から筋肉がのぞき始めた。
それでも鬼もどきは決して力を弛めない。絶叫じみた咆哮を上げて全身の細胞に鞭を打つ。筋肉や腱が断裂していく音が外にまで聞こえてきそうだ。
両腕を破壊されるその寸前、ついに鬼もどきの膂力が敵の妖力に押し勝った。ひしゃげた指が紫電の壁を引きちぎる。
それから後の崩壊は呆気ないものだった。綻びの生まれた鎖の束を両手で鷲掴み、力任せに破り捨てる。
鎖の壁は力を失い、四散する光の中を鬼もどきは突き進んだ。
折れた腕に残った最後の武器───鋼の爪を反動で身動きできない見目へと突き出す。
「く……っ!」
首を反らす見目の両眼を鉄爪が刳り抜くいましも、衝撃が走った。
まるで巨獣にでも踏みつけられたかのような圧力が鬼もどきを打ちのめす。
下方向の重撃に、鬼もどきは為す術もなく地面に沈み込んだ。
「グ……ア……」
何が起こったのか分からないまま、震える四肢をついて起きあがろうとするところへ、もう一撃。
それで彼は完全に意識を失った。
「………はっ………はぁ………。………良くやったわ、嗅鼻……」
窮地を救った相棒に見目は賞賛を送った。
嗅鼻の攻撃によって圧壊した道路の中心では、意識を失った鬼もどきが大量の血を吐きこぼしている。
圧倒的な強さもその動きさえ止めてしまえば、その実ひどく脆い。止まった弾丸は柔らかい鉛にすぎなかった。
見目の役割は鬼もどきの足止め。本命は嗅鼻による死角からの攻撃だった。
「だが、危なかった……。もしこいつに妖術の知識があって、あたしたちが二人でなかったら、今頃は……」
「コ、こイつ、コろス……。殺ス、殺す、殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺ス殺す殺シタいィぃィぃィぃィっ!」
手首から先を失った腕を抱えて、口角についた泡を飛ばす嗅鼻。怒りで我を忘れている。ここで止めれば、怒りの矛先がこちらに向く可能性もあった。
見目は少し考えて、
「……そうね。確かに面白い種族ではあるけれど。羅刹鬼様に刃向かうならここで処分しておかなければならないわ」
用心に用心を重ねて、再度電流の鎖を巻き付ける。
掌に刻まれた方陣から生まれた光鎖は蛇のようにのたうち、鬼もどきを中心に蜷局を巻いていく。その動きはどうしようもなく遅鈍だが、標的が動けないのであれば関係ない。
この縛鎖の妖術は、術者の間では廃れつつある仕掛け専用の術だ。直進することしか能がないこの鬼もどきでなければ、当たりはしなかっただろう。逆に言えば、対抗しうる術がこれしかなかったとも言えるのだが。
この鬼もどきは活かしておけば必ずや脅威となる。肩にかついだ人間の小娘───“憑坐”とどういう関係かは知らないが、この男が少女にかける想いは恐ろしく強かった。
この男は傷が治り次第、我々の居場所を突き止めて襲撃してくるだろう。
たかが鬼もどき一匹に自軍の本拠地がどうなるとも思えないが、それはさしたる問題ではない。困るのは秘匿に事を進められなくなることだ。
最古の鬼神が復活するまでは事を荒立てるわけにはいかない。今はまだ衆人環視の的になるわけにはいかないのだ。
「殺すなら、いま、ここで、確実に、よ。時間がそろそろまずいわ。憑坐の護衛を始末してからずいぶん経ってる。切り札が奪われたと知ったら、八局のやつら大軍を差し向けてくるわよ」
見目は不安定になり始めた結界空間に神経を配りながら、嗅鼻に念を押した。
しかし嗅鼻は振り上げた拳をわななかせたまま動かない。
「嗅鼻……?」
見目の疑問は、すぐさま明らかになった。
† † †
風が吹いていた。渦巻く瘴気を祓う清浄たる風が。
いつの間にか雲は晴れて、真円の月が月下に集った者たちの影を色濃く象っている。
そして月光に照らし出された黒影のうち、嗅鼻の影だけに鉄の小刀が突き立っていた。
「これは、影縫(かげぬい)………?!」
荒縄を巻かれた小刀───苦無は、釘のごとく影を地に繋縛している。
いったい誰が。こんな時代遅れの忍術まがいをやる者など誰がいる。
鬼の張った結界に入ってこられるのは鬼のみ。しかし羅刹鬼およびその配下に牙をむく鬼などそうはいない。言うまでもなく、人間風情が入ってこられるはずもない。
だが、十六夜の月を背に、斜交(はすか)いに見下ろしてくる影は、まさしく人間のものであった。
誰にも存在を覚られぬまま、突として現れた人影。
それは人の身でありながら、結界に侵入できる特異な者。
喰われる立場にありながら、鬼を殺すことを生業とする異質な者。
「“鬼遣”か……!」
憎々しげに見目はうめいた。
内心の焦燥を隠しつつ、嘲るような笑みを浮かべる。
「へえ……こいつは驚いたねえ。アンタまだ追ってこれるんだ? もう何日目だったかしら。ろくに休みもせず戦い続けて。五分(ごぶ)の力も出ないんじゃない?」
「貴様ら下種(げす)ごとき、三分の力で事足りる」
挑発を刃のごとき冷眼で斬り返し、“鬼遣”───海神哀は、音もなく地に降り立った。
「この人非人のボウヤを助けるつもり? らしくないわね」
「その男を殺すのは私だ。貴様じゃない」
低い声で告げながら哀は刀の鯉口をきり、抜刀する間隙を探る。
いや、隙など探るまでもない。彼女の技能を以てすれば、一飛びで目の前の鬼を“三匹”まとめて膾(なます)にできる。
なのに動かないのはなぜか。見目はその理由をつきとめた。
「取引しましょう」
相手の気概を殺ぐように見目は言った。
「取るものも引くものも無い。貴様らとの間にあるのは、ただ殺戮のみ」
「そうも言ってられないんじゃない?」
見目が右目の視線だけを京平に向けると、彼にかかる電圧が一気に増した。
「がっ……が……!?」
「ね? 取引しましょう、鬼遣。嗅鼻の影をほどいて。代わりにこのボウヤを解放するわ」
「…………」
その怖気(おぞけ)を震うほどに整った顔の裡(うち)で何を考えているのか。冷酷無比の鬼遣は、数秒置いてから口を開いた。
「………いいだろう。持ちかけた貴様が先だ。虚偽があれば、相棒を殺す」
「わかってるわ。取引で小細工するほど馬鹿じゃない。特にあんた相手にはね」
見目は京平にからみ付いた紫電の鎖を解く。妖(あやかし)の電流が弾けて、京平は縛鎖から開放された。
京平の呼吸を確認すると、哀も嗅鼻を自由にする。
片手で指を織(お)って印を結ぶと、浮きが水面に浮上するように、嗅鼻の影を縫いつけていた苦無が抜けた。続いて、その刃に貫かれた短冊ほどの大きさの紙が四枚、あとに続く。
彼女以外の者が苦無を引き抜けば、それが瞬時に発動するという仕掛けだ。
「(………やはり咒符も使っていたか。呪の術式体系から見て爆砕系の壱式。取引が成立してなかったら私も危なかったわね…………)」
だが、見目は訝っていた。
今の取引は鬼遣にとって絶好のチャンスだったはずだ。鎖が解けたときがまさにその好機だった。
爆符を発動させてそのまま斬り込んでくれば、初太刀で嗅鼻を、返す刀で見目を始末できる。
「(ああ、それでは爆発で憑坐まで死んでしまうか……)」
この娘は鬼と人間、どちらにとっても不可欠な者だ。彼女を人質に取っている限り、鬼遣もそう易々と手を出すことは出来ない。
「続きはまたになりそうね」
見目が告げると、彼女の周囲が歪み始めた。
『幽界干渉』。異界を経由することで数qから数千qという長距離を瞬時に移動する高等妖術だ。
「見逃すかどうかを取引した覚えはない」
「平静を装うのはおよしなさいな。対幽界干渉の七里結界を用意する力も残ってないんでしょう? 息が上がってるわよ」
冷然としている哀のおとがいを、一筋の汗が伝った。
「嗅鼻、お預けよ。今夜は退くわ」
「あイつ。いつカ殺ス。必ず殺ス。殺しテ喰ウ……」
啜り泣く嗅鼻も見目の幽界干渉により姿が薄れ始める。
見目たちが京平に目を移した刹那。二つ、地を跳ねる快音がした。
たったの二歩で十数メートルの距離を詰めた哀は、神速で刀を抜き放つ……!
寸断されたブロック塀が、塵埃(じんあい)と共にすべり落ちた。
『残念』
幽界と人界の狭間で見目は嗤笑する。
『そういう抜け目のないところ好きよ。だけど今日のあなた、本当に“らしくない”』
かつての彼女ならば、京平の命より楓呼───“憑坐”の身柄を要求したはずだ。目標を確保し、あわよくば手負いの嗅鼻ぐらいは始末できたかも知れない。
こんな非合理的な戦い方は、あの“鬼遣”がとるはずのない行動だった。
『“400年前”に戦ったときは、底冷えするほど戦慄したものだけれど。あたしたちが力を付けたのか、そっちが弱くなったのか……。次に会うときには死んでるかもね、あなた』
───あとには、血の汚臭だけが残った。