第参章/雨露霜雪


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 帳が降りる。それは楽しい常闇の時間。天敵がいることも知らぬ、愚かな人間共を食い散らかす夕餉の時間。

 人気のない道を歩く二つの影があった。

 一方は奇妙に痩せて、背が恐ろしく高い女。大きな目玉は今にも顔から飛び出そうにぎょろついている。

 一方はその真逆。退化した足は子供の大きさほどしかなく、それすらも腹部をおおう脂肪に隠れてしまっている。しかし肥満がすぎた腹とは対照的に、不自然にたくましい両腕を持った男。

 いや、性別さえ定かでないほど、それらは人間とかけ離れていた。

 肌の色。体格。身にまとう臭気。

 そして、決定的に彼らを人間でないと認識させる物体───角。歪にいがんだ角を彼らは生やしていた。

 まさしくそれは、唯一にして無二の、異形の証拠。

「ねエ、見目(みるめ)」

 両腕を使って歩く肥えた鬼が、痩せた鬼に声をかけた。

「僕ラノお姫様ハ、どこに居るノカナ?」

 太い喉にこもるそれは、声と判別することも憚られるほどの蛮音だった。まるで獰猛な獣が無理をして人の言葉を発しているようだ。

「すぐ近くよ、嗅鼻(かぐはな)」

 石竜子(トカゲ)のように左右の目玉に独立した動きをさせ、痩せた鬼───見目は答えた。

「それにアレはお姫様じゃないわ。ただの餌よ。美味しいというだけのね」

「た、タた、食べたイナア。僕、食ベタいナあ」

「我慢なさい。羅刹鬼様が御復活なされた際に食してもらう供物なんだから」

「羅刹鬼様ガ復活しタら、僕タチ、人間食イ放題?」

「そうね。皮だけ食べて捨てるなんて贅沢なことも出来るかもね」

「うウ。シタいなア。食べタいなあ。僕は赤ん坊の脳味噌ヲ生きタマましゃぶルのが好きダナあ」

「だったら早く“憑坐”を見つけないとね。………あんた、ちゃんと嗅いでる?」

「嗅いでルヨ。南西の方角かラ捷疾鬼様が採取シタ匂いガしテクる」

「どれどれ……。あら、ほんと。60qほど先かしら。幸せそうな顔しちゃって、何か良いことでもあったのかしらね」

 見目(みるめ)は眼孔に収まる限界規格の両眼を妖しく光らせ、ほくそ笑んだ。

「一五里ぐらイナラ、幽界に戻らナクテも追いツケルね」

「まあ三〇分もあれば足りるんじゃない?」

「小半時も走ルノは疲レるヨ」

「………。いい加減、現代の単位ぐらい憶えなさい」

 女はその痩躯から、男はその肥身から───想像もつかない動きで一散した。






 指にくい込む大小のビニール袋。京平はそれを両腕に目一杯ぶら下げて、疲労困憊の相で歩く。

「重い〜。関節の所で血が止まってる〜。楓呼〜、一個でいいから持ってくれ〜」

「ん〜。がんばれ〜、力持ち〜」

「………オニか、キサマ」

 手ぶらで前を駆ける妹を呪いつつ、京平は家路を急ぐ。楓呼があれこれ買ったために荷物は膨れあがり、そのうえ実隆の家までわざわざ遠回りしていかなければならない。

「あとちょっとだよー」

「わかっとらい。見てないで少しは協力しやがれ」

 楓呼は素敵に無視して奥山家の呼び鈴を鳴らした。

 実隆も永禮兄妹と同じく一人暮らしをしている。子供の頃は彼にも親がいたはずだったが、中学に上がったぐらいの時に単身赴任で実隆だけこの家に残ったらしい。

 『らしい』というのは、実隆がその話題をさけるからだ。だから京平たちも深く訊いたりはせず、よく三人で食事をしたりして彼を気遣っていた。

 呼び鈴を鳴らして約一分。

「……………………。出ないね」

「寝てんじゃねェか?」

 荷物を降ろして、京平はこった肩をぐるりと回した。

「でもまだ八時だよ?」

「ヤツは九時寝、四時起きを実践する男だぞ」

「……おじいちゃんおばあちゃんでも、そんなに早寝早起きはしないと思う」

「まあいい。ヤツは寝てる。決定。帰んぞ」

「えー? もうちょっと待とうよぉ」

「駄目だ。帰ろう」

 いつになく真剣な口調で京平は言った。その割にはうまく伝わっていなかったようだが。

「ぶー。じゃあいい。わたしここで待ってるもん。兄貴だけ帰って一人でカップヌードルでも食べてれば?」

「あのなぁ。そういう問題じゃないだろ………」

 どう説得して良いものやら、と京平は思案する。

 だがその必要はなかった。思案するまでもなく、すでに手遅れになっていたからだ。

 空気の質が変わっていた。水沼に堆積する汚泥のような、ぬめった空気が足にまとわりつく。



 ────この時はまだ知らなかった。



 俺たちが深く物語に関わることに。すでに物語の住人になっていたことに。

 気付かぬままに歯車は動き出していた。早すぎる終焉。遅すぎた幕開。

 それはあまりにも永く、そしてあまりにもあっけなかった。

 平穏は終わりを告げ、狂気の舞踊劇が始まる。



 今、この瞬間に。



「ッ……?!」



 ぞぶりと何かに包まれた。正確には、肌が不気味に軟らかい膜を突き破った感触がした。

 冷や汗が京平のこめかみを伝う。後ろに誰かいる。獣のような異臭を放つ誰か。人ではない誰か。

「あ……あ……!」

 正面にいる楓呼が青ざめた表情で高いところを見上げている。妹の顔を強張らせる原因を確かめるため、京平は振り向いた。

「今晩は、お姫様。お迎えに上がりましたわよ」

「い、良イ匂イだなア」

 男と女が立っていた。それだけなら何も恐ろしいことはない。恐ろしいのは、男女は長身の京平よりも二回り以上背が高く、女の方に至っては二メートルを優に超えている。なにより、そこには先刻まで誰もいなかったはずだ。

 ひと目で分かった。こいつらは鬼だ。

 対照的な体型をした物怪は、こちらのことなどお構いなしで、鷹揚に歩み寄ってくる。

「さあ、一緒に行きましょう、お姫様」

 痩せた方の鬼が手を差し伸べてきた。京平にではなく、ただの人間である楓呼にだ。

「あ……あぅ……」

 楓呼を守らなければ。だが、恐怖に冒されて金縛りになった彼の両足は、地面に貼り付いたまま動こうとしない。なのに全身が戦怖してやまないのは、眼前の敵が絶対に敵わない相手だと言うことを身体が理解してしまっているからだ。

 ───逃げろ。早く逃げろ。ここから逃げろ。脱兎のごとく。無様だろうが何だっていい。早く、ここから、逃げるんだ!

 危険信号が鳴りやまない。鬼たちはもう目の前まで迫っている。怯えている暇などない。

「ぶぢっ……」

 京平は頬の肉を噛み千切った。激痛で一瞬だけ恐怖から解放される。とにかく思考することをやめ、京平は鬼の進路を立ちふさぐ。

「逃げろ!」

 視線は二匹の鬼を牽制したまま、未だ硬直したままの妹に叫ぶ。

「早く逃げろ! こいつらは人間じゃない!」

 周りの民家まで届くかも知れぬ大声に、楓呼の瞳が色を取り戻し始めた。

 あと少しだ。楓呼が逃げるための時間だけはなんとしてでも稼ぐ。

「やれやれ、小うるさいガキねぇ」

 痩せた鬼が不機嫌にうなった。

「だいたい何でこいつ結界内にいるのかしら? この辺りの空間のずれは数qに及んでいるのよ。人間ごときが入ってこられるはずがないわ」

「見目、コイつ同族だヨ。僕タチト同じ匂イがスルもの」

「同族……『同族』、ねえ。その同族がどうしてあたしらの邪魔をする?」

「さア? 人間ニ飼ワレテるのカモ」

「ハッ。八局の特隊じゃあるまいし。………まあいいわ。『障害は取り除け。目撃者は残すな』……いけ好かない訶利帝母様のお言いつけよ」

「見目、見目、僕がヤッテモ良イ?」

「どうぞ、お好きに」



 ───べこん、という音を京平は聞いた。



 間抜けなその音が、自分の肺が破裂した音だと知ったのは、全身が家屋の塀にめり込んだ後だった。

 殴打された胸部に痛みはない。しかし、確実に致死の損傷を受けて、肋骨は、内臓は、跡形もなく散っていた。

 瓦礫に埋もれた体は鉛のように重く、折れ曲がった首を元に戻すこともできない。

 かたむいた視界の向こうで、妹の柔肌に二匹の鬼の爪が掛かろうとしていた。



 ───その日、俺は楓呼を裏切った。

 またあの娘を一人にした。守ってやることが出来なかった。

 謝る言葉を考える力も失せていく───脳が壊死しているのだ。

 身体は冷えて、呼吸は止まり、混濁した泥沼に引きずり込まれていく。

 そこはまるで、永遠に醒めやらぬ悪夢のようで───………………





第肆章 【紅藍の霞、罹る朧月】へ続く───


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