第参章/雨露霜雪


Title

Back         Next





 二限目の休み時間。保健室には、校医の留守を通知する懸札が掛かっていた。

 夕紀先生が保健室を留守にするのは珍しい。一昨日も午前中からいないようだったし、研修にでも出かけているのだろうか。

 いずれにしろ、彼女がいないのは都合が良かった。用があるのは夕紀先生にではないからだ。

 京平が自分の異常な状態を相談できる相手と言ったら一人しかいない。しかし、彼女がここにいるかどうかは賭けのようなものだった。彼女もまた昨日から姿を消しており、今日も教室に来ていなかった。

 もうこの学校にはいないのかも知れない。もともと鬼を退治するのが生業の彼女だ。学校というものに通う必要性すらないようにうかがえる。

 それでも、京平には確信があった。なにが根(こん)拠(きょ)になっているのか分からないが、彼女はここにいるのだという確固たる自信があった。




       †   †   †




「ほらな、やっぱりいた」

 最悪の再会を果たしたときと同じく、まるで美姫を象った氷像のように、彼女は眠っていた。

 京平は丸いパイプ椅子に腰かけて、生気の無いままに眠り続ける少女を見つめる。

 訊きたいことがあった。自分の身体のこと、彼女のこと、鬼のこと。

 だけど、その前に言っておかなければならないことがある。

「人を傷つけたよ……」

「………そう」

 不意の返事は、なかば予想していたものだった。なればこそ京平はつぶやいたのだ、彼女にしか聞こえないように。

「部活の……先輩だった。俺はその人と闘って、負けたんだよ。それからだった。意識が薄れそうになった瞬間、頭の中で誰かがささやいたんだ。お前を変えてやるって」

 あの時の情景がまぶたの裏で再生される。そこには、おぞましく醜い、最低の自分がいた。

「無茶苦茶だった。力が抑えられなくなって……。………違う、暴力に酔ってたんだ。殺したいと、喰らいたいと思った」

「……そう」

「どうすればいい。どうすればいいと思う? 俺はやっぱり鬼だった。あんたの忌み嫌う最低の生き物だったんだよ……!」

 荒ぐ。誰にも話せなかったことを告解したことで、抑えていた恐怖や混乱が堰を切ったように溢れ出してきた。

「このままじゃいつかやっちまう。取り返しのつかないことを……! 俺は……っ」

 友達を。好きな人を。大切な人を。楓呼を───殺してしまう。

 妹がこの手で陵辱され臓腑から喰われる姿を何度も夢に見た。このままあいつと一緒にいて、いつかそれが現実になったら……。

 怖い。どうしようもなく怖い。絶対の暴力で人を引き裂いて、血肉を嚥下する事をどこかで望んでいる自分が。

 そんな奴がどうして人間だと言える?

「駄目なんだよ……。今日は耐えられるかもしれない。だけど明日は? 明後日は? 日を重ねるごとに俺はおかしくなる。それならいっそ───」

 手の甲にひんやりとした指先が、触れた。

「大丈夫……」

 哀はいつの間にか上体を起こしてこちら見ていた。無表情に、あのどこか違う情景を眺めるような瞳で。

「あなたは、まだ大丈夫……」

「だけどっ……」

「逃げるのは狡い」

 哀は冷ややかにさえぎった。しかしそれは氷刃の冷たさではなく、森閑にせせらぐ清流の冷たさだった。

「逃げるのは狡い。絶望するには早い。大切な人を守って。あなたにはいるでしょう、大切な人が……」

「……………」

 真っ先に浮かんだのは、今朝の楓呼の幸せそうな笑顔だった。

「もし……、本当に人を殺(そ)したくて喰(しょく)したくて、どうしようもなくなったら、私の所に来て……。その時は……」

 その先の言葉を、哀は口にしなかった。だけど、それで十分だった。

 彼女が聞いてくれたことでずいぶんと荷が軽くなった。止めてくれる存在がいるという安心感。たとえそれが命の停止を意味していたとしても、それで良かった。

 震えは止まらない。だが混乱は解決した。

「ありがとな、海神(わだつみ)。なんか、カッコ悪いところ見せちまったな」

「気にしなくていい。それが私の役目だから……」

 そう告げる哀の眼差しはどこか悲しい。身にかかる不条理を納得してしまった者の悲しい瞳。

「………そっか、役目か」

「そう、役目……」

 触れていた哀の指先が離れる。彼女は瞳を伏せ、わずかに逡巡したあと、口を開いた。

「それに、あなたが荒ぶれたのには理由がある……」

「───理由? 単に俺がおかしくなっただけじゃないのか?」

 だとしたら、それは希望だ。理由があるなら解決策も見つかるかも知れない。

「知りたい? あなたが知りたいと言うのなら教える。それがあなたのためになるかは分からないけれど……」

「教えてくれ」

 京平は間を置かず答えた。

 藁にだって縋ってやる。前の生活に戻れるなら一も二もない。今はどんなことでも知りたかった。

 視線の意志を受け止めた哀は、静かに語りだした。

「人界で平穏に生きてこられたあなたが、前触れなく鬼の血に目覚めた。考えられる理由は一つだけ。何者かの影響によって強制的に目覚めさせられた」

「何者かって、そりゃあ……?」

「最古の鬼神、阿防羅刹鬼」

 ささやくようなその響きには聞き覚えがあった。彼女が一言だけ綴ったあの名だ。

「………そいつが、俺を?」

「そう。唯一無二、幽界を支配する鬼共の王。禍霊(まがつひ)なる彼奴(きゃつ)の言葉があなたの血を狂わせた」

 ───阿防羅刹鬼。そいつの所為で俺はおかしくなったというのか。だったらそいつを倒せば俺は元に戻れるんじゃないのか? そうすればこの胸に巣喰う闇を消せるかもしれない。

 なら悩むまでもない。そいつを───

「あなたの考えていることは解る……」

 京平の思惑を言い当てるように哀はあとを続けた。

「だけど、あなたがやろうとしていることはあまりにも無謀すぎる。敵は息吹ひとつで大陸を消し去る最古の鬼神。対してあなたはようやく鬼の血に目覚めたばかりの赤ん坊。そんなあなたが羅刹鬼に戦いを挑もうというのは、小兎が獅子に身を投げ出すようなもの。それでもあなたは勝てると言うの?」

「…………」

 答えるまでもなく、無理だ。

「それだけの、相手よ……」

「………お前は、そんな奴を?」

 問いかけた京平の背筋が凍る。

 哀の眼奥には陽炎が灯っていた。氷晶のように蒼く鋭くゆらめく炎。

「ずっと後一歩のところで逃(のが)してきた……。でも今度は違う。勝算がある。遅くても一週間。奴らより先に“憑坐”に接触できれば、それで決着がつく……」

 陰鬱な殺意に気圧されながらも、京平は口を開いた。気になる単語があったからだ。

「その『よりまし』って言うのは?」

 その質問で哀の殺意が収まる。

「……。あなたが知る必要はない……。私が約束できるのは、一週間以内にあなたを狂わす元凶を退治するということだけ……」

 つまりそれは、その間を上手く乗りきれさえすれば、万事は丸くおさまると言うことだ。

 一週間。耐えられるだろうか。こうして彼女と話している間にも、着実に闇は大きくなろうとしているのに。

 だが、耐えるしかない。楓呼のためにも。自分のためにも。

「分かった。無茶をするのはやめるよ」

「その方がいい。はっきり言って邪魔だから」

「……………ホントにはっきり言う奴だな」

「そう?」

 哀の声に険のあるものは感じられない。鬼と闘っているときの彼女とはまるで違っていた。こっちが彼女の素顔なのだろうか?

 だったらいいなと京平は思った。




       †   †   †




「なあ、今更なんだけどよ、鬼ってのはどんな生き物なんだ。………本人が言うのもどうかとは思うんだが」

 落ち着いたところで次の質問を始める。

「民話や伝承と同じ……。人を襲い、隅々まで蹂躙し、すべてを奪う存在。知性を持った化物たち。日に背き夜を歩く者共」

「そんなものは、おとぎ話だけの話だと思ってたよ」

「大半はそう……。人間の作った空言の話。でも、なかには真実を綴った物もある……。たとえば原始仏教の経典『涅槃経』の内、四句偈文の『諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽』を釈迦に語った鬼───阿防羅刹鬼は現存する最古の鬼。一説によれば神話時代以前から存在していたとも云われている」

「そんな奴が俺を……。じゃあ、昨日体育館に現れた鬼は? あれも仲間なのか?」

「あの鬼は捷疾鬼(しょうしつき)。本来は毘沙門天の眷属で北方を守護する夜叉なのだけれど、釈迦如来が涅槃した後に彼の仏舎利を盗み、その罪を問われて神速の韋駄天に滅された」

「……………。……生きてるぞ?」

「経典は人間が都合良く書き換えた書物、滅尽されてしまったのは韋駄天の方。捷疾鬼は阿防羅刹鬼の腹心として、今も水面下で人の運命を脅かしている……」

「そいつらだけなのか?」

「いいえ。今現在、人界に棲息する鬼の数は数万以上」

「す、数万っ?!」

「それだけの数がいれば、鬼共が世界を乗っ取ることもたやすい。けれどひとつ救いなのは、奴らは極端に単一行動を好み、人間よりも遙かに種としての幅が広いこと。人々が認識している一般的な“鬼”という生き物は狭い範囲内の呼称に過ぎないの。異なる魔物として認識されているものも“鬼”の場合が多い。食人鬼(オーガー)、獣鬼(トロール)、吸血鬼(ヴァンパイア)、小鬼(ゴブリン)。牛頭鬼(ミノタウロス)や雪男(イエティ)なども広義では“鬼”の部類に入る。彼らは同族でありながら、全く違う生物でもあるの。だから奴らが協力して何かを為すということは有り得ない……」

「………意外な事実だな」

 京平が腕を組んでうなると、

「……。あなたはおかしい……」

 哀は飄然とつぶやいた。

「あん?」

「普通、こんな話を聞けば、呆れるか嘲笑する……。なのにあなたは真剣に私の話を聞いているから……」

「そりゃ、まあ……な。これだけ証拠を突きつけられりゃ、誰だって信じるだろ」

 公園で嫌というほど鬼の死体を見せつけられ、体育館裏で生(ナマ)の鬼に遭遇し、部活で自分自身が鬼になりかけた。信じない方がおかしいと言うものだ。

「そうだとしても、認めようとする者は少ない……。眼前の事象から逃げ出して、結局は流れる鬼の血に耐えられなくなって、人を害する」

 ───確かに……少し前までは、俺もそうだった。

 認めたくなかった。逃(に)げようとしていた。鬼だという事実に怯(おび)えて……。

 ───鬼?

 根本的な問題にぶち当たる。今の今まで気付かなかった。

「なあ、なんで俺は鬼なんだ?」

 哀にとっては意味不明の質問に、彼女は怪訝な顔をした───ように見えた。

「ああ、いや、変なことを言ってるのは分かってる。けど俺から言わせてもらえれば、俺が鬼のはずはないんだ。親は二人とも人間だったし」

 ……つってもガキの頃に死んじまったから、本当にそうだったかは分からないけどな。

 と、京平は心の中で付け足しておいた。

「そう……」

 哀は両親のことよりも、京平が自分を鬼と認識していなかったことに驚いていたようだった。

「……ただの人間が鬼になる方法は三つ……」

 ひと呼吸置いて哀は続ける。

「一つは感染。つまり擬似的な眷属になること。主として傷口から鬼の唾液や体液が侵入して感染することが多い。二つ目は呪術的儀式を用いて自らの身体を鬼に捧げる方法。こ れは感染とは違って鬼と同化することになり、依代となった人間は絶大な力を得ることが出来る。代わりに精神の根底まで鬼と融合して、人としての自我は消えるけれど……」

「……二つとも違うな。───って言うか、どっちも最悪だろ、それ」

 京平のツッコミを受けも流しもせず、哀は続ける。

「三つ目は、隔世遺伝……」

「かくせいいでん?」

「数代前の遺伝子が突如として子孫に顕著に表れること……。遺伝現象としてはそれほど珍しいことじゃない……」

「てことは俺の祖父さんだか曾祖父さんだかが鬼だったって事か」

「あるいはもっと前……。あなたの匂いはどこまでも薄いの。ほんの数滴ほどしか継承していないと思う……」

「へー、よく分かるな」

「そうでないと“鬼遣”として成り立たない……」

「おにやらい?(───やばい。そろそろ憶えきれなくなってきた)」

「“鬼遣”とは、水烟により外道を祓い、殲法を以て鬼を調伏し、護摩の灰を撒いて穢土を浄化する者……」

「………………。……もう少しわかりやすくお願いしまス」

 京平の貧弱な脳細胞は、難語を交えた説明にパンク寸前になっている。

「つまり、雨を降らして悪い気から人々を守り、悪事をはたらく鬼を退治して、汚染された地を癒す人のこと」

「おー」

「分かった……?」

「おう、分かったぞ。海神は鬼をぶっ倒すのが仕事なんだな」

「…………。間違いではないけれど……」

 なにか釈然としないものを感じたのか、哀は眉根に軽くしわを寄せた。

「けどよ、意外だったな」

「なにが……?」

 聞き返す哀に、京平はにんまりとして、

「海神って無口なヤツだと思ってたよ。じつは結構話せるんだな」

「あ……」

 哀はしまったという表情になりかけて、ふいと目線を逸らした。

「別に……。無駄に話すのが嫌いなだけ。必要なことなら話す……」

「ぷぷっ。なんだ、照れてるのか?」

「……五月蠅い」

「お、おい。保健室で刃物向けるなよっ」

 アゴ先をつつく苦無を押しのけながら、京平は笑った。

 久しぶりの嬉笑だった。彼女といる間はあいつもなりを潜めて出てこない。自分の周囲で何が起こっているのかを知った今、ようやく己と戦う決心がついた。

「聞きたいことはこれで全部……?」

 少し疲れたように訊ねてくる哀に、京平はイエスと答えようとして、

「あー……、あと一コだけ、聞いていいか?」

「なに?」

「なんか手伝えることはないか?」

 哀の双眸がにわかに曇った。役に立たないとでも言いたいのだろう。いや、実際にもう言われているのだが。

 それでも、何も出来ないのは悔しい。同い年の少女に自分の命運を押しつけるのはあまりに身勝手な気がした。

「余計なお節介かも知れねェけどよ。海神は一人であんな化物共と闘ってるんだろ? 俺にもなにか出来ることはないかと思ってさ」

「ない」

 哀は素っ気なくそう答えた。

「………そっか……。まあ、そう言うとは思ってたけどな」

「ある」

「………どっちだよ……」

 肩をコカされて、京平はげんなりとうめいた。

 哀はそんな京平を見つめ、言った。

「あなたはあなたの大切な人を守ればいい……。それが私の助けになる」

「! おう。肝に銘じておくよ」

「それでいい。あなたは、まだ大丈夫……」

 哀は言い聞かせるようにつぶやいた。それは彼女自身に向けているようにも聞こえた。




       †   †   †




 その後、京平は哀に教室に戻るかと訊ねたが、彼女はもう少し保健室で休むと言い渡して寝てしまった。

「ザンネンムネン」

 ひとり教室へ帰る廊下道。窓から差し込む太陽の光がいやに眩しい。

 空は晴天だ。雨は降らない。大気がまた重くなった気がした。

 ───乾いた泥のように。




       †   †   †




 細っていく廊下の足音を耳にしながら、哀は寝床に戻った。安物のパイプベッドを軋ませることなく布団に潜み、指先に残った感触を思い出してみる。

 そっと指に手を添えると、まだ彼の体温が残っているような気がした。

 錯乱した少年を落ち着けるために取った無意識の行動だった。深い意味などない。

 けれど指先に沁みる彼の熱い肌は、なぜか懐かしみを感じるものだった。はるか昔には彼のような人間と接していたことがあったのかもしれない。

「………ふ……」

 何を馬鹿げたことを。鬼遣が他者にぬくもりを望むなど。かつて自分に関わった者───殺してきた者たちが見たら、声を上げて嗤うことだろう。

 ほんのわずか人に触れた程度で心を動かされるなど“鬼遣”として失格だ。いや、それも違う。鬼遣は最初から心など持ちえない。無我無心の殺戮人形。そうあるべきであり、それが存在のすべてだ。

 なにより、今は身体を休めることが最も先じられていた。無為な思考に労力を費(つい)やしているゆとりはない。今夜もまた終夜(よもすがら)の狩りは続くのだから。

 いつなんどきでも反応できるように紅い刃を抱いたまま、哀は浅い眠りへと落ちていく。

「────ッッッ!!」

 だが哀はすぐに身を起こした。彼女の鋭敏な感覚器が何処(いずこ)かで発生した異変を察知したのだ。

 空間に漂うキナ臭い気配。たった今、何者かが人界へ降臨た。

「………昼間から……?! ……やはり此処に“憑坐”がいると言うのか、鬼共……!」

 もはや一時(いっとき)とて休む猶予はないようだ。哀は戦の冷徹な仮面をその芳顔に下ろし、人群の地をあとにした。




       †   †   †




 ───放課後 一年一組の教室にて。

「おーい、ぷーこぉ!」

 『ぷーこ』は楓呼の愛称である。一部の女子の間だけで使われるマイナーなものではあるが。

「はーい?」

 鞄に教科書を詰め込む作業を中断して、楓呼は呼ばれた方を振り向いた。

「お客さぁん!」

 見ると、引き戸の所に楓呼を呼んだクラスメイトがいて、その隣では小柄な女子生徒が緊張した面持ちでこちらに視線を投げかけていた。

「……? ああ! 杏ちゃん!」

 一瞬誰だか分からなかった。

 制服を着た杏をあまり見たことがなかった所為もある。部活の時のように髪を束ねていないのも理由の一つだ。

だが決定的に彼女を彼女と認識しにくくさせていたのは───元気がなかったからだ。周りのみんなまで明るくさせてしまうような彼女の溌剌さが今は少しも感じられない。

 心配に思った楓呼はとりあえず鞄を置き、杏のいる引き戸の所へ向かった。

「どしたの、杏ちゃん」

「………あの、楓呼ちゃん」

「なになに?」

「せんパ───じゃなくって、永禮先輩はどうですか?」

「兄貴?」

「昨日はすぐに帰られたし。今日も朝練来てないみたいだったから……」

「うん。身体の方はもう大丈夫みたいだよ。今朝もご飯おかわりしてたし」

「で、でもっ……!」

 つめ寄るように杏は顔を上げ、ふたたび落ち込んだように顔を伏せる。

「………だって、大熊先生にあんなに殴られたんですよ。それにあの時のせんパイ……」

 その後に続くのは───『怖かった』だろうか。『気味が悪かった』だろうか。

 確かにあの時の京平は常軌を逸していた。まるで別の何かが乗り移ったかのように我武者羅に拳を振るう姿を見て恐怖を覚えなかった者などいるはずがない。

 狂気じみた闘いぶりに戦慄したのは、楓呼もまた同じだった。

 しかし楓呼はそれを面(おもて)に出さず、

「う〜ん。兄貴、昔から頑丈だったからなぁ。小学校の頃なんか、靴箱まで階段使うのがメンドクサイって言って、三階から飛び降りてたぐらいだし」

「そ、そうなんスか?」

「そーなんスよ。………でも心配することないと思うよ。兄貴だって馬鹿じゃないんだし。いや、馬鹿かな? かなりの馬鹿? すごい馬鹿? もう絶望的に馬鹿───」

 首をひねっていると、杏がうろんな目で見つめてくる。

「───の、のような気もするけどっ。自分の体のことは自分で判ってるだろうし、様子がおかしかったら引きずってでも病院連れてくから」

 話が悪化してただの京平への雑言になる前に、楓呼は何とか話をまとめた。

「ごめんなさいっ」

 それまで黙っていた杏が唐突に頭を下げた。

「え、ええ?! な、なんで杏ちゃんが謝るの?」

 驚いて聞き返すと、杏は申しわけなさそうに微笑んだ。

「楓呼ちゃんはせんパイのこと信じてるんですよね。あたしはダメだぁ。いっぱい聞きたいことがあるのに、何も言えないし信じてもいない……」

「杏ちゃん……」

 楓呼は、しゅんとする杏の手を取った。

「そんなことないよ。杏ちゃんの気持ち、兄貴もきっと分かってる。……それにね。わたしだってホントは不安だよ? だけど、兄貴は絶対に約束を破らないんだ。何があっても、必ず約束を守ってくれる。今だって調子悪いだけなんだよ。きっとすぐにもとの兄貴に戻ってくれるよっ」

「……楓呼ちゃん」

 楓呼の信念ある言葉に、杏も幾分か落ち着いたようだった。

「うん。ありがとう楓呼ちゃん」

「えへへ、説明ベタでゴメンね」

 照れくさそうに笑う二人に、またも呼び声がかかる。

「おーい、そこのレズレズー!」

 なんでレズ? と疑問に思い、二人はまだ手を握り合っていたことに気付いた。照れ笑いのままやんわりと手を離し、楓呼がクラスメイトに声を返す。

「こ、今度はなにー?」

「お兄さぁん」

「うえっ?」

 見ると、後ろ側の出入口に、京平がだるそうな姿勢でこちらを眺めていた。

「すみません。まだあっちの用事が済んでないみたいですね」

「ああ、いいよ。自分で行くから。わりィな、わざわざ呼んでもらって」

「いえいえ」

 滅相もない、と手を振る後輩に礼を言い、京平は廊下から二人のいる前の出入口へ向かった。

「よう」

「はい……。………せんパイ、こんにちは」

 どうにも杏の歯切れが悪い。自分と目を合わせようとしない後輩を、京平は見下ろした。

「あのな、杏」

「は、はい」

「俺、部活サボるわ」

「え……?」

 思わず見上げた杏の瞳が悲しみに曇る。

「あ、勘違いすんなよ。別に空手部やめるとかじゃないぞ。最近なんか体の調子がおかしくてな。それで何日か……、そうだな、一週間ぐらい休みたいんだ。権佐と勇樹に言っといてくれないか?」

 杏はぽかんとしてその口上を聞いていた。そして彼女の瞳はだんだんと潤み始め、

「………良かった。いつものせんパイだ」

 ほうと杏はつぶやいた。

 ごしごしと涙をぬぐい、小柄な杏は飛び上がるようにして、元気いっぱいの声で答えた。

「休みッスね! 分かりましたっ。主将と大熊先生にはあたしが伝えときますっ。もう、一週間だろうが一年だろうがど〜んと休んじゃってくださいっ!」

「いや、さすがにそれは退部させられるだろ……」

「じゃ、せんパイっ、楓呼ちゃんっ。マネージャーの仕事があるんで失礼しまっす!」

 びしりと敬礼のようなものを送ると、杏は軽い足取りで駆けていった。

「色々と忙しいやつだな」

 それでも杏が元気になってなによりだ。

「ぷーこ。また明日ねー」

 案内をしてくれた女生徒も帰る様子だった。

「じゃーねー」

 手をにぎにぎとさせて楓呼はその女性徒を見送った。

 見れば教室には誰も残っていない。赤く焼け始めた空の向日から、部活動に精を出す生徒たちの喧噪が聞こえてくる。

 所在なくなった兄と妹はなんとなく顔を見合わせて、

「帰るか」

「うん。カバン取ってくる」

 夕暮れの校舎を後にした。




       †   †   †




 茜色に焼けた空が二人の影を引き伸ばす。学校を出た時間が中途半端なこともあってか、他に下校する生徒はいない。

「よっ……と、ととっ」

 ガードレールの上を巧みにバランスを取りながら歩く楓呼。その少し後ろを京平がついていく。

「おい、あぶねーぞ。ガキみたいに、恥ずかしい」

「平気だよ。他の人の前じゃやらないもん」

「……………。つーかな、パンツ見えてる」

「にゃあ!? え、えっちぃ!」

 学校での楓呼は明るく社交的な優等生で通っている。子供のようにはしゃぐのは京平の前でだけだ。

 楓呼は京平といる時だけ本当の自分に戻れる。京平もまたそうだった。

 なだらかな下り坂を歩いて数分、商店街にさしかかる。

「ね。兄貴、お店よってっていい?」

「なんでだ? 食材ならまだあっただろ」

 家の食料事情など与り知るところではなかったが、京平は楓呼の提案に難色を示した。

 早く家に着きたかったのだ。夜はもうそこまで来ている。いつ鬼が現れるとも限らないのだ。帰りが遅れるようなことは極力避けたかった。

 哀のことを信頼していないわけではない。なにか事件が起こればすぐに警察が動くだろうし、小さな町だ、噂は簡単に広まる。なのに何も起きていないのは、哀が夜ごと鬼共と戦って、人知れず街を守ってくれているおかげだろう。

 陳腐な言い方だが、彼女がいる限りこの町の住人は安全だ。

 ───だとしても、約束したのだ。大切な人は、この手で守ると。

「材料は朝食で使い切っちゃった。オックンちで晩ご飯にしよ」

「実隆? なんでそこで実隆が出てくるんだ?」

「今日オックン学校休んでたじゃん。知らなかったの? 同じクラスなのに友達甲斐のないやつぅ」

「ああ、そうか。今日はなんだか拳が物足りないと思ったら、そのせいだったのか」

 京平は納得して、ゴンゴンと拳骨を打ち合わせた。

「男の友情って……」

 楓呼はあきれたようにうめいた。

「とーにーかーくっ、昨日兄貴が地雷畑にオックン放り投げまくったから大怪我して休んだかもしれないんだよ?」

「………やけに詳しいな」

「学校の掲示板に血文字で詳細が書かれてあったの」

「………息の根を止めに行くか」

「お見舞いに行くのっ。だから兄貴、荷物持ってね」

「あー……」

「ほら、行こっ」

 結局押し切られて、そのまま買い物に付き合うことになってしまった。

 それが間違いだと後悔したのは、少し後のことだった。







Title

Back         Next