第参章/雨露霜雪


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 雀が朝日を待てずに鳴いている。

 もう雨音はしなかった。陽が昇るにはいますこし時間がかかるだろう。

 楓呼は久しく見た幼き夢の余韻に浸っていた。

「………おにいちゃん、か……」

 誰に言うでもなく、楓呼はつぶやいた。

「んが」

「うえっ?!」

 突然聞こえた兄のいびきに楓呼は飛び起きる。

「あ、あれ、なんでえ?」

 まだ夜の帳が明けきらぬ仄暗い部屋。よく見ればここは自分の部屋ではない。

 整頓されている───と言うより、さした調度類もない殺風景な間取り。

 ここは間違いなく我が兄、京平の部屋だ。

 どうやら寝ぼけて部屋を間違えたらしい。

 楓呼は起きあがろうとして、やっぱりやめた。どうせ兄が目を覚ませば追い出されるのだ。それまでは、彼のぬくもりを感じていたかった。

 京平の手を取ってぎゅっと握る。その手はかつての小さな男の子の手ではなく、ゴツゴツと力強い手をしていた。

 楓呼はその大きな手を抱き寄せて───、

「………おにいちゃんでもいいよ。ずっと一緒にいられるなら……」

 そして少女は微睡みに沈んでいく。大好きな人の夢を見るために。 




       †   †   †




「楓呼……?」

 目覚めると、かすかに残る妹の香り。けれどもそこに彼女の姿はなく、あるのは台所から聞こえてくる俎板をたたく軽快な音。

 学ランに着替えてダイニングに出れば、食卓に並べられた豪勢な朝食の数々。和食を中心にした食べやすそうなものばかりだ。ざっと見てもゆうに四人前はある。

「あっ、兄貴。おはよー」

「………おう」

 エプロン姿で台所から顔をのぞかせる楓呼に訊く。

「なあ、これ、どうしたんだ?」

「えー? 見ればわかるっしょ。朝ご飯だよぉ」

 やおら明るく楓呼は答えた。

「朝飯は朝飯なんだが。……多すぎやしないか?」

「大丈夫だよ。兄貴大食らいだし」

「……まあ、人よりは食うが」

「じゃー、いいじゃん。朝食は一日の元気のもとだよっ」

「……。そうだな」

 納得を言葉にして、京平は席に着いた。

 昨日、部活で問題を起こして帰ってきた後、京平は夕食も取らずに寝てしまった。この豪勢な朝食は楓呼なりの心配りだろう。

 食事の用意をする彼女に気取られないよう、京平は負傷した脇腹に手を当ててみた。

 確かに折られた肋骨はなんら問題なく完治している。奇妙な脱力感こそあったが、痛みはない。

 気懸かりなのは、尋常ならざる速度で傷を治癒させる我が身を、自分自身が受け入れていることだ。

昔からこうだったかのように、この異常な状態をすんなりと受け止めている。

 哀に向かってあれほど頑なに否定したことが、京平のなかで瓦解しつつあった。

「ハイ、おまちー」

 最後の一皿を持ってきた楓呼がエプロンを外して向かいの席に着く。

「いただきます」

「いただきまーす」

 楓呼の料理は美味い。彼女は若干十五才にして家事のすべてをこなす。一応当番制にはしているものの、京平にはもともと才がないのか、結局は楓呼が手伝うことになるのだ。

 そのうまい朝飯を、まずはほどよく出汁の摂れたみそ汁を取って、京平は一口すすった。

 ───味がしなかった。

 味噌の香りも、舌を流れる汁の熱さも、具を噛む歯ごたえも、感じる。

 なのに味覚だけがすっぽり抜け落ちているこの奇妙な感覚。

「………あ。おいしくなかった……?」

 味噌汁をすする動きが止まったことに、楓呼が悄然となる。

 それこそ杞憂だというのに。楓呼の作る料理が不味いわけがない。

 京平は答える代わりにみそ汁をかき込んだ。それにより楓呼の表情がやわらぐ。

「なぁ、もしかしてダシ変えたか?」

 具を咀嚼しながら訊ねてみる。

「あ、わかる? 変えたのはダシじゃなくてミソだけどね。京都の西京味噌だってさ。お隣さんが分けてくれたの」

「ほう」

 嗅覚で感じ取った匂いの変化を当てずっぽうで答えたのが功を奏した。

 そのまま御飯を頬ばり、焼き魚に手を着け、煮物をつまみ、四人前の朝食はあっと言う間に京平の腹におさまった。

 舌を使わずに味わうというのは初めての体験だったが、けっして苦痛ではなかった。

 妹が作ってくれた朝飯だ。間違っても残すわけにはいかない。

「ふー、ごっそさん。うまかった」

「お粗末様でした」

 楓呼は髪を後ろで束ね、エプロンをつけ直すと、洗い物を片づけにかかった。

 積み上げられた食器が台所に運ばれると、蛇口をひねる音と流し台に水が落ち込む音が聞こえてくる。京平は背凭れに体重を預けて、その音に耳を傾けた。

「これって気ぃ使われてるんだよな……」

 部活でのことに楓呼は触れてこない。一昨日の夜、帰りが遅れたことや、朝、明らかに彼女が追いつけない時間帯に家を出たことについても、訊いてこない。

 なにも言わずにそっとしておいてくれる。そんなさりげない楓呼の心づかいが有難かった。

 あるいは彼女は何かに勘づいているのかもしれないが。

 だが、所詮そんなことは瑣末なことだ。楓呼にならば打ち明けても構わないのかもしれない。話したところで信じるかどうかは分からないが。

 ───否、彼女は信じるだろう。彼女は妄信的だ。京平の言葉にならば必ずや耳を傾け、京平の頼みであればどんなことでも聞きいれる。たとえそれが命令だったとしても、彼女は素直に従うだろう。

 京平はそのことに気づいていない。楓呼が寄せる特別な感情に気づいていない。

「楓呼」

 京平は簾から顔をのぞかせて楓呼を呼んだ。

「あれ、兄貴? まだ行かないんだ。いつもならご飯食べたらすぐ行っちゃうのに……」

「そのこと、なんだがな。………今日、一緒に行くか、学校」

 洗っていた大皿が楓呼の指をすり抜けた。流し台に溜めた食器に落下した大皿は割れこそしなかったが、そのけたたましい音で放心していた彼女を現実に引き戻した。

「あっ、あっ……!?」

 急いでも同じなのに、楓呼は皿を大慌てで拾い上げようとする。京平はその様子を眺めながら、自分で言ったことを半ば後悔していた。

「……なんか、らしくないよな。やっぱりやめと───」

「い、行く! 絶対行くから!」

 みなまで言わせず楓呼は宣言した。ちなみに、それで食器は完全に砕けた。




       †   †   †




 晴天だった。

 例年より早い梅雨入りを感じさせた長雨は、四季が勘違いしただけのようだ。

 だがしかし、この晴れ渡る天空に禍々しさのようなものを感じてしまうのは何故なのか。

 蒼い空も、まばゆい太陽も、澄んだ空気も、なぜか黒油(タール)のように重く、枷となる。

「なんか久しぶりだねっ、兄貴が一緒に学校行ってくれるの」

 段差になった花壇の上を、楓呼がバランスを取りながら歩いている。

「……? 前から行ってただろ?」

「それは、わたしが追いかけてたからで、兄貴はいっつもセカセカ先に行っちゃうじゃない。『兄妹の自立を促すためだ』とかなんとか、もっともらしいこと言ってさ」

 楓呼は眉目を引っ張って京平のマネをする。京平は苦笑することも忘れて納得してしまった。

「……そうだったな」

 過去に悼む。

 いつの頃からだろう、じゃれつく楓呼に気恥ずかしさを覚えるようになったのは。周りの冷やかしに耐えられなくなったのは。

 現在(いま)は思う。

 この瞬間(とき)が続けばと。一分でも、一秒でも、この娘と共にいられればと。

 未来(あと)で知る。

 今がどれほど大切で、どれほどかけがえのない時間だったかということを。もう二度と還っては来ないのだということを。

「兄貴っ」

 清らかな風が街道を吹き抜けた。

「明日も……、明日もまた一緒にいようねっ」

「……。ああ」






 ───その日、俺は楓呼を裏切る。

 明日なんて、無かった。







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