第参章/雨露霜雪


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 ───雨は嫌い。

 夢現(ゆめうつつ)に楓呼は思った。

 泥のように堆積した過去が舞い上がるのは、こんな雨の夜だ。

 木々を打ち、葉末を伝い、瀝青を流れ、大気に充ち満ちた水の糸は、縺れてほつれ、埋もれた記憶を掘り起こす。

 それは忘れたい恐怖。忘れてはならない現実───忘れたくない思い出。忘れてしまう幻。

 相反する境界に身を委ねる少女は、今夜もそれを夢に見る。




       †  †  †



 情け容赦なく頬を打つ平手。親の記憶はそれだけ。たったそれだけ。

 父の顔も、母の顔も、憶えていない。

 憶えているのは、性交の後の生ぐさい臭気。西日さす陰気な六畳間。割れたままの汚れた小窓。それらの記憶は鮮明に残っていて、今も心を苛んでいる。

 ざらついたコンクリートの壁と工場のくすんだスモッグ。監禁された子供が知ることの出来る、これっぽっちの外の世界。

 自由を許されない生活の中、食事はめったに与えられることはなかった。

 いわれのない暴力、仮借のない罵倒、そういったものは毎日のように与えられた。

 理不尽な毎日の中、どうすれば痛い思いをせずに済むのだろう。どうすればご飯をもらえるのだろう。幼いわたしはそればかりを考えていた。逃げだすなんて考えは思いつきもしなかった。

 どんなに痛めつけられても、子供にとって親は親なのだ。親に見捨てられたら、子供は生きてはいられない。

 それに、もしかしたら、いつかこの人たちが優しく笑いかけて抱きしめてくれる日が来るかもしれない。そんな淡い期待があった。

 だから、部屋のすみで耐え続けた。信じて、待ち続けた。

 顔を殴られて、腹を蹴られて、煙草の火を押しつけられて、痛い思いをたくさんして。

 いっぱい我慢した。でも、だめだった。

 それから何度も季節が変わり、だが一度も願いが叶うことはなく、期待だけがあっけなく裏切られた。

 凍える冷雨の夜、わたしは捨てられた。親はゴミでも捨てるかのように、わたしを土砂降りの街路へと放り出した。

 家に入れてと泣き叫ぶことは出来なかった。そんなことをすればどんな仕打ちを受けることか。

 行き場を失なったわたしは、あてもなく彷徨い、疲れ果て、しかし冷雨に邪魔されて眠ることも出来ない。

 冷たい雨は痩せ細った子供の体温をみるみる奪い去る。

 追い討ちをかけるように、真冬の雨露は霜雪へと景色を霧らしていった。

 さびの浮いたブランコがキィキィと音を立てる。公園にたどり着いたところで、とうとう動けなくなった。

 雪に漂白された公園には誰もいない。深夜のせいもあるだろうが、こんな寒い日に出歩く者などいるはずもない。

 街灯の頼りない明かりがたびたび明滅し、白と黒の世界を交互に魅せる。視界の色が変わる一瞬に見える灰色は薄気味悪く、寒さとは違う震えを催わせた。

 荒々しい風は、粗末な服では守りきれない素肌を容赦なく打ちつける。

 凍てついた指先はもう痛まず、ただ痺れて腐る。

 いらだたしいほどに清らかな景色はゆがみ、白色の世界が同情心のない眠りへと誘う。

 寒さと、飢えと、愛情への憧憬。やがてそれすらも感じなくなった頃───。



「なにしてるんだ?」



 それが、最初の言葉。






 頭に積もった雪の重みが消える。優しく雪を払いのけてくれる感触は、親の平手とはまるで違っていた。

「……………」

 涙を忘れてしまった瞳で見上げれば、そこには男の子がいた。

「こんなところで寝たらカゼひくんだぞ」

 わたしとは違う真っ黒な髪をした男の子。わたしとは違う自信にあふれた眼をした男の子。

「なんだ? オマエ、しゃべれないのか?」

 呆然と見上げていると、馬鹿にしたように男の子は言ってきた。

「もう夜中だぞ。子供は家に帰らないとかーちゃんに叱られるぞ」

 自分のことは棚に上げて、男の子は図々しく話しかけてくる。

「迷子か? 家わかんないのか?」

 どうだろう。迷子というのなら迷子なのかも知れない。帰る家はもうないのだから。

「そっか、迷子か……。でも夜中は誰もいないから探せないな」

 男の子は勝手に決めつけると、しゃがみこんで、なおも訊いてきた。

「オマエ、名前はなんてんだ?」

 名前。自分自身を表す言葉。

 名前。果たしてそんなものが自分にあったのだろうか。

「……なんにも言わないんだな、オマエ」

 ───言わなかったんじゃないの。言えなかった。何も話すことが出来なかったんだよ。………声を出すと、痛いことをされるから。

「ま、いっか。それより寒いんだよ、ここ。帰るぞ」

 帰る。彼は帰ってしまう。

 この子には帰る家があるんだ。わたしにはないのに。

 ───……ずるいよ。

 彼を憎んだ、幼心に。

 男の子は立ち上がって、そそくさと雪をはらった。

 それは一時の情けだったのだろうか。子供の気まぐれだったのかも知れない。

 どうでもいい。彼はここから去っていく。そのことに変わりはないのだから。

 公園から男の子がいなくなって、どこにも姿が見えなくなって、わたしはまたひとりぼっちになった。

 まぶたが重くなる。吐く息の白ささえも風に紛れる。

 街灯の光もやがて遠くなり、しだいに寒さを忘れていく。雪に囲われて、ひとり眠りにつく。

 このままここで朽ちるのは、とても楽なことのように思えた。

 最期の言葉もなく、空腹のまま、深い眠りへと落ちていく。

 これが死。安らいだまま停滞した世界。それはとても楽なことだけれど、そこはとても寂しかった。

 本当は愛されたかった。誰かに抱きしめてもらいたかった。けれど雪はあまりにも、白くて、冷たくて───

「───なにやってんだよ!」

 男の子の声。なにか言い忘れたことでもあったのだろうか。

「『帰る』って言っただろ? 聞いてなかったのか?」

 わけが分からなかった。帰るなら帰ればいいのに。止めたりなんかしないのに。

「そっか、寒くて動けないんだな」

 そう言うと、男の子は自分の手で冷え切った両手をつつんできた。

 初めて感じたぬくもり。手から伝わる暖かさに惚めいていると、男の子はゆっくりと両手を引いた。

「立てっか?」

 男の子の手は、今の彼のように力強くはなかったが、今の彼が隠してしまう優しさがあふれていた。

 雪を交えて吹きすさぶ風は寒かったけれど、もう怖くはなかった。彼が手を握っていてくれたから。



 ───それからの月日はおだやかに移ろう。



 彼が導いてくれた先には、倖せだけが待っていた。

 暖かい家と食事とベッド。そして家族。

 彼はわたしに家族というものを教えてくれた。新しい家族は快くわたしを迎え入れてくれた。

 新しいお父さん。新しいお母さん。そして初めてできた、おにいちゃん。

 孤独など、感じる暇がなかった。

 ある時、いつの頃だったろう。わたしの兄となった男の子が言った。

「楓呼の髪、キレイだな。サラサラしてる」

 そうだった。金色の髪も、緑の眼も、みんな彼が誉めてくれたもの。

 薄く透ける葉を舞わせて秋を呼ぶ金色の楓。だから楓呼。

 わたしはこの名前が大好きだった。

 思い出は全部わたしの宝物。

 だから忘れない。いまでも、いつまでも……。







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