第弐章/黒の南風、来る暗闇
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誰もが京平の負けを確信した。
意識を身体の外にはじき飛ばされた者は膝を折り、くずおれる。
だが、京平がその膝を地に付けることはなかった。
電撃が走り抜けたかのように、京平の猛反撃はそこから始まった。
勇樹の繰り出す攻撃のことごとくを躱し、いったん攻めに回ると、相手の防御を物ともせずに乱打で押しまくる。
技術的なものの一切を放棄して、スピードとパワーだけで京平は攻め続ける。
それは目に見えて愚かな行為だ。格闘技をかじった者なら誰にでもわかる愚行。少しでも無駄なところに力が掛かれば、それだけで体力は大幅に削られ、筋肉は不快な熱を持ち始める。
人間の身体構造では全力で動き続けることは適わないのだ。
勇樹もそれを狙っているようだった。わずかでも動きが鈍った瞬間に一撃を打ちこんでやろうと間隙を窺っている。
だが、彼にそんなものはなかった。
京平の躍動は動くほどに力強さを増していく。常軌を逸したスピードが、隙だらけの大振りを息つく間もない連撃に変えてしまう。
「っ……!」
やはり勇樹の表情にも余裕がない。攻撃を防ぐので手一杯といった様子だ。幾度となく拳を受けた彼女の前腕は遠目からでも赤く腫れ上がっているのが判別できた。
「くっ……!」
なんとか距離を開けようと、勇樹は苦し紛れのジャブを出す。
ハンパな打撃に京平は真っ向から突進し、額で弾いた。
「くぁっ!?」
ついに勇樹の防御が崩れた。そのまま彼女のふところに潜り込み、体当たり気味にショートアッパーを放つ。
アゴをかすめた一撃に彼女の意識が数瞬飛ぶ。ガラ空きの胴めがけて、京平は容赦のない拳を打ち込んだ。
為す術もない。重い打音が場内に響き、勇樹の身体がくの字に折れる。
「ぁっ……ぅ」
肺腑から細い苦鳴が漏れる。鳩尾に一撃を受け、それでも意識を失わなかったのは流石だった。勇樹はもたれるように膝をつき、観念したように片手を前に出す。
降参。それは彼女の負けを意味していた。
ギャラリーは勝者に歓声を上げることも忘れて、まったく予想外の試合結果に唖然としていた。
「か、勝ちやがった……」
「永禮の野郎あんなに強かったか……!?」
「マジかよ……」
皆が瞠目しているとき、権佐だけが険しい顔をして闘いの顛末を見定めようとしていた。
何とか呼吸を取り戻した勇樹は、畳の上にしりもちをついて防具を取る。
「………っふふ。まさか、えほっ……京平に負けるとは思わなかったな」
軽くむせながら勇樹は右手を差し出してきた。
握手を求めているのだろうか。それとも起こして欲しいのだろうか。
いずれにしろ、京平はその手を取った。
この女を喰らうために。
「………あっ?!」
肩が脱臼するほどの力で引き起こされた勇樹は、本能的な───格闘家ではなく生物としての───回避反応を見せた。半歩、後ろに退いたのだ。
結果、乳房を千切りとるはずだった五爪は彼女の胴着を剥ぎ取るにとどまった。
勇樹が胸元を隠したり悲鳴を上げていれば、今度は喉笛に爪が刺さっていただろう。
彼女はそんな無駄な行動を取る前に、さらに後ろへ下がった。京平は逃げる勇樹へ追い縋ろうとして───
真横からの衝撃が京平のこめかみを貫いた。
さらに鳩尾に膝蹴り。浮いたところを延髄に肘鉄。だめ押しに顎を蹴り上げられる。
遠慮のない、すべて急所狙いの、あわよくば殺そうとする意志さえ感じられる連撃だった。いや、そうでなければ今の京平は止められなかっただろう。
勢いよく壁に叩きつけられた京平は、力なく床にずり落ちた。
「グルル……」
衝撃と痛みにうめいて、赤く血走った眼はだんだんと元の京平の目に戻っていった。
「…………っ。お、れ、は……?」
京平は震える自分の手を見る。それは何の変哲もない手だった。空手用の丈夫な胴着を切り裂けるはずもないただの人の手だった。
「おにいちゃんっ!?」
楓呼が取り乱した様子で駆けよってくる。目の前であれほど見苦しい姿を見せたのだ、無理もない。近付いて欲しくないと思っても、身体が言うことを訊かなかった。
「おにいちゃんっ、おにいちゃんっ!?」
「だ、大丈夫だ……。それより勇樹を……」
すがり寄る楓呼を震える手で撫でてやり、勇樹を探す。
少し離れたところに座っていた勇樹は、ちょうど権佐に上着をかけられているところだった。胸元のどこかを切ったのか、胴着に赤い染みができていた。
「俺は……なんて事を……」
勇樹がメットを取ってこちらに手を差し伸べてきたとき、京平は確かな女の匂いに欲情した───食欲だ。彼は勇樹を喰おうとした。
柔らかい肉を噛み潰して、甘露な血を味わって胃袋に流し込みたいと、確かにそう渇望した。
「違う……違うんだ……俺……」
「おにいちゃん、しっかりしてよぉっ」
楓呼が錯乱した様子で肩を揺さぶってくる。いや、錯乱しているのは自分の方か。ひどく気分が悪い。吐きそうだ。
「あー、永禮ー」
武神のごとき体捌きで京平を無力化させた権佐が、こんな時でも間延びした声で呼んでくる。
「お前はどうやら疲れてるみたいだ。帰って休めー」
「……あ、あのっ、俺っ!」
「永禮」
権佐はやんわりと遮り、呆然と事を見守っていた空手部員たちに、練習を続けろと何事もなかったかのように告げた。
部員たちは、京平をどこか冷めた視線で見やり、だがなにも言わず練習に戻った。
杏は、どうしたらよいか分からずうろたえていた。
楓呼は、胸元で震えていた。
勇樹は───権佐にかけられた上着をなびかせてきびきびと歩いてくると、頭を蹴ってきた、軽く。
「おい、バカキョウヘー」
「……………。………勇樹。すまねェ……俺」
謝るとさらに小突かれる。
「お前ねえ。こんなんでオレがまいるとでも思ってんのかよ? 自惚れんなよ。こんなモン屁でもない」
にぃっと勇樹は笑って見せた。恐怖など知らない彼女だけの笑顔だった。
「あんまり気にすんなよ。お前こそ権佐に本気で殴られたんだ、後で病院行った方がいいぞ。頭の方もな。バカを治してこい」
それから、やっと震えのおさまった楓呼に、
「フーコちゃん。今度デートしようねぇ」
忘れずに色目を使って、練習する部員たちのもとへと戻っていった。
こんな事になっても元気づけようとしてくれる勇樹の心遣いに感謝し、なおのこと罪悪感に押し潰されそうになる。
哀の言っていたことの意味がようやく分かった。
鬼がどれだけ危険な存在なのか。なぜ彼女があれほど鬼を憎むのか。
身を以て知った。やっぱり自分は鬼なんだと。
「兄貴……。………帰ろう?」
潰れかけた心を現実に引き戻してくれる妹の声。楓呼が今にも泣きそうな顔で見上げていた。
「そうだな……。帰ろうか」
壁に体重を預けてどうにか立ち上がる。
さすがに何本か肋骨が折れたのか、脇腹の辺りで鈍痛がくすぶっていた。
「着替えるから……待っててくれるか」
「うん……」
楓呼の肩を借りて、プレハブ建築の部室へ行き着く頃には、痛みは多少ひいていた。
身支度をして、京平は部室を出る。
うつむき加減の楓呼は泣きそうなままだった。
「行くか」
「……うん」
傘を差すと、楓呼はなにも言わずに寄り添ってきた。
───何があろうと、こいつだけは、楓呼だけは守りたい。泣き顔など見たくない。たとえ俺が鬼だったとしても、誰かを傷付けることになったとしても、この娘の傍に居続けよう。
それだけを誓って、雨降りしきる世界を歩いた。
† † †
一張りの暗黒。在るべきものはこのひとつ。
闇。影の存在すら赦されない真の闇。そこは場所であり、空間であり、生物だった。
その御許へ、生温い黒南風(くろはえ)とも呼べる微風が降り立った。寂静の闇に黒南風の立ち上がる気配だけが伝わってくる。
着物の長い袂をしゃなりと揺らし、黒南風は闇に囁きかけた。
「珍しいですね、貴方があの様な小者に呼びかけるなんて」
───闇は答える。
「ええ、確かに貴方が与えるのみの存在ということは心得ています」
───闇は続ける。
「ええ、ええ、わかっております。奪うのは我らの仕事。わかっておりますとも」
───闇は訊ねる。
「“憑坐(よりまし)”の件はすでに見目と嗅鼻に命を出しています。明日には我らの手中です」
───闇はねぎらい、沈黙した。
「では、失礼いたします。阿防羅刹鬼様」
黒南風は恭しく一礼して、退出した。
宵が降りる。漆黒の闇が降りる。
───闇は望んだ。
鬼と人との永遠の闘争。鬼共の王がそう望んだ。ただそれだけだった。
† † †
凍てこごる雨は春の気温を下げ、和琴の弦となって夜を白く染める。
白き弦は大地を洗い、水石の雅曲を静やかに演奏する。風流心のない者にはただの雑音にしか聞こえないのだろうが。
その雨のしらべに先刻より混じる微かな足音。ひきずるように、その間隔は長い。
雨琴歌を邪魔する愚かな輩は、倒れ込むように足を止めた。
「…………はっ…………っ…………はっ…………はっ…………」
彼女は民家の垣根に背中を預け、途切れ途切れに呼と吸を繰り返した。
同時に、鞘に収めた刀が手からすべり落ちて、水溜まりが激しく跳ねる。刀を持っていられるだけの握力も残っていないのだ。
彼女の白い肌はいつにも増して青ざめ、虚ろな双眼には色濃い疲労が見て取れる。ふたたび歩き出せるだけの体力を回復させるには、かなりの時間を要することになるだろう。
この夜───彼女は百以上もの鬼を斬り伏せた。
だが、鬼の数は一向に減ることを知らず、それどころか日を追う事に敵は数を増していく。
さらに質の悪いことには、狙っている首魁の鬼共はいっこうにその姿を現そうとせず、雑魚ばかりを物量に任せて投入してくる。明らかにこちらの戦力を削ろうという魂胆だ。
それだけ奴らも必死ということだろう。
毎夜、日が落ちると朝まで戦いは続く。いったい今日まで何匹の鬼と戦ったことか。
連日の戦闘は、少しずつ、だが着実に彼女の身体に疲労を蓄積させていった。
彼女は、言うなれば名刀のようなものだ。薄く研ぎ上げられた刃金(はがね)はあらゆるものを切断し、極限の硬さとしなやかさを併せ持つ心鉄は欠けも歪みもしない。
しかし如何に業物であれ刀は刀。使い込めば見えないところに錆や罅(ひび)はできていく。
いわんや、一度折れればもう使い物にならない。
そして、今日、彼女はついに致命的な傷を負った。
「…………く……ぅ……」
鮮血が太股をつたって雨水で流れ落ちる。
───傷が内蔵まで達していなかったのは幸いだった。汚れた爪で裂かれた脇腹は、傷自体よりも感染症の方が気にかかる。
まずはこの出血を止めなければ。自分はまだ折れてはいけない。
やはり八局の連絡員が来たときに物資の提供を受けいれていた方が良かっただろうか。
………いや、駄目だ。彼らは見返りを要求する。情報を渡したところで彼らに羅刹鬼を倒すことはできない。無駄な死人が増えるだけだ。
傷のことは構わない。あと数日保てばそれでいい。
鬼共を残らず殺して、阿防羅刹鬼を封印して、ぜんぶ終わったら……───
───……やっと死ねる。
第参章 【雨露霜雪】へ続く───