第弐章/黒の南風、来る暗闇
5
やや早い梅雨の訪れ。
屋根を打つ恒久的な雑音は屋内で反響して、体育館をおおいに賑わわせる。
その音と同様に、肌に貼り付く湿気に難儀しながら、運動部の衆は部活動に精を出していた。
「杏。その鉄アレイ取ってくれ」
「はいっ、どうぞっ」
放り投げられた重さ四キロの鉄アレイは弧を描き、京平の右足小指に直撃した。
「はぐッッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?!」
「あ、大丈夫ッスか」
しらじらしく少女は言ってくる。
「こ、こいつめっ……」
想像以上の激痛に京平は足を押さえてうずくまる。涙目で杏を睨みつけるが、小柄な少女は鼻歌を歌ってどこ吹く風だ。
「───ふっふ、ふふん〜♪ あっ、楓呼ちゃんにお茶淹れてあげなきゃ」
「………そ、その前に、しっ湿布を……」
「妹のご機嫌取りに後輩をダシに使うようなシスコンのせんパイなんか知らねえッス♪」
キラリとかがやく笑顔で吐き捨て、無情にも杏は小走りで行ってしまった。
「……………くそう」
───いったい何が気に入らないというのだ。もしや朝練のことか? 団体戦の代表に選ばれたのに朝練をサボるから怒っているのか? なんと真面目なマネージャーだろう。感心だ。意地でもサボり続けてやる。
京平は小指の痛みにそう誓った。
それはさておき、確かにこの部は練習もしないでレギュラー陣に選ばれるほど甘い部ではない。
鳴北高校の空手部と言えば全国大会の常連であり、他の会館主催の大会でも何度か優勝を納めている強豪である。そのため他の運動部よりも部費が多く、体育館も全体の四分の一を使わせてもらっているほどだ。
その練習場の片隅。畳を敷いた一角に、京平の妹、永禮楓呼がちょこんと正座していた。
「あ、あは………」
金髪緑眼の少女を重々しい形相で取り囲む強面の男共───が一斉に吠えた。
「お、おおお、女子じゃあっ!」
「し、ししし、しかも外人じゃあっ!」
「ぬおおっ、ういのう! めんこいのうっ!」
やや離れたところで京平。
「お前ら、それしかないのか……?」
くどいようだが、この学校は女子生徒の数が非常に少ない。
いわんや空手部などという一般女子にまったく人気のない部活に女子部員はやってこない。
男共が飢えるのは仕方がないことなのだが、いい加減やめさせた方が良いだろうか。
京平が声を掛けようかと思ったその時、
「ぐはっ!?」
遠巻きに見ていた部員が、がくんと膝を折った。
「ぼんがっ!?」
「ほげぶっ!?」
「ばおっ!?」
それを皮切りに、奥から二人三人と撲ちのめされて、あっと言う間に部員たちは畳の上に山積みになった。
「アンタらねぇ。怖がってるじゃないか、このコ。ただでさえ暑苦しいんだから、不細工なマネはやめときな」
───訂正。女子部員は確かにいる。確かにいるが、アレが女だとは認めたくない。
マネージャーの杏がいて、もう一人。
「大丈夫かい? お嬢ちゃん」
有段者の証である黒帯を締め直し、楓呼の肩に手を置く女子空手部員。
「は、はひっ。大丈夫れすっ」
「こいつらになんかされそうになったら、すぐオレに言いな。まとめて仕置きしてやるから」
「お、オスっ」
完全にビビリ入っている楓呼に、女子部員はクールでピンクな笑みを送った。
それから京平を別人の眼光で睨みつけ、きびきびと歩いてくる。
「キョウヘー。あんた昨日大門とヤったらしいね」
「っ……だったらなんだよ」
京平はこの女主将が大の苦手だ。
切れ長な鋭い目。雑な印象だが美人には違いない容貌。肩ですいた亜麻色の髪。打撃系の格闘家特有のスレンダーな体型。
外見は良い方だろう。黙っていれば知性さえうかがえる。
だがしかし、だまされてはいけない。彼女の場合、その中身が絶無なのだ。
品性という言葉がこれほど似つかわしくない女性もめずらしい。
高一で入部して以来、一ヶ月で副主将を倒し、三ヶ月で主将を倒し、弱冠十五歳で空手部主将に就任した麒麟児である。
無論、主将・副主将はともに男だった。彼女の実力はハンパじゃない。
空手部総勢二十六名。みな日々を武道に切磋琢磨する猛者である。その猛者たちの頂点に君臨するのが、この狐塚勇樹(こづかはやき)なのだ。
幼・小・中・高と、沈めた男は数知れず。食った女も数知れず。
彼女にとって、少女は可愛い子猫ちゃんで、野郎は拳を撃ち込むサンドバッグなのである。
そして、勇樹の最近のお気に入りサンドバッグが、ご存じ永禮京平であった。彼が朝練をサボる理由の一端がここにある。
勇樹は組み手の時、ほとんど必ずと言っていいほど京平をその練習相手に指名してくる。強いうえに加減を知らないから、大門よりもよほどタチが悪い。
「キョウヘー、聞いてるのか?」
「………あんだよ。あれは大門の方から吹っ掛けてきたんだぞ」
横柄な口調で返すと、勇樹はニッと笑みを浮かべた。
「良くやった」
「………へ?」
「いやさー、あいつさー。なんか最近オレにからんできてうっとーしかったんだけど。あんまりウザいから、ひとつ賭けを設けちゃったんだよねぇ」
「………なんか、俺に都合が悪いだけの賭けっぽいから聞きたくないなぁ」
「そう言わずに聞けよ。あいつさぁ、事も有ろうにオレに付き合えって言い出してさぁ。シュミが悪いにもホドがあるよなぁ、がはは」
「いや、がははて。……つか、自分でシュミ悪いとか言うなよ」
うんざりとしたうめきを勇樹は聞いていない。
「んで言ってやったのさ。『オレはキョウヘーと付き合ってるから、オレと付き合いたかったらまずあいつと勝負しろ』って。どーよ。ナイスアイディアだろ?」
「………待てコラ。誰と誰が付き合ってるって?」
「オレと、お前」
「ウソこけっ! いつ俺とお前がそんな関係になった!?」
「んもうイヤねぇ。忘れたの、あの暑い夏の夜のことを………」
───暑い夏の夜。あれはまだ京平が一年生だった頃の話だ。
夏休みの合宿中、皆が山で鍛錬に励んでいたとき、当時二年生の勇樹主将が『熊を倒そう! 決まりだ! 熊鍋を食うぞ!』などと無茶を言いだし、一人で山奥へ行ってしまったのだ。
そして面倒くさがりのクセにお人好しという難儀な性格をしている京平は、やむなく彼女に同行することにした。
狐塚勇樹は方向音痴である。永禮京平も方向音痴である。
結果。遭難するに決まっている。
それから三日後、彼らは救助された。
普通ならばその三日の間に何かあったと推測するだろう。その通り、本当に何かあったのだ。
その日は暑い夜だった。彼らはなんと人食い熊と恐れられ、猟師も迂闊に近づけなかった山のヌシを返り討ちにし、その肉を食べて生き延びたのだった。『驚異! 人食い熊を喰らう熊食いカップル!』などとゴシップ雑誌に載ったこともある。
しかし、それだけだ。勇樹とはやましい関係など何一つない。
だと言うのに、
「兄貴……!?」
「せんパイ……」
「「「永禮えぇぇぇ!」」」
後ろから浴びせられる手痛い呪詛。
ちくしょう。なんでこんなババアの言うことを信じるのだ。世の中間違ってる。
「うおーい。部活始めるぞーう」
聞き慣れた間延び声が届いてきた。顧問の大熊権佐だ。
部員達がぞろぞろと畳の中央に集まっていく。京平と勇樹もそれに続いて、
「ふふん。ちゅーわけでぇ、これからもちょくちょく大門にケンカ売られると思うけどぉ、───がんばれよ」
「く、クソババア。この借り、いつか必ず返してやるな……!」
親指を立てて他人事のように励ましてくる勇樹に、京平は拳を握りしめてふるふると震えた。
集まった部員たちに、権佐が本日の練習メニューを告げる。
「あー、今日もアップの後はスパーだー。大会も近いから怪我だけはしないようにー」
鳴北高校(めいほくこうこう)の空手部が強いのには理由がある。優良な経験者が入部してくるのもあるが、権佐と勇樹の方針で、練習は実戦に重きを置いているのだ。
いくら華麗な形(かた)を演舞できても、それに威力が伴わなければ試合では何の役にも立たない。さらに試合には、間合いの取り方、動きの読み方、胆力・気力・根性等々の様々な素養が必要とされてくる。
それらを会得するためにうってつけの練習が、つまるところ組み手なのだ。
メットやグローブなどの防具は付けると言っても、スパーリング中は決して手が抜かれることはない。
半分に分けられた部員は、三分間のスパーリングを順繰りに反復する。一周すれば気息奄々だ。そして短いインターバルを挿んでまた一周。ひたすらそれの繰り返しになる。
一般校の空手部は、一年生は筋トレや形練習ばかりで、サンドバッグさえまともに打たせてもらえないが、武道歴数十年の権佐教諭──こう見えても空手界の権威──が顧問に就いているおかげで、部員は自由に技を磨くことが出来る。
これは空手を極めようとしている者にとって、この上ない環境と言えるだろう。
「──ま。俺は空手で食ってく気なんかないから、あんまり関係ないけどな」
「あん? なんか言ったか、キョウヘー」
メットの位置を直しながら、勇樹が訊いてきた。
「いんや。……それよりババア、今日は俺が勝つぜ」
「やってみな、小童が」
京平は両拳を打ちあわせると、左半身を前にして構える。それを鏡に映したように、右半身後屈の構えを取る勇樹。
「がんばれー、兄貴ー!」
「楓呼ちゃん見てますよー!」
練習を見守る権佐のとなりで、楓呼たちが応援してくる。嬉しいが、ハズい。
「杏ちゃん、杏ちゃん」
「はい? なんですか楓呼ちゃん」
いつの間にか二人はちゃん付けで呼び合っている。女の友情はよく分からん。
「あの女の人、すごく強いよね」
「狐塚主将ッスか? そりゃそうですよ。主将ですもん」
「ううむ。ごもっとも」
───おいおい……。
京平は肩からずり落ちた胴着を直した。
主将云々は別として、確かに勇樹は強い。彼女が先代の主将を倒したのは運や手加減されていたからではない。まぎれもない実力だ。
事実、京平は彼女に一度も勝ったことがない。大口を叩いたが、本心では勝てる見込みがないことなど分かっている。
心情的にも有耶無耶が残ったままだ。体を動かしていれば忘れていられると思っていたが、甘い考えだった。力が格上の者と対峙することにより、あの時の情景がリアルに甦ってくる。
それは緋色の記憶。ひたいから流れてきたドロドロとした物が勇樹の姿を消して、代わりに濡羽色の髪をした少女を形作った。
返り血を拭いもしない彼女の周りには寸断された鬼の死体。自失する俺の足下には細切れになった肉片。塩辛い風が吹きつけて、鈍く光る刀が色味を増す。冷たい雨は降り続き───。
「───んパイ、右っ!」
京平は我に返った。反射的にかがめた頭のうえ数センチを鋭い順突きが通り過ぎていく。
暗くなっていた照明や雨音が耳目に戻ってくる。正面には血濡れた少女ではなくメットに隠れた勇樹の炯眼があった。
スパーリング中に忘我に陥るなんてことは初めてだ。どうかしてる。
「どうしたキョウヘー、トロいぞっ」
楽しげに弾むような活を入れて、勇樹はさらなる攻撃へ移ってきた。順突き・追い突き、その勢いを利用した回し蹴りの連技。
「くっ……!」
捌く。手の甲で順・追の拳を打ち落とし、上半身を逸らして蹴撃を躱す。
弧月を描くような鋭い蹴りが通り過ぎると、瞬時に京平は踏み込んだ。
女だからといって手加減すれば、それは勇樹に対する侮辱であり、格闘家にとって不快この上ない行為となる。
「(だから、全力でやる……!)」
京平はコンマ数秒、呼吸を止めた。その一刹那に左手左足へ均等に力を送る。玻璃の珠を指先でこするような摩擦音が、畳の上で爆ぜた。
昨日の対大門戦にも使われた技だ。俗に『纏絲(てんし)』と呼ばれる中国系拳法に通ずる高等発勁術である。
これは諸説で語られる『氣』が云々の眉唾物ではない。努力次第で誰にでも身につけられる歴とした力の伝動技術だ。
踏みしめた足から順序だてて動かされる関節は、脚から腰へ、腰から肩へと、関節を一つ通過するたびに速度を増し、なおかつそれに螺旋の“ひねり”を与えてやることで、面の破壊力は槍のごとき貫通性能を付与され一点へと集約されていく。
『纏絲』の名の由来通り、糸のように細く縒(よ)られた力を纏う拳は、ただの一撃で相手を行動不能にする───踵落としと並ぶ京平の得意技だ。
これは空手の技ではなく、京平が幼い頃通っていた道場で特別に師範代から伝授されたものだった。
ところがこの技、手順の複雑さからも判るように、どうしようもなく『出』が遅い。純粋な威力のみを追究している分、それを生み出す大仰なモーションの所為で初速が犠牲になっているのだ。
こんなものが初撃で当たるのは大門ぐらいのものである。そのうえ対する相手がこの主将だった場合、結果は火を見るよりも明らか。
案の定、胴着に触れた感触だけが拳に残り、勇樹の肢体が後方へと逃げる。纏絲の怖さを知っている彼女は、充分に余裕を持って後ろへ飛んだ。
が、
「(掛かった……!)」
それこそが京平の狙いだった。最初から当てるつもりのなかった攻撃に隙など生まれない。
京平は踏みしめたと見せかけた左足から軽やかに体重を移動させ、素早く身体の向きを反転させる。その加速を右腕に乗せて拳を鞭のようにしならせた。
裏拳を未だ宙にいる勇樹に向かって撃ち放つ。
手応えのある反動。空中でバランスを崩した勇樹が地面に墜落する───直前で彼女は身をひねり、猫の器用さで着地した。
「しッ!」
着地の痺れを感じさせない俊敏な摺足(すりあし)で、勇樹は一気に間合いをつめてくる。
迅い。だが、あまりに近すぎる。この至近距離では彼女も十分な打撃を放てないはず。それでも迷わず飛び込んできたのは、最初から打撃技で攻めるつもりが無いからだ。
「(狙いは関節か……!)」
勇樹は打撃だけでなく投と極にも長けている。油断していたら次の瞬間には肩の関節を抜かれていたなんてことはザラだ。
空手は基本的に打撃のみの格闘技だが、異種格闘技の大会にも出場することもある彼らは投げ技や関節技も同時に学んでいる者が多い。
ほとんどは『技をかけられた場合どうやって外すか』程度のものだが、勇樹はそれを“つかう”側としてモノにし、実戦レベルにまで昇華させているのだ。
「っ!」
京平は盗られかけた腕を慌てて引いた。同時に伸ばしてきた勇樹の手を捕らえようとするも、わずかな差で逃げられる。
そのまま咫尺(しせき)の間合いで両者の足は止まった。だが止まったのは足だけだ。都合四つの手は鋭い拍音を立てて入り乱れる。
手首を極(き)める隙さえあれば勝敗は決するのだ。一歩でも退がった方が負ける。
叩き落とし、打ち上げ、払い、掴み、捩り、外す。姿勢の平衡を崩そうとして、両者がそれに失敗する。
流れるような技の応酬。宙を飛び交う千手の動きが、もはや常人の動体視力では追いつけないほどになっている。
楓呼や杏の目には、二人が空手の形を示しあわせているようにしか映っていないだろう。
ハイレベルな闘いに、いつしか周りの部員も組み手を中断し、京平たちのスパーリングに魅入っていた。
「はっ。やるじゃあないかっ!」
京平の握撃を紙一重で躱(かわ)して、勇樹は賞賛してくる。それだけ余力があると言うことだ。
「(クソ、やっぱこいつ強い……!)」
余裕綽々の彼女とは対照に、京平は相手のスピードに着いていくのが精一杯という状態だ。
───実力が段違いなのは百も承知。それでも勝機は必ずどこかにあるはずだ。
京平はフェイントにフェイントを重ね、あえて隙を作ってやることで勇樹をふところに誘い込む。
五回目の誘いでやっと乗ってきた。こと格闘のことになると身持ちの堅い女だ。これでも上手くいった方だろう。
ふところに飛び込んできた勇樹が下腕めがけて手を伸ばしてくる。それは同時に京平の策が成功した瞬間だった。
だが、京平は舌を打った。
「(!? まずいっ……!)」
勇樹の足運びが想定していたよりも遙かに迅い。このままでは相手を倒すより先にこちらが関節を取られてしまう。
ピンチだ。が、逆にチャンスでもある。しかし───
「(できるのか、今の俺に……!?)」
刹那の狂いも許されないタイミング。京平はそれでも見極めてみせた。
勇樹が手首をつかんでくる瞬間、自ら腕をひねってそれを弾き、逆に彼女の手首をからめ取る。
極まった。このまま身体を引き込んで腕を持ち上げてやれば、完全に肘が極まる。所詮は男と女、腕力ではこっちに分があるに決まっている。
勝利を確信して力を込めた京平の視界が激しくブレた。眼球が意志とは関係なく反転する。
「「「な……!」」」
ギャラリーが唖然とする光景だけが京平の目に映った。
第三者からの視点ではこうだ。
京平が勇樹の関節を取ったと思った瞬間、密着していた勇樹の脚が高く伸び、そのまま後ろから京平の後頭部を射抜いていた。
単純な縦蹴りだ。密着していれば後頭部にあたるのが道理。しかしその単純な技に一撃必殺の破壊力を与えているのは、彼女の桁外れの瞬発力だ。
京平などは及びもつかない女性特有の柔軟性。一撃に乗せる体重の配分。そして相手の先の先、裏の裏までを読む眼力。
すべてに於て勇樹が上手だった。
「(今日も負けか……)」
ぐらりと視界が傾く。激しく揺さぶられた脳はまともに機能しやしない。一撃でK.O.されたのが癪に障る。楓呼にも格好悪いところを見せちまった。
───変えてやろう───。
こんなモンだ。鬼だの何だのと言われてもこの程度が俺の力。こんな俺が人に害を及ぼすはずもない。ちっぽけな人間だ。
───ならば変えてやろう───。
痛みの中にもある眠り。眩暈の先にもある安らぎ。膝が脱力して、沈む。それは惨憺たる敗北だった。みじめ。そう、俺はみじめだ。
───ならば変えてやろう。我が、この阿防羅刹鬼が───。
「……っ!?」
全身が揺さぶられるほどの低い鼓音。それが心臓の音だと理解したその直後、傾いていく視界が止まった。先刻までの虚脱感が一瞬で消えて失せる。
心拍数が極限まで落ちて、心筋の圧力が限界まで引き上げられる。
十秒に一回打つ脈が、全神経をたたき起こす。
「な……が……っ!?」
おぞましい何かが、意識の最も深奥なる場所からあがき出ようとしていた。
幾重にも閉ざされた檻匣(おりばこ)に封じられていたそいつは、力ずくでそれを破っていく。
内側から殴りつけられる檻は、度重なる衝撃で金属の悲鳴を上げ、そのたびに頑丈なはずの鉄壁に半球状の凸面が発生していく。
そしてついにそいつの腕が壁を突き破った。
鋼の鎧を纏ったような、鈍色に輝く右腕がひしゃげた穴から突き出ている。暗闇の向こうからこちらを覗くそいつの眼は、熾火ように紅く燃え猛っていた。
似たような眼を見たことがあった。血の滴る公園で、或いは遙か昔に。
───今はこれだけだ。知るがいい、甘美なる力の衝動を───。