第弐章/黒の南風、来る暗闇
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「くそ、朝から無駄な労力を使っちまった」
ぼやいて、京平は校門のところで止まった。
空気はまだ肌寒い。朝練をしている生徒もチラホラと言ったところだ。
もちろん京平は朝練に出る気など毛頭なかった。ならばなぜここで止まるのか。決まっている。彼女を───海神哀を待っている。
昨夜のことは、忘却するには強すぎた。五感すべてが覚えている。或いは六感までも。
日常を非日常へと変貌させた戦場跡。
漂う血の芳香と夜の冷気。
網膜に焼き付く紅。
ヘドロのように粘着く塩気。
無音の音。
そして彼女の殺意。
まさしく戦場跡だった。
眠れないまま朝をむかえて、嘔吐感をくすぶらせながらも公園を通った。
早朝のせいか、まだ誰もいない公園。一晩中降り続いた雨の後とは言え、肉の欠片も残っていないのが不可思議だった。
だが、それで少し確証に近づく。
あれらは人間じゃなかった────ならば、なんだ?
どんな物語にだって出てくる者共。知らぬ者はいない、けれど誰も見たことがない者共。
牙を生やし、角を生やし、浅黒く赤く青く汚れた肌を持った者共。
───鬼。
「馬鹿馬鹿しい……」
京平は愚考を振り払った。
自分の産まれた時代を見ろ。科学永劫。オカルトチックな小説・ドラマはもはや三流とされる時代だ。
そんな時代に、鬼だの妖怪だのと───
「ッッッ……!?」
黒い鳥群が飛び立った。木々がざわめいた。強烈な蟻走感が皮膚の上を這い回り、不可視の針が全身を刺突する。
この感覚には覚えがあった。半日前に感じたばかりだ。相手の距離までは分からない。だが見えるところにいる。
背後。校門より遙か後方。校舎よりさらに奥。体育館の影より殺気を届かせる少女が、そこにいた。
「………海神」
彼女は誘うかのように斜影の奥へと消え入る。
「ついてこい……か」
恐怖はなかった。場違いに好奇心が勝っている。
問い質したところで、事情を話してくれるとも思えないが───。
「ついていくしか、ねェんだろ?」
† † †
体育館の裏。湿った影の中で海神哀は待っていた。
青春を謳歌する学生なら、こういう場所で告白したりされたりもするのだろう。
しかし目の前にいるのは、路上で刀を振り回し、苦無で人を脅迫し、単独で人外共を鏖(みなごろし)にするような、イカれた女だ。
期待するだけ馬鹿げている。そんなことよりも、前のように斬りかかられないよう警戒せねば。
彼女は昨日と同じように、ショルダーバッグと竹刀───ではなく真剣───を収めた袋を持って、こちらを眺めている。
“見て”いるのではなく“眺めて”いる。顔や目、身体だけを捉えているのではない。永禮京平という存在自体を眺望している。
「たいしたもの……」
用心していた構えを解きほぐす清澄な声が、彼女の第一声だった。
「これだけ近付いてもまるで襤褸(ぼろ)を見せない……。あるのは幽かな匂いだけ……」
一歩。たった一歩だが、彼女はこちらに近付いてきた。
「でも、匂う……」
また一歩、近付いてくる。
「漂うように……、薫るように……、まるで斎沐の遺香のよう……」
もはやゼロ距離。呼吸すらかかる位置に彼女はいる。すでに哀は間合いの内だ───いや、正しくは哀の間合いの内だ。もし刀を抜かれたら勝ち目はない。
ここまで来てもまだ京平の筋繊維は、格闘家としての本能は、反応を示さなかった。
彼女の声があまりにも澄んで穏やかだったから。射るような眼光も、化物じみた殺気も、どこにも感じられなかったから。
だが、熱は───保健室で死んだように眠る彼女に出逢ったときの、うだるようなあの熱は、心臓を中心に拡がっていく。
それが理由だったのかも知れない。胸板に片手をかけて鼻をひくつかせる少女を振り払うことが出来なかったのは。
前をはだけた学ランの内で、シャツ一枚を隔てて触れる冷たい手がもどかしい。
「………観察した……」
「え……?」
「昨日の朝、あなたに遭ってから、丸一日あなたを観察した……」
暑い。これほど暑いのに、身体は発汗しようとしない。ただ熱だけがこもり続ける。
「………なんの、ために、だ?」
幾許かでも気を紛らわそうと、京平は彼女に聞き返した。聞き返したとは否。ただ苦しげにうめいただけだ。
「あなたの真意をはかるため。あなたのような存在はとても珍しい……」
彼女はこんなにも穏やかな声でしゃべることが出来たのか。それだけが意外だった。
あとは予想された未来であり、苛立ちだけが募る。
「人に害を加えるどころか、完璧なまでに共生している……」
胸板にかけていた手を離し、彼女は一歩下がった。
無意識に京平が遠ざけようとしていたことを、彼女は宣告しようとしているのだ。
───言わせては駄目だ。聞いては駄目だ。耳を塞げ。無視しろ。
京平は必死に自分へ命令する。
しかし無情にも、彼女の唇はその言葉を紡いでしまった。
「わたしは嘗てあなたのような“鬼”に遭ったことがない……」
熱が、上昇を、止めた。
───俺が、鬼……?
真っ黒い鴉が羽を散らしてけたたましく嗤った。その不吉なぎぎめきも、今は耳に入らない。
解らない。彼女の言っていることが、自分の状態が、すべてが、解らない。
いや、解りたくないのだ。否定して欲しい。誰でもいい。この女の言うことを否定してくれ。
「鬼にとって、人間とは食料であり玩弄物……。下等な動物とは共存する必要性がない」
「……………ちょっと、待てよ……」
かすれた声は届かなかったようだ。なおも彼女は続ける。
「人間は美味な餌。鬼の認識はその一点に尽きる……。だから、あなたもより多くの餌場を求めてこの学校に巣くっているのだと思っていた」
「………待てって……」
「いったい何が望み……? 人と生きてあなたに何の得が───」
「待てって言ってるだろうがっ!!」
朝練中の生徒が気づいたかも知れない。張り裂けんばかりの怒声に哀は口を閉ざした。
そう言えば、彼女がこんなにも話しているところは見たことがない。
彼女は彼女なりに興奮していたのかも知れない。初めて共存できる可能性をもった鬼を見つけたことに。
けれど混乱に頭を掻き乱された今の京平に、それを理解してやれる余裕はなかった。
「やめろ……。俺を決めつけるな。俺は、そんなワケの分からねえモンじゃねェっ……!」
息がひどく荒いだ。京平は震える拳を握りしめて、必死に恐怖を押し込める。
「それなら……あなたは、なに……?」
静かに、哀は訊ねてきた。
「俺は───」
決まってる。言えばいい。自信を持って言えばいい。
「俺は……。俺は、人間だ」
「───いーや、あんたは鬼だね」
否定されたのは京平の方だった。否定したのは哀ではなかった。
しゅると紐の解ける音。見れば長い布袋が口を開き、そこから顔を出した紺瑠璃の柄に彼女の白い手が添えられている。
最速で抜刀できるよう腰だめに佩刀(はいとう)したその姿は、居合などよりもより遙かに実戦的な構えをしていた。
「オイオーイ、“鬼遣”ともあろう御方が情けねェぜ。夜ならあんた死んでた」
くぐもった笑い声を上げるなにか。声は反響していてどこにいるか分からない。
「……。韋駄天か」
彼女がその名をつぶやくと、“声”は呆れたように、嘲るように、唄うように、嗤った。
「オレをあんなカミサマもどきと一緒にするなよ。より格調高く捷疾鬼(しょうしつき)と呼んでくれ」
「ここで闘る気か? 昼間は私に分があるぞ」
「ふふん。人目につくようなマネはするなと言われてるんでね。八局に目を付けられるのも困るしなぁ。モチロン、あんたのようなイレギュラーにもな」
「………ならば、何のようだ」
先程の物憂げな気配は消え、哀の口調は明らかに殺意を孕んでいる。鯉口を切られた刀は、一転瞬で周囲のものを斬り裂くだろう。
「ふふん。居場所を探っても無駄だよ。“見えない”ことがオレの専売特許だからな。………なぁに、今日は言伝(ことづて)を頼まれただけさァ」
「言って消えろ」
「素っ気ねえなぁ。そっちの坊やとはずいぶん親しげに話してたじゃないか。なあ坊主。なんで“そんな奴”と一緒にいるんだい? そいつはオレらの天敵だぜぇ───」
斬撃が草場を薙ぎ払った。
「───っとぉ、あっぶねェなオイ。……クク、これだからお前はおっかねェ」
おどけた調子の非難。居場所を見破られたことも、この鬼にとっては焦眉に感じる理由にすらならないようだ。
哀は何もないはずの虚空を睨みつけながら、刃のように告げる。
「失せろ。貴様の体臭は胸がむかつく」
「使人を無下にするなよ。お前の欲しい情報も手に入らないぜ?」
「戯れ事につきあう暇はない」
「一言だけさァ。たった三秒で終わる。きっとあんたも気に入るはずさァ」
「…………」
先をうながす哀の沈黙に、捷疾鬼は得意げに鼻を鳴らした。
「鬼遣よう。………オレたちァ見つけたぜ、大事な、大事な、“お姫様”をな」
「……っ……!? 貴様───」
「急ぎな。“そのとき”は近いぜ。いやホント」
ゲラゲラと笑う鎌鼬(かまいたち)が枯れ草を引き連れて去り───あとには静寂だけが残された。
† † †
ついにとどめを刺された。
ここまで見て、聞いて、感じれば、もう疑いようはない。疑うこともできない。
鬼の存在は確かで、彼女の言っていることもまた、真実だ。
海神は“鬼遣”という鬼を殺す人間で、捷疾鬼はその殺される対象である。そして俺もまた、彼女の獲物と言うことだ。
───押し潰されそうだ。俺は角など生えていない。歯も爪も、肌の色だって普通だ。どこまでも鬼とかけ離れている。産まれて十七年、人として生きてきたんだ。なのに彼女は俺のことを鬼と言う。
………あんまりだ。
「一つだけ……聞かせて……」
刀を納めて海神哀は訊いてきた。なぜかその声には憂えんだ不安が見え隠れしている。
「あなたは、阿防羅刹鬼(あぼうらせつき)を知っている……?」
「アボウラセツ? ……さっきの奴の仲間か?」
問い返すと、彼女の表情がふっと和らいだ───ような気がした。
「いいの。知らないのなら、いい……。あなたが静かに暮らすというのなら、私はあなたの敵にはならないから……」
「待てよ。俺はっ───」
海神はそれきり振り返ることはなく、音もなく校舎の奥へと消えていった。
熱が冷えていく。寒い。こごえる。歯の根が合わない。
彼女の存在。自分の存在。鬼の存在。
確かにあるもの。紛れもない事実。
それでも───、
「俺は……信じねェっ……! 俺は、人間だ……!」
吐き出した否定は弱々しく、非力なうめきにすぎなかった。
† † †
「───パイ。せんパイっ。せーんパイっ。せーんーパーイー、て、ばっ!」
どのくらい呆けていたのだろう。部活のマネージャー九円杏(くえんきょう)の呼び声で、京平は我に返った。
「あ」
「あ。じゃないッスよせんパイ。ずっと呼んでるのに」
「悪い……ぼっとしてた」
「らしくないですよぉ。格闘家たる者、いついかなる時も五体に気を張り巡らせておかないとぉ」
「………おう。そうだな。杏の言うとおりだ」
答えて、小さな頭に手を乗せる。
「えへへ。………じ、じゃなくてっ。教室で妹さん───楓呼さんが待ってましたよ?」
「ぬ……。どんな顔してた?」
「そうですねぇ。見たかぎりじゃ、たぶん怒ってました」
「どれくらい?」
「振り向きざまに真空飛び膝蹴りを見舞われるぐらいッス☆」
「………ありがとう、とても良い例えだ」
楓呼なら例えどころか本当にやりかねない。
「苦労が絶えないッスねぇ……」
「分かってくれるか、同志よ」
「いんえ。あたし妹いませんもん」
「………裏切り者め」
頭に乗せた手をワシャワシャしてやる。
「ああっ、ひどいッスよぉ、せんパイ」
髪を直しながら口をとがらせる杏に、じゃあなと告げ───まわれ右してまた戻る。
「なあ、杏」
「はい?」
「朝練はもう終わったのか?」
「はいっ、今日もせんパイは来てくれませんでしたっ」
杏のおでこに怒りマークが出ていることは無視して、
「まだ時間あるよな?」
「はい。 SHRが始まるまで、まだ二十分ぐらいあるッス」
「なら俺の教室こい。楓呼とあんまり話したことなかったろ?」
「あ、はい。そうッスねっ。そういうことなら、ご一緒します」
「よし、じゃあ行こう」
話が決まると、京平は杏を連れて急ぎ足で教室へ向かった。
さっきの鬼がまだいるかも知れないから、とは言えなかった。言えるはずなかった。
† † †
「やだ、あれ……なんであんなところで寝てるわけ……?」
「………ああ、三組の……。……関わり合いにならない方が良いよ……」
登校していく生徒たちの密めいた嘲笑を受けながら、実隆は蒼空を見上げていた。
涼やかな風は傷口に障ったが、やがては癒えてしまうだろう。もうこういった日常はやってこない事を思うと、それも名残惜しいものだった。
京平が去った後───息を切らして走ってきた楓呼が京平の行方を聞いてきたが、先に行ったことを告げると、あっさりと手を離して駆けていった。
楓呼の背を見送る途中、監視者の一人と目があったが、視線で『行け』と命じると、彼はそのまま任務に戻った。
彼女の護衛は現在四人一組(フォーマンセル)で行われている。実隆が申請していたのは中隊規模の護衛だったが、それは上には通らず、部下には危険を承知で任務を行わせている。
そして彼自身もまた、本来居るべき場所に戻る時が来た。学生ごっこはもう終わりにしなければならない。
「派手にやられましたね、一佐」
白衣を肩にかけた女性自衛官が実隆のそばでパンプスの靴音を奏でた。
「………これで最後なら上々でしょう。“彼女”も現れたことですし、我々もそろそろ本業に戻りませんとね」
苦笑しながら実隆は身を起こした。埃をはらって壊れた眼鏡を押し上げる。
ひび割れたレンズの奥には、先程までの少年の眼とはなにもかも違うものが収まっていた。冷酷と憐憫が合わさった、ある種の軍用犬のような。少なくとも、彼は京平らといる時にこんな眼をしたことはない。
女性自衛官が上官に報告事項を述べる。
「詳細は帰還次第、委員会の方から直接通達されますが、先だっての報告の通り、対象『甲・乙』の監視は今日付で無期限の底止(ていし)となりました。以降は委員会の用意した護衛が跡を引き継ぐことが決定されています。よって引き継ぎの際に本日までの観察保護ファイルを無修正で提出することが要請されていますが、ご指示通り修正済みの方を送っておきました。───以上です」
「……。ご苦労」
実隆が女性自衛官を労ったところで、黒塗りの車が彼らの前で止まった。実隆は当然のようにその車に乗り込む。
───自分はいつもこの車を見てきた。登校途中。幼い頃京平たちと遊んだ公園で。あるいはもっと昔、自分がこの街に派遣されたときから。
彼らには常に監視を置いてきた。自分がその計画の指揮を執っていた。
京平は知らなかっただろう。彼が毎日のように挑発を受けていたのは、彼の血に潜む凶暴性を確かめるためだったことに。
京平は気づきもしなかっただろう。彼が目の前の少年と関わっているとき、最低でも三人の狙撃手が彼の頭にねらいを定めていたことに。
───油断はしない。たとえ彼らが自分のことを友人だと思っていたとしても。
「……さて、と。行きますか」
新車の慣れない匂い。彼が感じたのはただそれだけだった。