第弐章/黒の南風、来る暗闇
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どしゃ降りの雨は押し流す。冷たく濡らして押し流す。綺麗なものも汚いものも、一緒くたに押し流す。
ごうごうと降りつのる雨のなか、どうやってマンションまで帰って来たのか。気がつけば、京平はずぶ濡れで扉の前に立っていた。
更けた深夜、玄関の小窓から見える灯りはまだ消えていない。鍵も掛かっていなかった。
楓呼はどうしているだろう。怒っているだろうか。それとも心配しているだろうか。
すまないと思う。孤独を誰よりも恐れる妹を長く一人にした。
だけど、今は会えない。どんな顔をしていいか分からない。楓呼に嘘をつくなんて出来ない。でも、なんと言って伝えたらいいかも分からない。
結局、楓呼に覚られないよう足音を消し、血の付いた靴を持ったまま京平は風呂場へ向かった。
† † †
熱いシャワーは、屋根を打つ雨音と重なって、肌の上で心地よくしぶく。人類の叡智が生み出した、浄水された人工の雨。それを浴び続けても、血の臭いが消えることはなかった。
身体に付着した血液はとうに落ちているのかも知れない。けれど鼻孔の奥に染みついた臭穢(しゅうえ)は決して離れない。脳髄を麻痺させて心をも蝕む。
そして、その起因となった人物。
「………海神、哀……」
恐怖した。生まれて初めて人というものに恐怖した。
真剣を突きつけられた。本物の殺意を浴びた。超常現象を見た。
違う。恐怖したのはそんなことじゃない。
あの状況で、彼女はなぜああも澄んでいられるのか。
錆色にかすむ霧海の奥。紅い沼に浮かぶのは死体でできた島々ばかり。そこにたたずみ、まるで無垢な幼子のように夜空を見上げる彼女は───血に塗りつぶされていた。
刃紋となって斑に拡がる血。頬に返り血。髪に返り血。服に返り血。
見れば分かる。あれをやったのは海神だ。
───人外を斬り殺す女子高生? まるで漫画だ。笑える。笑えねェよ。
「クソッたれ……」
最後に悪罵(あくば)して、京平は風呂から上がった。
窓枠を揺らす強い雨はまだ降り続いている。この雨が少しでもあの公園を洗い流してくれることを切に祈った。
バスタオルで頭を乾かしながら、京平はシャツにジャージという楽な格好でリビングに向かう。
「………問題は、楓呼になんて言って誤魔化すかだな」
かなり気が重い。妹はいったいどんな顔をするだろう。
不安を感じつつ、ドアを開けてまず目にはいるのがソファーとテレビ、ガラスの小さな机。つながってダイニング・キッチン。
「………ただいま。……楓呼?」
視界に妹の姿はなかった。自分の部屋にいるのだろうか。
「んぅ……ぅ……」
と、泣き声に近しい妹の声。
「あに、き……」
「楓呼……?!」
慌てて首をめぐらせる。
どこに……───いた。色素の薄い金髪がソファーの背凭(せもた)れから垂れている。後ろからのぞき込むと、楓呼は制服のままで寝息を立てていた。
座って待ち惚けているうちに寝入ってしまったのだろう。孤独を和らげるように、自らの身体をかき抱いて眠っている。
「………ごめんな」
涙痕の残るほほを拭ってやり、寝室まで運んでやることにする。ここじゃ風邪をひく。
「軽いな」
久しぶりにかかえた妹の体は羽のように軽かった。そのまま廊下へ出る。
住み慣れた家は灯りを点けなくても分かる。京平は廊下を抜けて、肩で戸を押し、楓呼の部屋へ入った。
そこそこ片づけられた部屋だ。自分の部屋と違って本棚が三つもあり、ぎっしりと辞書や参考書、問題集などが納められている。
楓呼の頭の良さが天性だけに頼ったものではない証拠だ。
「………ぅン」
そっと降ろしたつもりだったのだが、ベッドの上で楓呼は目を覚ました。
「………兄貴……?」
「あ、起こしちまったか?」
「……うん」
ショボショボとまぶたをこすって、楓呼は答えた。
「メシ、食うか?」
「……ん、いい」
「悪いな。遅くなって」
「ん〜。気にしてないよ……」
楓呼は気怠(けだる)げな声で答え、そのまま首に腕をからめてくる。
「おいおい……」
「おにーちゃんもぉ、一緒に寝よぅ?」
「アホか」
「………けーち」
甘ったるい声でぶーたれて、楓呼の腕が脱力する。
なんか年齢(とし)が逆行してないか? いったいどんな夢を見てるのやら……。
「ほら制服、シワになるぞ。着替えてから寝ろよ」
「……うー」
楓呼は上半身をへにゃりと起こすと、ゆるゆると右手を持ち上げてドアを指した。
「?」
「………服〜……脱ぐから〜……外ぉ出てて〜……」
「ああ」
合点はいったが、そんなに頭をゆらゆらさせていて大丈夫なのだろうか。
「ぬー、子供あつかいすんなー」
表情を読んだのか、怒った楓呼が枕を投げつけてくる。
「はいはい」
胸元に当たった枕を投げ返してやり、京平は部屋を出た。
後ろ手にそっとドアを閉じ───内心安堵していた。これで帰りが遅れた言い訳を考える時間が出来た。あと五時間はある。ゆっくりと考えよう。
………なにせ、今夜は眠れそうもない。