第一章/哀音悲風
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帰りのSHRが終わり、日直が気だるげに号令をかける。
「きりーつ、きをつけー、れーい」
「寄り道せずに帰るようにー。寄り道するぐらいならー、空手部へ来るといいー。空手はいいぞー。心・技・体があれほど鍛えられる武術は他にないんだー。そも空手とはー、琉球王国時代の沖縄で唐手と呼ばれた拳足による打撃技を───」
「さー、帰るぞ」
「サイサイ寄ってかね?」
「部活だりぃー……」
空手の蘊蓄を始めた大熊教諭は素敵に無視されて、生徒たちはどやどやと帰り支度を始めた。
つつがない学業の終わり。一日の大半を学校に束縛された生徒たちは、自由な時間にようやく羽根を伸ばすことができる。
それは平穏無事な一日だった。
それはそれは、平穏で、無事な、一日だった。
それが───
「おかしい。おかしすぎる」
あの女───海神哀(わだつみかな)だったか───は、最初の自己紹介で素っ気なく『……よろしく』といったきり一言もしゃべっていない。教室の隅に置かれた席に浅く腰掛け、真面目に授業を受け、休み時間は文庫本サイズの古書を読み耽っている。
最初は質問を浴びせていた生徒たちも、ようやく落ち着いたのか、はたまた彼女の素っ気なさ故なのか、昼休みを過ぎる頃にはほとんど誰も彼女に話しかけなくなっていた。
それにしても、この時期に転校生とはおかしなものだ。親の転勤かなにかだろうか。あんなアブナイ娘を育てるとは、親はなにをやっているのだ。
彼女の両親に憤懣しつつ、本題はそこではないことを思い出す。
そう、問題は、だ。
「何であいつは俺を襲わないんだ?」
「おや、京平殿は逆レイプ願望がお有りですグブへっ?!」
いつの間にかとなりで眼鏡を押し上げていた実隆をショートフックで悶絶させ、京平は視線を海神哀に戻す。
見られていることには気づいているはずだ。しかし反応しない。人気のないところに移ってから行動を起こすつもりだろうか。
「ならとりあえず学校にいる間は心配ないってことか……」
京平が安心したのも束の間、彼女はおもむろに席を立った。
「(───く、来るかっ……!)」
身構えたのは徒労に終わった。彼女は鞄を持って下校準備を始める。当たり前だ。もう放課後、部活に入っていない者は家に帰るのが筋だろう。
京平は海神哀を、ちょっとサイコな変人女と認識することにした。
彼女に………その……あれだ。間違いを起こそうとしたことは忘れることにした。なにせ今となっては嫌な思い出でしかない。
「そういや……」
しかし、京平はふと思う。
「………誰かにあんな気持ちになったの、初めてだ」
やや遅い思春期のおとずれに、京平はなにやら感慨にふけっていた。
† † †
放課後。部室で胴着に着替えて体育館に向かうと、部活はとっくに始まっていた。
永禮京平は空手部である。空手二段。子供の頃から道場に通っていたこともあり、そこそこ強い。大会での優勝経験もある。
「せんパイっ、遅いッスよ!」
ジャージ姿のマネージャーが駆け寄ってくる。体育会系のしゃべりだが、れっきとした、そして数少ない女だ。もちろん外見も女らしい。
姓は九円(くえん)。名は杏(きょう)。ショートカットの似合う小柄な少女だ。京平が自分と名前が似ていることもあって可愛がっている後輩である。
「はやくっ。スパー始まってますよっ」
「おー、わりー」
てきとうに謝って、半指のグローブとメットを受け取る。
「ファイトッス、せんパイっ!」
「スパーリングくらいでそんな気張んなよ」
体育館の中に入ると、運動部が活動しているとき特有の覇気と熱気が身体を包んだ。
「永禮えぇっ!」
と、そこへ、神経に障(さわ)るダミ声が聞こえてきた。
「またヤなのが来たよ……」
ある意味実隆よりもウザい人物。ダミ声の主は、同じく二年生で空手部の大門富右二(だいもんとうじ)だ。
彼はなにかと京平をライバル視し、ことあるごとに勝負を挑んでくるのだ。
「勝負じゃ永禮えぇぇっ!!」
京平は半眼で一言。
「いやだ」
熱い挑戦をすげない返事でスルーした。
「き、キサマ、挑まれた勝負を拒むというのかっ!?」
「ああ」
「お、男として恥ずかしくはないのか、恥ずかしくはっ!?」
「うん、全然」
「キサマが学校一の臆病者だと言いふらすぞっ?!」
「わー、怖ぇー、言いふらしてくれー」
「ぐぬぬぬぬぬ……!」
この手の熱血野郎は相手にしないのが一番だ。無視して杏と柔軟体操を始める。
「せんパイ、身体柔らかいッスねー」
「おう。亡きアンディのカカト落としを再現してやるぜ」
一通り身体をほぐした後は、アップのための筋トレ。時間がないのでロードワークはやめておく。
「永禮えぇぇぇぇぇ……」
大門がひっしと足下にすがりついてくる。ダミ声が涙声になると耳障りこの上ない。
「ったく、しつこいな。やらないっつってんだろーが」
「ぐぬぅ……」
冷めた目で見下ろし、試合をする気などさらさら無いことを明確に示してやる。そもそも顧問がいないところでの勝手な試合は禁止されているのだ。罰則は御免蒙りたい。
「さ、行こうぜ、杏」
「あ、はい。えーと、今日のせんパイのメニューは……」
すすり泣く大門を置いて、京平らは練習メニューを確認しにホワイトボードへ向かう。
「……………………………………焼きそばパン」
「っ?!」
その短いつぶやきに、京平の耳がぴくりと動いた。
───焼きそばパン。勝負をするなら焼きそばパン。焼きそばパンは大好物。
大門め、なんてカモな……いやいや、汚いヤツだ。俺の好物で釣ろうとは。
しかしここで乗ってはいけない。勝負も商売も駆け引きが肝心だ。
「それだけか?」
平静を装い、言ってみる。
「………く、クロワッサンもつけよう」
「もう一声」
「ぐうっ……か、カレーパンにコーヒー牛乳っ! これでどうじゃいっ!」
「よし、乗った」
† † †
畳を敷いた即席の試合場に、永禮京平と大門富右二が相対する。
観客は空手部他同じ体育館を使っている運動部でヒマな連中が何人か。
「勝負形式はフルコンタクト。頭部への攻撃あり。投げ・関節技あり。肘鉄や倒れた相手、急所への攻撃は禁止。時間制限無しの一本勝負です」
審判役を買って出た杏が、両隣の男たちにルールの確認をする。
「押忍」
「おうよぉっ!」
覇声で答え、両者は構えを取った。
京平は左半身を前にした───スタンダード、しかし一朝一夕では決して身に付かない───隙のない構えをつくる。
対して大門は正面に構えを取った。まるで柔道家のようだ。拳も完全に開いている。
こうして横から見ると二人の体格差がよく分かる、と杏は思った。
京平と大門の身長はそう大差ない。二人とも一八〇そこそこ。しかしその体重は三十s以上の隔たりがある。
岩のようにがっしりとした体格の大門に対し、京平は一見華奢なイメージさえ感じるほど細い。パワーよりもスピードとスタミナに重きを置いた鍛え方をしているのだ。彼はあの身長で軽量級に属している。
通常、階級の軽い人間が重量級に勝つのは相当に難しいとされている。単純な腕力やリーチ、視界の広さなど、どれをとっても不利に働くからだ。
だが、体格差の不利をいとも容易く無にしてしまうものがある。
それは『経験』。そしてそれによって生まれる『技術』だ。
経験や技術は天性の素質を以てしても補うことはできない、ありとあらゆる有利点を凌駕する凡庸にして最強の技能だ。
素人に毛が生えた程度の大門とでは、練習量からして違う。
杏は確信する。勝つのは我が敬愛する『せんパイ』だ。
「始めっ!」
杏の合図でスパーリング───という名の賭試合は開始した。
「うおっしゃぁぁぁぁっ!」
構える京平に、大門は一直線に突進してくる。その勢いのまま踏み込み、突いてきた。
技名は中段正拳突き。右手を突き出す際、左手を腰に据えるという基本中の基本の技だ。
「(フェイントか……?)」
京平は軽くそれを受け流す。そこへ今度は左の正拳が襲いかかってきた。
防御するや、右の正拳が追いかけてくる。続いて左が。また右。さらに左。速度はどんどん上がっていく。
京平は大門の意図に気付いた。
「(考えやがったな……!)」
動きの鈍さを乱打でカバー。このまま押し切る気だ。
じりじりと場外近くまで追いつめられていく。捌(さば)ききれなかった威力が負荷となって京平の足を後退させる。
大門はパワーだけなら部活一だ。なにせ元柔道部。一発一発が途轍もなく重い。
「この勝負いただいたあぁぁっ!!」
とどめとばかりに、右手を大きく引きつける大門。それが命取りとなった。
大振りの拳は空を切り、視界から京平の姿が消える。
一瞬の空白。そして衝撃。
「ぐおっ……!?」
大門がよじるようにして身を折ったとき、そこには、懐に踏み込んだ京平が左手左足を同時に出して脇腹に拳をえぐり込む姿があった。
全身の関節をフルに稼働して打ち出したその拳打は、大門の厚い脂肪と筋肉を貫き、内臓まで衝撃を浸透させる。
「しっ!」
京平はさらに踏み込み、膝裏を下段の後ろ回し蹴りで急襲。体勢がぐらついたところへ顔面に横蹴りを見舞う。
蹴撃の連撃に大門の巨体が大きく仰け反る。ガードをこじ開けた頭部に、京平は踵を高く振り上げ───アンディばりに蹴り降ろした。
すべての勢いを利用した連続技。最初に拳を打ち込んでから五秒と経っていない。
「まいどあり」
「ぐ、ぐぞ……」
昏倒した大門に一礼して京平はメットを外した。
「す───」
杏が息を吸い込んだ。
「凄いッス、せんパイっ!」
『一本』の宣告も忘れて小柄な少女が飛び上がる。子犬のようにはしゃぐ杏をあやしながら、京平は怪訝に答える。
「べつに珍しくもないだろ? 先週もやったばっかり……」
「この前はいきなりだまし討ちして終わらせちゃったじゃないですか。本気のせんパイ初めてみましたっ」
べつに本気でもなかったけどな。というのは伏せておいた。あんな大技がぽんぽんあたるのは大門ぐらいのものだ。他の部員が相手だったら簡単に捌かれていただろう。
ちなみに空手部には自分より強い奴はたくさんいる。確実なところでは三年の主将であったり、顧問の権座であったり。
───あの海神哀もそうだろう。得物を使った戦い方は素人のそれではなかった。
きっと、勝てない。
「───ってまたあいつのこと考えてるし……」
「え? 誰ですか?」
杏が無垢な瞳で覗き込んでくる。
「いんや、なんでもねーよ」
小さな頭にぼふっとメットをかぶせて、京平ははぐらかした。
その後、顧問の権佐教諭が遅れて登場。無断で試合をしたことが発覚してしまい、関係者一同空気椅子10分という地獄の折檻を受けたが(マネージャーは無罪放免)、あとはいつも通りの部活動だった。
† † †
蛇口の水を頭からかぶって熱を散らす。春とはいえハードなトレーニングをこなした身体は、練習が終わってからも熱く火照っていた。
「お疲れ様です、せんパイっ」
声と共に清潔なタオルが差し出される。
「おー、あんがとよ」
受け取って顔を拭く。洗剤の清潔な香りが練習で溜まった疲れを癒してくれるような気がした。
「せんパイ、もう八時ッスよ。早く帰らないと、妹さん待ってるんじゃないですか?」
「お、もうそんな時間か」
掃除や片づけはすんでいるから、あとは着替えて帰るだけだ。
「杏、お前どうする? 送っていこうか?」
「い、いいですよ。あたし電車だし、友達と帰りますから」
「そっか。じゃ、また明日な」
「はいっ。また明日ですっ」
『元気な奴だな』と頭に手を置いてやると、杏は妙に照れていた。変な奴だ。
着替えを終えて校門を出たところで、時計台を見やる。
「うお、マジにヤべえ。今日のメシ当番俺なんだよなー……」
確実に怒ってる方に五百円。賭けてくれる相手のいない賭けに勝手に賭けて、帰路についた。
† † †
月明かりは皎々と目に凍(し)みるが、その光が十全となるにはまだ青い。
いよいよ夜は淵源へと沈み、街の灯火はその明かりを徐々に落としていく。
白くかすんだ夜霧は音もなく街路に沈殿し、東風(あゆ)に押し流され、また沈殿する。まるでゆらめく細波(さざなみ)のように、白烟の海は人界を呑み込みつつあった。
街はおおむね静かだった。が、決して黙(しじま)ではなかった。
風に揺られた草葉がさわさわと音を立てる。木々の静やかな談笑もやがては東風に散じられ、翠のささめきは溶けるように夜空に掠れゆく。
───斬───
ささやかな翠たちの語らいは、遠方より鋭く飛来した異種なる音によって、東より吹く風もろともに、斬り裂かれた。
それは、金属が爆ぜて肉をえぐり骨を打ち砕く音。殺戮の音。この人群(ひとむら)の地では紛れもなく異種なる音だった。
だが、その異種なる音はどこまでも美しい。輝く命が紡ぎ出す刹那の玉音(ぎょくいん)、または果てる命が咲き遺す永遠の余韵(よいん)でもある。
血飛沫(ちしぶき)のように上がる悲鳴。強敵を前にして沸き起こる怒号。命乞いのすえの断末魔。
戦う者たちが奏でる狂歌は、強く、激しく、それでいて哀愁に充ちている。
高く笛が鳴り響くと、鼓が大きく拍子を打つ。琴の旋律に合わせて舞姫は舞い踊り、深紅の花弁をはらはらと夜空に振りまいていく。
連なり、交わり、やがては一つの流れへと流転していく。
それこそは戦場の雅曲。
戦場の雅曲に差違はない。どのような者であろうと、どのような場であろうと、どのような戦であろうと、結句は同じ音色を奏でている。
たとえそれが人ならざる者共の戦であっても。
† † †
夜の森に蠢くいくつもの影。いくつもの影。いくつもの影───。
影共はみな生臭い息吹を吐き、熾火のように燃える双眸を闇夜に浮かばせている。
厳粛なる儀式を執り行うかのごとく影共は左右に揺れ動き、儀式の心奥を目指す。
まるで書檠(しょけい)に焦がれる灯蛾(ひとりが)のように、自らを焼く紅焔におののき、それでもなお影共は蛾の愚かさをもって炎心へと集(うごな)わる。
───斬───
黒山のような情景の中、前触れなく影のひとつが真っ二つに分断された。
縦に分かたれ、鮮血を噴いて左右にくずおれる黒影。それに続いて五つの影が同様に後を追った。
障害物が減り、影共が何を囲んでいたのかが明らかになった。
人間、だった。それもまだ子供と呼べるほどの年嵩の少女。
少女の手には刀が握られていた。
血を吸い、緋色に濡れたその刃は、在来の日本刀とはあきらかに一線を画す意匠を放っていた。
振るう者を思いやらぬ、攻撃的なその形状。薄く、鋭く、重く、長く、ほどほどに鈍い。
少女はその難物を、自らの腕の延長かのごとく、いとも容易くあつかっている。
まるで全ての事象がそう動くべくして動かされているかのように、影共は淀みなく屠られ、散っていく。
それは完全なる虐殺だった。
そう、彼女こそが無数の影共が焦がれおののく炎。
† † †
斬り捨てた。
何匹目だったかも忘れた異形の怪物を袈裟懸けに真っ二つにする。
───あとどれだけいる? 解らない。関係ない。斬る。
存分に振るって存分に斬る。それが己に課せられた至上の使命。
夜闇が降りてすぐだった、この鬼ただ共が姿を現したのは。
すぐ近くに広い公園があったのは僥倖だった。
これで邪魔が入らずにすむ。公園の周囲に張った結界はまだ数時間は保つだろう。
並大抵の鬼でもこの結界を通過することは不可能───ましてや人間などが行き来できるはずもない。
「グガガアアアアアッ!」
黄土色に汚れた爪を振り回して襲い来る数体の鬼。言語も操れない、統制も取れていない、ただの雑魚だ。だが、“ただ”の人間には恐るべき驚異となる。
その鬼共を相手に疾風の殺陣を繰り広げる少女───海神哀。
人体の限界点とも言える速力をまったく落とそうともせず、真っ向から鬼共に向かっていく。
間合いに踏み込まれた鬼は反射的に爪を振るう。哀は体を捌いてそれを躱し、瞬時に鯉口を切った。
空振りに終わった鬼の爪をかいくぐり、抜き打ちざまに鳩尾へ深く突き刺す。そのまま刃を返して内蔵を抉り、斬り上げた。
見る者が観れば、その技は伯耆流抜刀術の奥居合『肆の太刀・戸脇』と推定することだろう。
鬼の腸が宙を飛び、赤茶けた血液が豪雨のように降りそそぐ。それが白い肌を穢すことになっても、彼女はいっこうに構おうとしない。
巨体から繰り出される鬼共の突進を、隙間を縫って乱れ斬る。命中れば即死の攻撃を躱し、刃を眼窩に突き立てる。
あらゆる制約から解き放たれた存在のごとく、彼女は空を舞い、地を駆け抜ける。
鬼の大敗は決していた。或いは鏖殺とも呼べる、狩られる側の人間が狩る異様な光景。
鬼を狩る人間。
それが彼女。
それが────“鬼遣”
† † †
人気のない道を、京平はランニング程度の速度で走っていた。
ロードワークを忘れていたから、丁度いい運動になる。坂道を下って、一本道をまっすぐ行って、商店街を抜けたら家はすぐそこだ。
しかし遅くなってしまった。家では妹が待っている。
こんな時、親が生きていればな、と思う。
両親───楓呼にとっては育ての親───を早くに亡くしてから、二人で家事を切り盛りしてきた。金の工面は保険やらなんやらで、なんとかやっている。
マンションを借りて二人が暮らしていけるくらいの金はある。俺は高校を出たら働かなきゃならんが、さいわいにして楓呼は頭がいい。奨学金でも取って、どこかいい大学に入ってくれるだろう。
けれど、両親が生きていればと思う本当の理由は、金銭や家事についてではない。
楓呼は孤独に弱い娘だ。自分もそうだが、あいつは重傷だ。一人でいることを常に恐れている。だから誰かがそばについててやらなきゃ───
「───っっ!!」
遠くより飛来してきた奇っ怪な音が、京平の耳を劈(つんざ)いた。
「……悲鳴?!」
いや、こんなものが人間の声であるはずがない。かつて聞いたことのない、何かの断末魔。
しかもそれは、自分がいま向かっている公園からだった。
幼い頃、楓呼と実隆とでよく遊んだ公園。そこを通るとかなり近道になるため、高校に入ってからは毎日使っていた───その公園から悲鳴があった。
普通に思考を巡らせれば、通り魔かなにかと思いつくにいたるだろう。
よって、取るべき選択肢は色々とある。
見て見ぬふりをする。警察に連絡する。近くの民家に助けを求める。
しかし京平は一番厄介な選択肢を選んでしまった。
自分で助けに行く、だ。
† † †
「……。冗談だろ……?」
本当に、冗談みたいな景色だった。
辺り一面にぶちまけられた大量の血液。気化して夜霧と混じり、凄絶な臭気を立ち昇らせている。
公園の木々から垂れ下がる内蔵。桃色の小腸は甘い蜜のように膿汁を滴らせ、熟れた果実を想起させた。
ライトアップされた噴水は吸水口に何かが詰まっているのか、咳き込むように赤黒い汚水を噴き上げ、剛毛の浮いた水面を叩く。
長椅子には細身の人影がもたれかかり、しきりにこちらへ手を振ってくる。よく見ればその人は身体の左半分が無くて、手もただ脊髄反射をくり返しているだけだった。
まるで地獄の処刑場にでも迷い込んだような、冗談みたいな景色。
赤と黒と錆びた空気。ここにはそれしか存在しない。
「ぐ……っ」
胃から食道へと駆けのぼってくる嘔吐感。京平はそれに抵抗する気力もなく膝を折った。
ぬかるんだ地面に手をつき、情けなくゲロをもどす。ほとんどが胃液の吐瀉物は公園に散った内蔵やら肉片やらにぶちまけられ、饐えたその光景が京平にさらなる吐き気を催わせた。
焼けつくほどに喉が熱い。胃酸でやられた食道は引きつるように猛烈な蠕動をくり返している。
「……ク、ソ……っ」
足下すらおぼつかない紅の情景で、身体が感じているのは苦痛、怯え、後悔。そして誰に向けることも出来ない理不尽な怒り。
ひとしきり胃の中身を吐き出すと、京平は何かに取り憑かれたように立ち上がり、紅蓮に染まった公園をのろのろと進んだ。
夜風に乾き始めた血は公園の砂と混じって膠(にかわ)のように固まり、歩くとまるで犬の糞でも踏んでいるような心地がした。
歩を進めるほどに、かつて生ある物だった残骸は増えていく。
「……んだよ……なんなんだよ……これ……」
死体の数はかぞえきれなかった。ほとんどが原形を留めていなかったせいもある。それでも、多すぎる。
「……人じゃねェ……」
人じゃない。人のはずがない。角を生やした人間などいるものか。全長が四メートルを超える人間などいるものか。
「ワケわかんねェよ……。どういうことだよ……。説明しろよ…………………………………………………………………………………海神っ!!」
ひとり血の泉にたたずむ少女に、京平は声帯が潰れるほどの声で叫んだ。
彼女は初めて出逢ったときのように、何も映さない瞳で茫洋と白亜の月を眺めている。
違うのは、片手に提げた斑模様の刀だけ。
「お前がやったのか……? なあ!」
声の震えがおさまらない。感情の昂りを抑えられない。
「そうなのかよ……? ───答えろっ!!」
彼女は視線だけをこちらに寄越し、無言で刀を持ち上げた。月光を浴びて妖しく耀よう刀尖が、音もなく向けられる。
直後、想像を絶する圧力が京平を襲った。
「………ヅっっ?!」
全身の肌が一瞬にして粟立つほどの威圧感。悪寒にも似た恐怖が今にも気を狂わさんと毛穴という毛穴を突き刺してくる。
殺意。これが本物の殺意。空手の試合などで見せる敵意や覇気の類ではない。はっきりとした殺すための意志。
死んだと思った。その鋭い切っ先はこのまま眉間をつらぬくのだろうと。その幻覚すら見えた。
だが、それは思い違いだった。殺意は一瞬で霧散する。
彼女は円を描くように血を振り祓い、鞘に納刀してから、訊ねてきた。
「なぜあなたがここにいる? それほど力のある鬼には思えないのに……」
「………何だと……?」
殺伐とした空間で、なぜか彼女の声だけは、場違いに澄んで穏やかだった。
「ああ、結界が解けたの……」
「おい!」
「あなたは本当に運がいい。私と出逢って三度も生き延びた鬼はそうはいない……」
「なに言ってんだよお前はっ! サイコかっ!?」
「さようなら」
緋色の旋風が巻き起こり、京平が顔を庇った刹那で彼女の姿を消していた。
青褪(あおざ)めた月が朧に翳(かげ)っていく。自らを照らす光も失い、このまま奈落にでも落ちていきそうな接地感の無さに立ちつくす。
ひとり血沼に取り残された京平は、力なくうめいた。
「…………なんなんだよ、これ……」
───足を踏み入れた気がした。
知らない世界へ。もう引き返せない世界へ。
幸せな生活は終わりを告げたのだと───
───この風と血の匂いが、そう囁いていた。
第弐章 【黒の南風、来る暗闇】へ続く───