第一章/哀音悲風


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 わずらわしいほどの大音で、スピーカーが合成された鈴音をがならせている。

 会話を邪魔するそのチャイムが鳴り終わるのを待って、京平は言葉をしめくくった。

「───ってなことがさっきあったわけだ」

「なんと、そのようなことが……!」

「そーなんだよ。ったく、親切心でケガさせられたんじゃ、たまったもんじゃねーよな」

 京平はことのあらましを実隆に説明していた。勿論、朝の暴力少女の話だ。

 机に頬杖をついてぼやく。が、ぼやく相手を間違えていた。

「う、羨ましい……!」

「はい?」

 実隆は汗びっしりのアゴを手の甲でぬぐうと、息を荒げて顔を近づけてきた。

「それはあまりに羨ましいと言うものですぞぉ、京平殿ぉ……」

「だからなにがだよ? ………つーか寄るな。暑苦しい」

「体温など問題ではありません! わたくしが羨ましいと言っているのは京平殿のその嬉し恥ずかしラブコメ体質です! 毎朝あんなに可愛らしい妹殿に突き飛ばされているだけでは飽きたらず、今度はミステリアスな転校生を毒牙にかけようと言うのですか?! ええ?! いったいどんなプレイを楽しむつもりなのですか?! 言ってみなさいっ! と言うか教えてくださいっ!!!」

 鼻息荒く詰め寄ってくる実隆の顔をつかんで押しのけ、

「知るか。俺は好きで突き飛ばされてるわけじゃねェし、あの女をどうこうするつもりもねェ。だいいち女に殴られてなにが嬉しいってんだよ?」

「ば、馬鹿なぁっ!?」

 ずざぁっと後ずさって、実隆は仰天した。

「京平殿は女性に殴られても嬉しくないと言うのですかっ!?」

「……あたりまえだろが。この異常性癖が」

「い、異常性癖?! 否、断じて否ですぞ!! 異常なのはこの世の中です! 美女に撲(ぶ)たれ、美女になじられ、美女に跨られる以上の悦びがこの世のどこに存在すると言うのですか!? いいや、そんなものあるわけがない! むしろあってはならないのです!!」

「………………………………………………人としてどうかと思うぞ、それ」

「ああっ、妬ましいっ! わたくしがその場にいれば、代わりにその愉悦を甘受したというのにぃぃっ! 部屋も小道具も自前で用意したというのにぃぃぃっ!!」

 実隆はハンケチーフを前歯に挟んで『きぃぃぃぃぃぃぃっ!』と奇声を上げた。

「聞いちゃいねェ……」

 げんなりとうめく京平をよそに、彼は床にひざまずいて天井に訴えかけ始めた。

「ああ、神よっ! 愛憎の暗黒神バモーイよっ! いったい私のなにが至らぬというのですか?! 足りないのは信仰ですか、それとも生贄ですか?! 貴方は何故にこのような試練ばかりをお与えになるのでしょう?! わたくしは痛い試練は大好きですが、おあずけ的な試練はまっぴらご免なのです! さらに言えばわたくしはマゾッホ信者であっても断じて衆道主義者などではありません! ムサ苦しい男よりは美しい女性に撲たれたいのです! なのに、なのに貴方はかくもつらい試練ばかりをお与えなさる! 甘美な鞭ピシピシを望むわたくしは間違っているのですか?! これからも粗野な拳で打たれるだけのマスタベーション的質素&平凡人生を歩めと言うのですか?! たった一度でも真の愉楽悦楽を噛みしめたいと思う若い暗黒パワーのディスプリネリアン・マゾヒズムは貴方にとってやはり背徳行為に他ならないのですかぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

「………あーあー、わかったわかった。泣くな。祈るな。席に戻れ」

 悲涙の雨をしたじきで避けながら、京平はなげやりに返した。

「き、京平殿っ?! よもやわたくしを鬱陶しいと思われですかっ?!」

「思ってない思ってない思ってないからさっさと戻れ」

「『うぜェんだよ、この電波野郎』と顔に書いてありますぞ! 学園モノのお約束と言わざるを得ない幼なじみである私をいったいなんだと思って───」

 京平の右拳がうなりをあげた。

「うぜェんだよ、この電波野郎」

「………は、はひ、申し訳ありませんでした」

「戻れ、席に」

「か、畏まりました、で、ございます……ガフっ……」

 頭を殴られたのに、なぜか吐血する実隆を見送り、

「朝から変態の相手は疲れるな……」

 いきなり授業を受ける気力が無くなった。

「………サボろ」

 こんな時は保健室に行って休むのが一番だ。夕紀先生に茶でももらおう。

「どこの世にも社会の道から外れる愚者はいるものです。例えばほんの少し冗談が過ぎただけの親友にいわれのない暴力をふるったり、試験前だというのに授業を逐電したり、あまつさえ病気でもないのに保健室に入り浸る。このような輩はダメ人間のクズ野郎と言わざるを得ないでしょう。あえて形容するならば、酔っぱらいの嘔吐物しかり。ドブ泥を泳ぐ棒振しかり。肥溜めに集る糞蠅しかり。鳴北高校二年三組一二番永禮京平しかり───」

「しつこいっ!」

 高速で飛来してきた椅子により、実隆は完全に沈黙した。




       †  †  †




「夕紀センセー、いるー?」

「いるわよー」

 読みかけの書類を膝の上に伏せて、美作夕紀は顔を上げた。

「飽きもせず、毎日サボりに来るねえ、キミは」

「俺にはセンセーと過ごす時間の方が大切なのサ」

「あら嬉しいv そんなキザなボウヤはニッガイ珈琲がよろしいかしら?」

「……紅茶にしてください。…………砂糖は二個で」

 夕紀先生はからからと笑って、戸棚から四角いアルミ缶を出した。

 カップに注がれた湯にリプトンのティーバッグが静かに沈むと、琥珀色の芳香が部屋に薫(かお)った。

「これ飲んだら教室に戻るのよ」

「うい」

 差し出されたカップを手にとって口を付ける。美味い。インスタントでも人に入れてもらったお茶は美味いものだ。

 ふと目線をあげると、夕紀先生が白衣を椅子にかけて身支度をしていた。

「じゃ、先生は用事があるから。あとヨロシクね」

「え? どっか行くの?」

「当ったり前でしょ。お仕事はいっぱいあるのよ」

「ずっとここで茶ァ飲んでるだけかと思った」

「あのねぇ……。ま、いいわ。ベッドに先客がいるから起こさないであげてね」

「ん? ………あー、“眠り姫”?」

「そ。可愛いからって襲っちゃダメよ」

「しませんよ」

「不純異性交遊はちゃんとした知識を身につけてからじゃないと子供が出来ちゃって大変よ。それでなくったって未成年姦通は罪が重いんだから───」

「し・ま・せ・ん!」

「おほほほほ、じゃ〜ね〜、バァイ」

 静かにしろと言ったくせに、自分の方こそかしましく夕紀先生は去っていった。

「ったく……」

 あの人はどうにも話題を下品な方向へ向ける悪癖があるようだ。ああいう明け透けな性格が魅力なのだろうが、生徒の相談相手となる保健の先生がアレで良いのだろうか。

 ───と、紅茶がもう無くなっている。保健室に来てから一〇分ほど。帰るにはまだ早い。一眠りしていこう。

 夕紀先生は先客がいると言っていた。その先客を京平は知っている。

 先客の名は神和詠璃(かんなぎえいり)。

 その顔立ちは清楚。しかし幼げな容貌は美少女というより美幼女。一四〇センチに満たない矮躯から小学生と間違えられること多々あり。得意教科は国語。苦手な教科は数学。一日の70%を眠ることに費やすという並外れた睡眠欲から“眠り姫”の異名をとる。

 とりたてて接点があるわけでもないのだが、なぜか京平は彼女と面識があった。彼女自身が学校で珍獣扱いされているのもあるし、妹と同じクラスなのも理由の一つだ。

 兎にも角にも、寝ているのならば無理に顔をあわすこともないだろう。とりあえずカーテンに近付くことにする。

 ベッドは二つ。寝息の聞こえない方が空いているベッドだ。

 まずは右のカーテン。

「………ふむ」

 物音はなし。なにも聞こえてこない。

 次に左のカーテン。

「……………………すぅ…………すぅ…………」

 間隔の長い小さな寝息が聞こえてくる。左側が詠璃のベッドだ。

「じゃあ、俺はこっちで寝させてもらうかな」

 となりで寝ている『眠り姫』こと神和詠璃を起こさないようにと、反対側のカーテンをそっと開けて、京平は清潔なベッドに手をかけた。

 そして、気づいた。

 殺菌された空気。冷たいシーツ。そこに幽(かす)かに感じられるぬくもり。



 まるで死んでいるみたいだった。



 浅すぎる呼吸。低すぎる体温。白すぎる肌。しかし唇は色を失わない。

 忘れるはずもない。今朝出逢ったばかりの少女だった。

 ベッドに置いた手がさらりとした髪に触れるまで、まったくその存在に気づかなかった。

 それほどまでに、彼女は虚ろで、危うい。

 今朝の憎悪で狂った表情が嘘のように、少女はおだやかに眠っている。

 カーテンがそよぎ、陽光が柔らかく揺れる。彩なき風は静やかに彼女を祝福した。

 ───美しいと思った。今まで出逢ったどんな女性よりも。

「っ……?!」

 おかしい、動悸が速まっている。暑くもないのに汗が。体中の毛が逆立つ。枕元にかけた手が動かせない。

 無意識のうちに京平は空唾を飲んでいた。

 彼女の顔から目をそらせない。自分の中でなにかが揺らぐ。傾いて、蜜が零れるように、吸い込まれる。

 ───なにやってる。

触れたい───

 ───やめろ。

寝てる───

 ───これは犯罪だ。

綺麗だ───

 ───とまれ。

とまらない───


 葛藤など無意味だ。それほどまでに彼女は美しく、妖艶だった。

 白色の寝台が軋む。体重を少しずつ貧弱な寝床に預けていく。低い体温が感じられるほどにつややかな唇が近付いて───それはからくも触れる直前で止められた。

 原因は、喉元にくいこむ一点の鋭さ。

 今朝持っていた木刀───見間違いでなければ日本刀───とは違う。もっと短く肉厚だ。

 時代劇の忍者が使うような小刀。縄を巻きつけた柄は太く、両刃の刀身は鉄板でも打ち抜きそうだ。投擲にも充分耐えうるこの短剣の名は、たしか苦無(クナイ)。

 それが喉に突きつけられている。

「……動くな」

 少女の双眼が開かれていた。表情こそ冷淡だが、あの射抜かれるような憎悪の光はまるで消えていない。

 苦無を突きつけたまま、少女はゆっくりと半身を起こした。

 そのまま京平を居竦ませること数分───実際には数秒。

「…………ぅぅん」

「………っ!」

 となりから聞こえてきたムズがるような寝言に、少女は虎豹の鋭敏さで反応した。

 透視でもしているのかと思われるほど、注意深くカーテンを睨み、彼女は表情を曇らせた───ように見えた。

「……命拾いしたな」

 静かな声音(こわね)で告げて、少女はベッドから降りた。

 依然、鉄の小刀は首の皮一枚を隔てて止まったままだ。切っ先はそれより退くことも進むこともない。震えることなど有り得ない。

 気配の余韻すら残さずに、少女は純白のカーテンに身を沈ませていった。

 それから暫く経ってからだ、気づいたのは。

 喉元の刃がもう無いことに、気づいたのは。

 のたうつ熱が冷めたことに、気づいたのは。




       †  †  †




「なんだってんだ、あの女」

 渡り廊下を歩いて教室へ向かう間、京平はずっと考えていた。

 日本刀に苦無。あんなモノ漫画でしか見たことない。血こそ出なかったが、刃先の感覚はまだ首に残っている。

 新手の異常者か? アブなすぎる。

「……いや」

 ───そうじゃない。よくはわからないが、あの眼は俺に憎悪を抱いていた。

 嫌悪と怒りが同居した、怯えと悦びの延長線上にある感情。そいつはただの憎悪じゃない。殺人衝動にさえ取って代われるほどの危険な感情だ。

 あの女はそれだけのものを俺に抱いている。

「……てーことは、だ」

 京平は足を止めて、思案していた手を顎から離し、深く溜息をついた。

「俺が何かしたってことか?」




       †  †  †




「なにをしたのですか京平殿」

「なんかヤラシーことしたの?」

 喧噪かしましいSHR(ショートホームルーム)前の休み時間。保健室を出たあと結局授業どころか朝礼すらサボることができず、仕方なく教室に戻って来てみれば、実隆と楓呼が机で待っていた。

 やはりつきあいが長いせいか、いつもと様子が違うことに感づいたらしい。二人が重ねる質問のしつこさに、仕方なく先刻のことを話してみたらこの始末だ。

 無論全てを話したわけではない。『朝の少女にまた襲われた』程度のことだ。当然、“あのこと”は伏せている。

 が、そうだとしても、

「……やっぱ話すんじゃなかった」

 机にうつ伏せた上体を背けると、楓呼がしつこく食い下がってくる。

「ねーねー、兄貴ぃ、いったい何やらかしたのさー?」

「ほっといてくれー……」

 答えて逆側へ寝返りをうつ。

「ねーってば、教えてよぅ」

「楓呼さん」

 逆側へ行こうとする楓呼を、実隆がたしなめた。

 瞑目して首を振る。

「そっとしておいてあげましょう。人には言いたくないことがあるものです」

 ナイスだ実隆。たまにはいいことを言ってくれる。

「よもや性欲のはけ口に女性の寝込みを襲ったなどとは、口が裂けても言えませんでしょうからな」

「………ぶはっ?!」

 だが、あながち外れていないのが恐ろしい。

「お、おま、なに言って───」

「しかしあれですな。女性がそれほどの恨みを持つとなると……」

 実隆はしばし黙考し、突如その頭に裸電球が召喚される。彼は握り拳でぽんと手の平を叩いた。

「京平殿は過去に行きずりの女性をダマしてコマしてカネ取った、などという経歴があるのではないのですか」

「あるわけねェだろうがっ。どこの犯罪者だそれは!」

「では、借金のかたに連れてこられた女性を地下牢に監禁して陵辱の限りを尽くした経験が?」

「……ねえよ」

「では、悪魔召喚のためと称して幼気な少女たちを集め、酒池肉林を味わったことが?」

「……ねえ」

「では、ある日とつぜん毒電波放出能力に目覚め、生徒たちを操って学園をハーレムに変えてしまった事実が?」

「……ねえ」

「では、どこかの研究機関が無料でくれた美少女型アンドロイドにあんな事やこんな事をご奉仕してもらったり、そこへライバル会社のアンドロイドが送り込まれてきて、二人のアンドロイドと幼なじみや同級生や義理の姉妹や保険の先生や前フリなく現れた魔法少女との間に板挟みになるという美少女ゲーム的過去がっ……!」

「……だから、ねえ。………つーか、なに鼻息荒くしてんだよオマエは」

「ハァハァ、京平殿にそのようなバイオレンスかつエロティックな過去があったなんて……。わたくしは………ああっ、わたくしは───」

 暑苦しい妄想をほとばしらせ、何かを揉みしだくようにワキワキと指を動かす実隆。

 京平は椅子ごと半歩退いて、隣にいる楓呼に耳打ちした。

「………なあ、こいつって時々マジでヤバいよな」

 楓呼は天使の微笑みで答える。

「時々じゃなくて、オックンはいつでもイっちゃってるよ。そろそろ警察に捕まりそうだし、黄色い救急車とか呼んであげたほうがいいよね?」

「………お前な」

「んえ? なに?」

 無邪気に疑問符を浮かべる楓呼。

「………いや、いい。俺が悪かった」

「? 変だね、兄貴」

 変なのはお前らだ。京平は心底そう思った。

「そんなっ! 京平殿がデブ専の足の爪垢フェチだったなんて! わたくしの趣味とピッタリ!」

「お前も黙れ」

 実隆の頭にゲンコツを落としたところで、本鈴が休み時間の終わりを知らせた。

「ぅおーい、そろそろ席着けー」

 引き戸を支えるローラーが転がる音と共に、体格のいい男性教諭が入ってきた。

 教諭の名は大熊権佐(おおくまごんざ)。二年三組の担任であり、また京平が所属する空手部の顧問でもある空手歴三十年の猛者(もさ)である。

「わわ、やばっ。じゃ、帰るね、兄貴オックン」

「おー、急げよ」

 悪ふざけもそこそこに、楓呼が権佐の脇をすり抜けていく。

「兄貴オックンではなく、オックン兄貴と言ってくださればまた意味も違ってくるでしょうに………ああ、まっこと口惜しい」

「いや、いいから、お前はもう喋るな」

 実隆を拳で黙らせ、超特急で廊下を駆ける楓呼を見送る。楓呼は途中で誰かとすれちがって軽い会釈を交わしたようだったが、特に気にならなかった。

「あー、今日のHRはー、男子諸君にー、嬉しい知らせがー、あるー」

 格闘技をやっているとは思えない間延びした声で、権佐教諭は朝の伝達事項を述べた。

「嬉しいお知らせ? 何だそりゃ」

「うむむ、これは女子(おなご)のスメルを感じますな」

 すると権佐が答えた。

「その通りだ奥山ー。女子の転校生だー。しかも美人だー」

「「「………………………………………………………………………………」」」

 教室が静まりかえる。いくばくかの沈黙。そして、

「う」

 一人の男子生徒が立ち上がった。

「うお」

 二人目が立ち上がる。そして三人目。四人目。五人目───。

「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」

 男子生徒総立ち。拍手喝采で歓声をあげる。

 それもそのはず、この学校、女子生徒の数が非常に少ない。全校生徒の三割といったところだ。全員が首尾良くくっついたところで、四割の男は確実にあぶれるのだ。

 今の彼らは目の前に子羊を吊された狼と言ってもいい。

「ではー、転校生ー。入ー場ー」

「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」」」

 興奮の雄叫びのなか、引き戸が静かに開けられる。

 濡羽色の髪を靡かせた少女がそこをくぐると、それだけで安物の引き戸は荘厳の門へと昇華した(男子ビジョン)。

「「「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ………………………………」」」

 喝采が静まっていく。美しくも凍てつくような少女の容貌に、生徒たちは息を呑み、教室は水を打ったように静かになった。

 静寂の中、少女は足音も鳴らさずに権佐教諭の待つ壇上へ。それから白いチョークで自らの名を綴った。



 ──海神哀──。



「なんて読むのかしら?」

「『かいじんあい』じゃないかな」

 静まりかえった教室でその私語を聞きとがめた少女は、黒板の文字にさりげなく振り仮名をあてた。



 ──海神哀(わだつみかな)──。



「いい名前だ!」

「あなたにこそふさわしい!」

「是非ともわたくしの女王様に!」

 男共が少女に殺到する。冷ややかな半眼を向ける女子生徒たちなどなんのその。男共は飢えた狼の本領を発揮し喧々囂々と海神哀に群がった。

「ご趣味はなんですか?!」

「お好きな食べ物はなんですか?!」

「お好きなプレイはなんデスカっ?! Sなんデスカっ?! Mなんデスカっ?! わたくしはもちろんMデスヨ! さあこれで撲(ぶ)ってっ!」

 津波のように押し寄せる生徒たちが、

「はっはっはっはっは、おとなしく席につかんかー」

 笑顔の権佐教諭になぎ倒された。

 悲鳴。怒号。一方的な笑声。

 喧噪慌ただしい中、あっけに取られている男がひとりだけいた。

 永禮京平。彼だけが転校生に群がることなく呆然としていた。

 なぜなら、

「あの女だ」

 からだ。







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