第一章/哀音悲風
2
うららかな春。彼は桜舞い散る並木道を歩いていた。
襟元を弛めた学ランを抜ける風が心地よい。
晴れた朝。まばゆい日射しに目を細めて見上げれば、蒼穹にとけこんだ白雲がやわらかい気流に運ばれている。
高校生になって二度目の春の訪れに、なにか期待めいた予感──たとえばそれは恋や友情などの青臭いものだったり──を感じながら、彼は桜の花道を心地よく歩いていた。
「あーにきー!」
後ろから軽やかな呼び声がかかる。
「……楓呼か」
自分を歓呼(かんこ)する少女の声に彼は足を止めた。慣れ親しんだ妹の声はこの陽気にふさわしく、春風のように甘い音色をしている。
彼は桜の色彩を目に焼き付け、妹の姿を収めようと振り返った。
そして───、
ぶっ飛ばされた。
正確には後ろから背中を突き飛ばされただけなのだが、助走を上乗せした両手打(もろてう)ちは存外に威力があったらしい。
転んだ顔面を支点に、ずざざーと路面を滑っていく。
舞い上がった土煙が清々しい春風に押し流された頃、彼は反り返る一体のシャチホコと化していた。
「おはよっ、兄貴」
硬直が解け、くたりと地面にひれ伏した彼に、少女はあらためて挨拶した。
「置いてかないでよ。学校いっしょ行こ?」
後ろ手に鞄を持って、轟沈した彼に微笑みかける。
少女の名は永禮楓呼(ながれふうこ)。
年齢15歳。身長160.2p。体重は不明【追って報告】。スリーサイズは上から84・56・82。流れるような金髪と深いグリーンの瞳は自前のものだ。その容貌を見れば、誰もが彼女を美少女と褒め称えることだろう。
一方、彼女の足下では、その汚い尻を蒼空に向けた男が失神しているわけだが、恐ろしいことに彼は楓呼の一つ離れの兄だったりする。
彼の名は永禮京平(ながれきょうへい)。
この男、隙あらば授業を遁走しようとする問題児であり、その性格は短気にして凶暴。低い知能は屋上への亡命方法の考案以外には使用されない。語るまでもなく学園随一の劣等生だ。おまけに目つきは悪いわ顔色は悪いわと、人に推して奨めるところを探すのが一苦労なほどである。
その兄に対して我らが楓呼嬢ときたら、もう。
屈託のない笑顔はその純粋無垢な内面の現れ。太陽の下で育った肌理細かい肌はまさに健康美。学問においては難関校の入学試験を成績トップで合格。
性格・美貌・学力、天から二物も三物も与えられた我が校始まって以来の才媛である。
かたや救いようのない劣等生に、かたや誰もがうらやむ優等生。一切の共通点が見られないこの兄妹だが、それには大いに納得できる理由がある。
この二人、血の繋がった兄妹ではないのだ。
すなわち、義理の兄妹ということになる。
義理。義理である。全国推定五千万人が黒い欲望を滾らせずにはいられない言葉だ。
嗚呼、わたくしも義理欲しい。
「………オックンも、ブツブツわけ分かんないこと言ってないで、早く出ておいでよ」
楓呼は困ったように腰に手を当てて、街路樹と並ぶ垣根に声をかけた。
すると、ガサガサと茂みが揺れて、
「おや、バレておりましたか」
朗々とした青年の声が返ってきた。
「そりゃ、あれだけ解説してくれればねー」
「これは失策、以後気を付けましょう」
「その前にぃ、普通に挨拶しよーよ」
「はいはい」
垣根の下からメガネをかけた少年が這い出てくる。
ずりずりと匍匐前進する彼の右手にはゴツい双眼鏡。それを使ってずっと二人を観察していたのだろう。
挙動不審な彼の名は奥山実隆(おくやまみのる)。京平の同級生であり、永禮兄妹の幼い頃からの友人である。
「ハオ、オックン」
「ブエノスディアス、楓呼さん。今日もまたパワフルアンドビューチフルですな」
頭や制服のあちこちに葉っぱをくっつけたまま、実隆は銀縁のメガネを『くいくい』と押し上げた。
「ありがとー。あ、でもぉ、スリーサイズの出所は後でしっかり吐いてもらうからねv」
「はっはっは、これは手厳しい。では体重関係の情報と交換というのはいかがでしょう?」
「ぶっ飛ばすぞ、この野郎」
「ほう! それはなかなかに魅力的なお誘いですな!」
「……………お、おまえら……」
そこでようやく京平が身を起こした。舗装道路をヘッドスライディングしただけあって、顔面はみごとに流血惨事だ。
「おまえらっ! 世間話する前に『突き飛ばしてゴメンナサイ』ぐらい言えんのかっ!?」
「えー?」
「はっはっは。誰がムサくるしい男の心配などしますか。たとえ千人の友人(男)が瀕死で助けを求めようとも、迷うことなく通りすがりの女性を午後ティーに誘う。それが脳内フランス人たるわたくしの誇り!」
「そうそう、わたしもそれ。外見フランス人」
「黙れ、このエセ外国人共!」
京平は肩を怒らせて恨めしげに吐き捨てた。
「毎日毎日飽きもせず俺を突き飛ばしやがって……!!」
「毎日毎日飽きもせず突き飛ばされてるのに、避けられない兄貴が悪いんだよね?」
「その通りです。毎日毎日飽きもせずわたくしの仕掛けたトラップに引っかかる京平殿が悪いのです。わたくしたちに非はありません」
「テメェが諸悪の根元だろうがっ!!」
いけしゃあしゃあと言ってのける実隆に、京平は憤怒の形相でつかみかかった。
「お前が俺の邪魔をしなきゃ、そうそう突き飛ばされずに済んでるんだよ!」
京平は右足に噛みついていた鉄の歯を乱暴に外し、実隆の前へ叩きつけた。
その鉄歯の正体は虎鋏(トラバサミ)と呼ばれる猟師が使う罠だが、彼がどこからこんなものを入手したのかは不明である。
「はは。むしろこの程度のトラップも回避できない京平殿に問題アリと思いますがね」
実隆は眉を八の字にして嘲笑した。反省の欠片も見えない友人に、京平はギリギリと歯を噛みしめながら彼の胸ぐらをつかみ上げた。
「一度本気でシメられたいようだな……」
「し、シメるだなんて、そんな!」
実隆はみるみる青ざめて、
「むしろ縛ってください。亀甲で」
荒縄を差し出す。
「ほ、頬を染めて言うな。この変態がっ」
京平こそ青ざめて実隆を突き放した。
「おやおや、京平殿は相変わらずのウブウブチェリーボーイですか……。これは結構結構。大いに結構」
実隆は快活に笑って、いそいそと荒縄をしまった。
「ねね、それよりオックン」
楓呼が二人の間に割り込んでくる。
「昨日やってたロードショー、見た?」
「もちろん見ましたとも。しかし主人公がただの弓矢で武装ヘリを撃ち落とすなどと言うナンセンスな設定はどうかと思いましたがな」
くいっとメガネを押し上げて実隆は批判回答する。
「えー? それがいいんだよぉ。あらゆる無茶を、夢と希望と監督の我儘で可能にするのがアクション映画の醍醐味なのサ。バンデラスはリロード無しにハンドガン一万発撃つし、カッセルはリボルバーで装甲車をぶっ飛ばすのだ」
「ほほぅ、それは奥が深いですなぁ」
二人は談笑しながらその場を去っていく。
「…………」
話について行けない京平は、呆然と彼らの背中を見送る───ままで済ますはずがなかった。
腕を伸ばして細い首根っこを捕まえると、容赦なく二人の頭にゲンコツを落とした。
「痛い!? ………ぐ、グーでなぐった……」
「暴力はいけません、暴力は! 粗野な拳は敏感肌のわたくしには合わないのです! 殴るなら是非ともこのスパンキングロッドでお願いします」
「ひどいよ痛いよ! 女の子をグーで殴るなんて男の風上にも置けないよ!」
「そうです早く殴って下さい! これで、この黒エナメルで!」
「うるさい」
噛み合わない非難をしてくる二人の顔面を鷲づかみ、開門の動作で押しのけて、京平は先を歩き出した。
「殴られるのがイヤなら、俺を突き飛ばしたり罠にかけたりするのをやめればいいだけの話だろーが」
「「うっ……!」」
根本的な問題を指摘されて、二人は返答に詰まった。
「これ以上おまえらの馬鹿な遊びに付き合うつもりはねェ。俺につきまとうな」
冷ややかに言って、京平はその場を歩き去った。
「あ、あにき───………あーあ、ホントに行っちゃった……」
「ご心配召されるな、楓呼さん。兄上殿は照れておられるのですよ」
「あ。なんだ、そーか。可愛いー、兄貴v」
「はっはっは、シスコン野郎はモテモテですなぁ」
† † †
「黙れっ!!」
二十メートルほど後ろで好き勝手なことをほざいている妹と悪友に怒鳴り散らし、あの二人には何を言っても無駄だと、今更ながらに思い知った。
確信犯で愉快犯どもめ。せっかくいい気分で登校していたというのに、ブチ壊しだ。
まあ、いつも早めに家を出ているから、あれだけ阿呆なことをやっていても遅刻することはないだろう。
子供の頃よく遊んだ公園を抜けて、フェンス沿いに校門へ向かう頃には、そろそろ学校のヤツらも顔を見せだした。
「おはよう、永禮君」
「おう」
「おはよ〜、ながれん」
「オス」
「なんや、今日は楓呼ちゃんおらへんのかいな」
「うっせーぞ」
京平は適当に返しながら校門をくぐる。
と、そこで他校の女子生徒が一人でたたずんでいるのに気づいた。
その女生徒は何をするでもなく漫然と校舎を眺めている。その眼差しはどこか懐かしむような、慈しむような、ある種の憧憬を含んでいた。
そんな彼女の持ち物は飾り気のないスポーツバッグと───目を引いたのが細長い布袋だ。察するに中身は竹刀だろう。
「……」
気が済んだのか。少女は学校を眺めるのを打ち切って、門のうちへと足を踏み入れた。
足音もなく歩く彼女はどこか朧気だ。黒の首環(チョーカー)を巻いた細い首。光加減で濡羽色になびく髪。背は高い。顔は前髪が掛かってよく伺えない。
「───っと、これじゃまるで実隆だな」
京平は苦笑して、少女に声をかけた。
特に下心があったわけではない。京平は生来お人好しのきらいがあり、困っている者がいれば誰彼構わず声をかけてしまうのだ。そして今回もまた御多分に漏れずだったようだ。
「よお。あんた、転校生か?」
振り向いた。少女の前髪が風に流れる。ぼんやりとした───しかし造形は恐ろしく整っている───日本人形を思わせる容貌。
こりゃうちのバカ妹とタメ張れるな。などと少々失礼なことを京平は考えながら、校舎を指さす。
「道分かるか? 俺でよけりゃ職員室まで案内するぞ」
「…………………………?」
少女はぼおっとした表情で眺めてくる。京平は気づかれない程度に目をそらした。あまりに視線が無防備なのでこちらが照れてしまうのだ。
「あ、べつにイヤならいいんだけどよ。うちの学校、なぜか職員室が一番離れた校舎にあって───」
そこで少女の顔貌(かんばせ)が狂った。
双眼は急激に険しくなり、唇の内で奥歯を鳴り合わせる硬い音が聞こえた。しなやかに身体を反転させて、左手に持った布袋を横殴りに叩きつけてくる。
「つぅッ……?!」
旋風。そんな表現がしっくりくるほど少女の打ち込みは迅かった。両腕に残った痺れるような痛みがそれを物語っている。
「(鞄で受けりゃよかった……っ)」
京平は心中でうめいた。あれは竹刀なんかじゃない。もっと重く堅い、木刀かなにかだ。手首かどこかにひびが入ったかも知れない。
───俺が何した? そんなに犯罪者面してるか? 声かけただけで木刀で殴られるか普通? あとで保健室に行こう───
そこでいったん思考を中断させた。第二撃がくる。容赦のない振り下ろし。
───躱せる。楽勝。現役空手部をナメんなよ。
余裕を持って上体を反らしたところで、剣撃の軌道が変化した。少女の手の中で布袋はくるりと回転し、真下から京平のアゴめがけて伸び上がってくる。
「ぐっ……あっ」
油断した。ちくしょう。メチャクチャ痛ェ。この女マジだ、イカレてる。
激しく揺さぶられた脳髄が不明瞭な単語の羅列を描く。そうしている合間にも少女は布袋から“日本刀”を抜き放ち───
「こらっ! なにしてるの京平君!」
京平を呼ぶ声に、少女の動きが止まった。
「…………。……助かった」
京平は門柱に背中を預けながら安堵の息をついた。
この声は校医の美作夕紀(みまさかゆうき)先生だ。京平はちょくちょく保健室に出入りしているので、彼女とは顔見知りになっている。
「…………」
少女から険しさが消えた。同時に鯉口を咬ます鍔鳴の音。
一瞬見えた金属の鈍い輝きは、布袋の中に再び隠され、そして夕紀校医が二人の前までやって来た。
「怪我はない?」
「……はい」
能面の表情に戻った少女の肩に手を置いて、
「京平君、あなたいったい何やったの?」
怒り顔の校医殿。これではまるでこっちが加害者のようではないか。
「………あのな、センセー。被害者は俺の方───」
「そんなワケないわね」
夕紀先生はきっぱりはっきり断言した。
「キミはきっと、この娘に何か痴態を曝したのよ。たとえば●●●を拡げて●●を見せたり、●●●にだけ穴を開けて横から●●したり、果ては●●●●で●●●したあげく●●まで……! ───ああっ、なんて破廉恥……」
「破廉恥なのはアンタだ」
頬を染めて身をくねらせる女医に、京平は白眼で指摘した。
「ともかく、この子は私が職員室に連れてくことになってるんだから、拉致や監禁しちゃ駄目よ?」
「するかっ!」
夕紀先生はぞんざいに手を振って、少女を連れて行ってしまった。
「ったく、なんだってんだ、いったい……」
痛む手の平よりも、殴りつけられた驚愕よりも、去り際に残した少女の眸が、いつまでも余韻として残り続けた。
暗く、陰鬱に、鈍い。
知ってる。あれは憎悪の光だ。